「どうして俺がこの戦争を始めたのか、か?そうだな。俺は一度、世界と戦った。そう、イタリアお前と初めて出会ったあの時代だ。俺は敗北し、帝国の名を剥ぎ取られ、皇帝の血すら 手放した。それでも俺は何とかやってきた。あいつが、恐慌なんぞを巻き起こすまではな。俺はふたたび疲弊した。それを立て直したのが、今の上司だ。俺の上司は、あの時代を繰り返す ことを望んだ。俺を奮い立たせるために、もう一度世界と戦うことを望んだ。そして、俺はそれに従った。
 だが本当はそれだけじゃない。俺たちにとって上司の命令は絶対だ。しかし俺が望んでいたのは、別のことだった。これは言うなればドイツでなく、ルートヴィヒの私情だ。
 俺はもう一度あの時代を繰り返してでもいやもっと酷い時代を生むことになったとしても、

 俺は、兄さんに 会いたかったんだ」



 ドイツとイタリアを挟んで、火がめらめらと燃えている。揺らめく光の向こうで、ドイツは手の中の布切れを広げる。
 黒いラインが二つ走る、白地の布切れ。
 兄はまだ、どこかで戦っているのだろう。戦火はまだ、この地球のどこかで、轟々と上がっているのだろう。今もなお燃えているのはベルリンだろうか、ローマだろうか、東京か、 ロンドンか、パリだろうか?それとも、シチリアやスターリングラードだろうか?
 黒鷲のいないプロイセン国旗を握りしめ、ドイツは宵闇の向こうに思いを馳せる。兄は、まだ帰らない。










 俺にとって、肉親と呼べるのは兄プロイセン一人きりだ。
 兄は俺の全てだった。
 戦術も、馬の乗り方も、兵たちを鼓舞するやり方も、戦場の怖さも、ひとりでない寝床の温かさも、全て兄から教わった。人でもなく国にも足りなかった幼い俺を形作っていたのは兄だ った。俺は兄を慕ったし、兄も俺を可愛がった。
 愛されていたのだ、と思う。あの人は、乱暴で、無作法がすぎることもしばしばあり、何より不器用な人だったが、俺に接する態度は、大変思いがこもったものだった、と思う。激しい 嵐の夜、ばたばたと鳴って止まない窓の外に眠れず、けれど戦場から帰ったばかりの兄に迷惑になってはいけないと、ひとりベッドで震えていた俺に、俺が眠れないから一緒に眠ってやる と横柄に言ってみせ、そのまま俺のベッドにどっかと寝転がって一緒に寝てくれたこともある。
 兄は俺のために戦っていた。元より戦うために生まれたこの身体、王のために戦うのは誇りだと、その王がお前なのだと、兄は何度も口にした。傷つかないでくれ、戦いに行かないで くれと聞きわけなく兄に泣いて縋る俺の頭を撫でて。兄は俺のために、オーストリアをフランスを打ち破った。ドイツ諸邦をまとめあげ、俺を帝位に押し上げた。



 そして、兄は消えた。



 何故お前が生まれたのだと、言われたことがある。プロイセンという人は、俺の兄は、一度なりと兄の敵になった国にとって憎らしい仇敵である半面、憎みきれない旧友であったよう だ。俺に第二の帝国を託して消えた兄を惜しむ者たちの、あの目を忘れない。何故プロイセンが消えてお前が残ったのだと。当時の俺の上司でさえ、プロイセンを惜しんだ。プロイセン が消えたことを悲しみ、俺が生まれたことを恨んだ。
 それは、俺が俺自身に抱いたのと、同じ感情だった。
 何故あなたは消えてしまったのだ。俺をヴェルサイユの玉座に座らせて、いずこかに消えた兄。俺の元には、兄が命を懸けて守った兄の国旗だけがあった。俺はふたり分のコーヒー カップ、ふたり分の食器、二人分の椅子が並ぶ部屋の壁にそれを張り付けた。プロイセン、ドイツ帝国の名の元に薄れて消えた国家。この国旗を掲げるべき国は、もうどこにもいないのだ 。俺はひとりきりのベッドの中で泣いた。もう一度だけ、ひとりでないベッドの温度が欲しかった。










 一度目の戦争が始まった。サライェヴォに上がった炎は、次にタンネンベルクに、マルヌに燃え広がった。俺もまた、国家として戦場に出なければならなかった。この家にも暫く帰れ まいと、ひとりの居間を見まわしたとき、俺は壁のプロイセン国旗がいつもと違うことに気付いた。プロイセンの、そしてドイツの象徴である、黒鷲がいないのである。こんなことが有り 得るだろうか?しかし、実際に黒鷲は消えていた。俺は本能に近いものを感じて、家を飛び出した。黒鷲の消えた、黒と白の国旗を掴んで。
 オーストリアの先行する戦場に駆けつけた俺は、信じられないものを見た。
 戦場に、一人の男が立っている。その男は、トリコーンを被り、目の覚めるような漆黒のマントをたなびかせ、時代遅れのマスケットを手に、戦場に立っている。あの男は、あの男は、

 プロイセンが、そこにいた!

 その瞬間の心の躍動を、誰が理解できるだろう!兄は18世紀の軍服を纏い、マスケットを握る手を高く上げて、ごろつき共よ永遠の生を得たいかと、ドイツの兵たちを奮い立たせる。 その姿は正に戦場に立つヴァルキューレだ。ドイツを阻むもの全て薙ぎ払うヴァルキューレだ!兄は生きていた!兄は生きていた!
 それからも兄は戦った。兄はどんな将軍より響く声を張り上げて兵を鼓舞し、ドイツに味方した。兄が拳を振り上げれば、兵たちもそれに従い、兄が敵勢を指し示せば、兵たちも一斉に 声を上げて突撃した。兄が戦に出ている間ドイツの手の中の国旗から黒鷲は消え、戦いが終われば黒鷲は国旗の中に戻った。信じられないことだが、兄はいるのだ。俺の為に、戦い続けて くれているのだ。

 しかし戦争が終われば、兄はまた、いなくなった。
 二度目の戦争が始まると、兄はまた現れた。俺の手の中で黒鷲が消え、俺は兄が俺のためにまた戦いを始めたのだと知った。
 だが俺は、兄が現れたことに、一度目のような心がふるえるような感情を持てなかった。
 それは、俺の中で、あれは本当に俺の兄なのかと、疑う感情があったから、かもしれない。

 戦場に現れる兄は、俺の声に応えない。
 俺に笑わない、
 俺に話さない、
 俺を、見ない。

 兄は戦うことしか知らぬ兵器のようだった。あれは本当に、俺の兄なのだろうか。それとも、黒鷲に染みついた兄の亡霊なのだろうか。戦が激しさを増し、底なし沼に徐々に沈んでいく ような恐怖に身を焦がしながら、俺は兄を恐れているのかもしれないと思った。戦場は日々増えていく。戦火の赤が青と緑を覆い尽くす。俺は止まらない、止まれない。兄はそれでも戦う 。戦い続ける。



 あなたはお兄さんを愛しているのねと言われたことを思い出す。死の匂いが肺に充満するような防空壕の中で、その女性はそう言った。だから寂しいのね。女は俺の手の中の、黒と白 の旗に優しく触れた。

 でも、もう十分じゃない。もう、休ませてあげなくちゃいけないわ。

 あの人の言ったことを覚えている。自ら迎える死を選んで受け入れたあの人の遺体に、オイルを捲きながら、火をつけながら、俺もいつか兄をこのように葬らなくてはならないのかも しれないと、ぼんやりした頭で考えた。

 そして終わりは訪れる。





 今も轟音の止まないベルリンの、倒壊したビルの一室に、俺たちは集まっていた。ザクセンが、バイエルンが、ヴュルテンベルクが、俺を構成する彼らと俺が向き合うのは、連合に 名を連ねる国々だ。降伏しろ、ドイツ。そう言ったのはアメリカだ。俺は、

 俺は、Jaと応えることしか、できなかった。

 崩れ落ちた俺に、諸邦たちが歩み寄る。よくやった、お前はよくやったよ、ドイツ。俺の肩に背に、諸邦たちの手の温度が触れる。俺は震える手の中の、戦火の中で焼け焦げて、ぐしゃ ぐしゃになった黒と白の国旗を広げた。そこに、黒鷲はいない。

 もういいんだ、兄さん、もう、戦わなくていいんだよ。

 兄は、まだどこかで戦っている。ドイツは負けない、われらは最後まで戦うのだと。
 それでも、もうすべてが終わってしまったのだ。俺が本当に恐れていたのは何だったのか俺は漸く理解する。俺は兄がこれ以上、傷つくことが怖かった。俺は次から次に落ちてくる涙 を、拭いもせずに兄の旗に染み込ませた。










 それから、
 辛く苦しい、重すぎる十字架に打ちのめされる日々が始まった。
 まず、立つことができなかった。戦前から兆候のあった、若き強国ふたつがとうとう明確に道を別ち、世界を二つに切り分けた。そして、俺もそれを逃れることはできなかった。
 ひとつしかない身体を、無理やりふたつに引き裂かれる痛み。真逆のイデオロギーを、ひとつの心に丸ごと孕ませる矛盾。人はもちろん、国として生まれたものでさえ、このよう な感覚を味わったものがいるだろうか。絶えず頭の中を塗り替えられる、気が狂いそうになる感覚を!
 俺は戦後暫くベッドから起き上がることすらできなかった。戦火が僅かなりと癒えれば、間髪入れず連日のように西と東の衝突が起こる。その度に俺は寝込み、シーツをめちゃくちゃに 乱して痛みに耐えた。起き上がって、自分でコーヒーのひとつも淹れられればいい方だった。
 居間の壁には、今もプロイセンの国旗がある。黒と黒のラインの真ん中に、白地を背景にして、王冠を戴く黒鷲が翼を広げている。兄はもう、戦わない。これでいいのだと思う。もう兄 は、戦わなくていいのだ。
 いよいよ東西の対立が明確なものとなり、国家が割れるのではないかというほどになると、俺の症状はますます酷いことになった。俺と同じく、戦後の爪痕が大きいオーストリアに面倒 をかけることもしょっちゅうになった。起き上がることさえ出来ず、熱にうかされ、身をふたつに裂かれる痛みに狂い悶え、俺自身の中に絶えず生まれていく矛盾に頭を抱えるのだ。
 アメリカか、ロシアか。西か、東か。豊かさか、平等か。
 選ぶ、選ばないの問題ではない。事実として、国民の感情として、上司たちの意思として、俺の中でそのどちらもが正当だと義務付けられる。ふたつの存在意義を、ひとりが持つこと などできるだろうか。いや、出来る筈がないのだ。
 俺はこのまま、気が狂うのかもしれない。それとも俺を母体として、また新しい国が現れるのだろうか。そうであってもかまわないと、俺は思っていた。とにかくもう、何も考えること ができなかったのだ。どうしようもなく安心する温度をくれるひとは、ここにはもういないのだった。





 何かあったらすぐに連絡をお寄こしなさいと、言い残してオーストリアは去って行った。もう、思考が朦朧とするような熱がずっと続いていて、自分がベッドに寝そべっているのかどう かさえ、曖昧だった。目を閉じて、ただ身体を休ませる。次に、俺は目を開けることができるだろうか。できなければ、それも致し方ないだろう。ただ、兄に申し訳ないなと思った。俺の 為に生きて消えて、二度も大きな戦に巻き込んでしまったあの人に…

 ふと、
 頭の上に、ひんやりとしたものが触れた。
 気持ちがよくて、落ち着く。
 俺は目を閉じて、安らかに息をした。こんなに気が楽なのは、戦後初めてかもしれなかった。
 誰かが、そこにいる。
 その誰かは、優しくて、ひんやりした手で俺の額を撫でる。温度のある、静かな声で、何事か呟いて、
 呟いて。

 次の瞬間、身体は嘘のように軽くなった。
 俺は飛び起きる。シーツを剥ぎ取り、ベッドから跳ね飛んだ。身体が軽い。俺は、直感のままに、居間へ出る。
 兄の国旗。
 そこに、黒鷲はいない。

 俺は床を蹴る。外へ、外へ!先程までベッドで張り付けになっていた病人はもはやいない。跳ぶようにして、廊下を走る。走る。玄関を抜けて、自分の足で外まで飛び出る!

 そこには、

 俺の頭上には、

 太陽の光を受けて金色に輝く、

 黒鷲が、一羽、飛んでいた。



「兄さん!!!!!!!!!!!!!!」



 俺は叫んだ。
 飛び立つ黒鷲に向けて、絶叫した。



「兄さん、もういいんだ、兄さん!!!!行かないでくれ!!お願いだから、行かないでくれ!!!!俺が全部背負うから!!!!もう、戦わなくていいからっ!!!!」



 黒鷲は、
 飛んでいく。

 東へ。
 東へ。
 …東へ。



「兄さん―――――ッ!!!!!!!!!!!!!」



 俺の叫びは虚しく空に掻き消え、
 黒鷲は、
 西ドイツを抜けて、
 東ドイツへ飛び去った。










「よぉ、ロシア」
「…何で、君がいるの?前の戦争で今度こそ死んじゃったと思ったんだけどなぁ」
「俺がそう簡単にくたばると思うなよ?」
「昔から思ってたけど、本当にしっつこいなぁ」
「つれないな。俺はお前の一部になってやりに来たんだぜ?」
「…ふうん、君が東になるつもり?僕は死に損ないの亡国はいらないよ」
「…はっ。おロシア様よぉ、俺様を誰だと思ってる?」

 彼は、
 プロイセンは、ケセセ、と声を上げて、憎らしく笑う。





「ドイツのお兄様、プロイセン様だぜ?」





 誇り高きアドラーは、その黒き翼を広げて、そこに立っていた。


燃えよアドラー

10/04/19