ルートヴィヒは己のルーツを覚えていない。
 彼の出自を知るのは唯一、姉ギルベルトのみだ。姉が口にする全てが真実かどうかは定かでないが(彼女は何事もいささか誇張して語る きらいがあった)、彼女が幾度も幾度も口にするフレーズがあった。
 ―――俺は王を見た。
 ルートヴィヒをそう形容して彼女は笑う。
 ギルベルトは女である前に騎士であった。主に仕える騎士が、傅くべき世界の王者を目にしたと彼女は言った。だからルートヴィヒに 仕えるのだと。…その言葉通り、ギルベルトは生涯をルートヴィヒに尽くした。オーストリアを押し退け、フランスを足蹴にして、ドイツ 諸邦を纏め上げ、掲げた帝冠を彼に捧げた。ギルベルト―――プロイセンの名はやがてドイツという肥大した国家集合体の中で薄れ、歴史 の表舞台から姿を消した。
 二世の存在、それは彼ら国家の具現においての消滅を意味する。
 ギルベルトとてそれを知らなかった訳ではあるまい。ヨーロッパという幾星霜もの同類がひしめく大陸。息をつく暇もなく書き換えられ ていく地図の東の片隅に彼女は土地を持った。離れた国土と国土、離れた民と民を背負って、彼女は戦わずにはいられなかったのだろう。 東の小国はやがて列強の末席に名を連ね、ドイツの頂点に立った。彼女は強欲で貧欲だったが、弟のことならばまったくの対極だった。 世界に冠たるプロイセン、そう賞賛される欲がなかったわけではあるまい。しかし彼女はルートヴィヒの頭に帝冠を置いた。ヴェルサイユ の息を呑むほど優美な宮殿で、玉座のルートヴィヒが賛美され祝福されるのを遠くから眺めていた。あれは俺が育てたんだ―――彼女の 表情は誇らしげだった。偉大なるドイツ帝国、皇帝の位を持つ人間が、どうして古きプロイセン国王の位に固執しよう。己を食い殺すこども を彼女はこの上なく慈しんだ。それはルートヴィヒがドイツとなってからも変わりなく、ルートヴィヒの傍らにあった。

 ルートヴィヒは錯覚していたのだ。
 プロイセンがあってなき物となろうとも、ギルベルトはルートヴィヒと共にあった。
 彼女はここにいるのだと、ルートヴィヒと共にあるのだと、無意識に確信していた。
 世界を知らぬ子供のバカな確信だった。
 しかし、それはルートヴィヒの真実だった。

 隔てられた兄弟。無理矢理に引き剥がされた同胞たちが抱き合ってキスを交わす。積み上げられた壁はあらゆる方法で粉砕された。あるいは倉庫で居眠りをしていたつるはしで、あるいは これ以上はない国民の歓喜で。姉はここに来ているに違いない。待っているに違いない―――ルートヴィヒは己の身の上も忘れて、壁の 向こうを見つめた。
 そこに、女が立っていた。間違いない。姉だ。ルートヴィヒと全く同色であった彼女の髪は白く、瞳は赤かった。しかしそれはギルベルト ・バイルシュミットに相違なかった。姉さん。そう呼ぼうとしたのだろうか。ルートヴィヒの声が寸前で引っかかる。彼女の背後に影が あった。それは、忌むべき影だった。東と西、姉と弟、同じ血を持つ同胞を引き裂いた男だった。
 …イヴァン・ブラギンスキ。
 極北の男は、ギルベルトの肩に手を置いてそこに立っていた。しかし彼女はそれを憂う様子はなかった。気遣うように肩に乗せられた イヴァンの手のひらを引き寄せた。支えあうようにして彼らはそこに立っていた。



(…ああ、何故俺たちはひとつではなかったのだろう)



 主は始めにアダムを創り、その一部からイヴを創った。…何故ふたりなのだろう。人間は一人ではいけないと、主は女を生んだが、イヴは 元々アダムの一部であった。ならばよいではないか、何故分かたれる必要があったのだ。ひとつであれば引き裂かれることも離れることも ないではないか。
 …だから、原初のふたりは交わったのだろう。
 ふたつである以上、アダムとイヴである以上、繋がるほかないではないか。例え楽園から追放されようと、そうしてふたりは人類の祖と なったのだ。食わなくてはならないのだ。食らわなくてはならないのだ。だからふたりに別れたのだ、我らは。

 主よ。
 呪うなら呪うがいい。

 貴方が全能なら、如何して彼女と俺を隔てたのだ。



愛しのベルリーナ