…息が詰まる。そう感じたのはフランスだけではあるまい。今回の議長国ドイツを中心として、テーブルは完全に真っ二つに別れていた。 彼方若き超大国アメリカ、彼方極北の王者ロシア。無機質に並ぶ机上のネームプレート。ここ半世紀余りというもの、西側と東側が出揃う 会議はこのような雰囲気が常であった。100年ばかり前からすれば想像もしなかっただろう、世界は完全に2つに分かれている。
 しかし、近年には変化もあった。フランスは隣席のドイツと、彼と向かい合って座る澄ました顔の女に目をやった。
 ―――ギルベルト・バイルシュミット。
 東ドイツを冠する彼女はフランス―――フランシス・ボヌフォワの数百年の友人だった。尤も悪友と言った方が相応しいだろう、 フランシスは思わず浮かんだ笑みを噛み殺した。東ドイツは無論東側、ロシアの影響下にある国家である。今の時点では、だが。という のは、もう1年も前になるある事件に端を発する。…ベルリンの壁の崩壊。東ドイツの上司の一発言から濁流のように溢れ出した両ドイツ 国民の感情は正しく自由を求める咆哮であり、引き剥がされた同胞たちのどうしようもない郷愁だった。東と西、国たるその身もそういっ た感情には抗えない。再会した姉弟は、国としては別れているものの、再び統一を迎えるであろうことは最早自明の理であった。
何時まで続くのだろう、そう思いもした。冷たい時代の終わりを告げるようなあの歓喜の叫びは耳に新しい。会議は少しずつ以前の形を 取り戻しつつある。下らなかろうと、温度のある言葉の応酬がわずかなりと増えた。それは確かに進展であり、また北の大国が崩れ行く音 と重なった。…冷戦は終わったのだ。あらゆる問題が山積みであろうとも、国々の距離が未だ修復され難いものであっても、それは確か なのだ。
 ドイツが淡々と会議の終わりを告げた。口々にそれぞれの言葉で了承の声が響く。一人が席を立つと、続々と各国がそれに続く―――隣席 と何事か呟き合う者、忙しなくスケジュール帳をチェックする者、早々と立ち去る者。国という生き物は基本的に皆奔放で自分勝手だ。 フランシスは目当ての人物に向かって手を上げた。「アーサー」無論、何と言っても会議室であるからある程度声は抑えて、二、三席 離れた向こうに笑いかける。アーサー・カークランドは一瞬迷惑そうな顔をして、「お前なあ、あんまり人前で声かけるんじゃねえよ」と 呆れた声で返した。本気で嫌がっていないのは明らかだ。坊ちゃんは隠し事が下手ね。そう言ってしまうと機嫌を損ねてしまうので、 クスリと口元で笑うだけに留める。会議後にすぐこんなやり取りができる空気が生まれたのもまた、近年のことだ。先日から、会議後 アーサーと出かける予定を立てていたのだった。昼食は会場であるドイツ国内でとることになっていたので、大体の目星もつけている。 会場からそう遠くない場所にあるカフェはルートヴィヒがフランシスに教えたものだ。今となってはフランスは国家としてドイツの一番の 友好国だ。国の料理はその国の人間が薦めるものが一番確実だとフランシスは信じている。行くか、と口にしたアーサーに従うようにして 退出しようとしたとき、聞き慣れた声が会議室に響いた。

「イヴァン!」

 人目を憚らない声。女らしくない、少々下品な野太い声―――ギルベルトは退出する寸前のイヴァン・ブラギンスキを呼び止めた。
 イヴァンだけでなく幾人かが彼女の声に反応する。あの大男にあんな物言いをするのは彼女だけだ。バルト三国を引き連れた件の彼は 大げさにびくっと体を震わせた。途端に、先程まで彼の周りに漂っていた空気が変わる…常人のそれになる。ギルベルトはカツカツと ブーツの音を立てて歩み寄りながら、早口のロシア語で何事か怒鳴った。彼女が口を開く度に大男の緊張で怒った肩が降りていく。壁の 崩壊以来毎度の事だが、バルト三国の動揺は分からないでもない。あれは一種の奇跡だとフランシスは思う。
 言ってしまえば、公然の事実としてギルベルト・バイルシュミットとイヴァン・ブラギンスキは恋人だった。壁の向こうではほとんど詳細 の知れなかった友人は、何時の間にやらイヴァンと一言では語りつくせぬ関係を築いていたらしい。その衝撃は世界を震わせたと言っても 過言ではない。何と言っても相手は東側の親玉である―――壁の崩壊以来、ルートヴィヒが持つ大戦以前に住んでいたベルリンの邸宅に 身を寄せている彼女であるが、こうして東ドイツとして会議に参加した後は、欠かさずイヴァンに声をかけるのであった。よくもまあ、 あのロシアに。フランシスは呆れ顔で、しかし微笑ましい光景を目にして笑った。…と、ふいに目を向けた先にはルートヴィヒが立って いた。フランシスは目を疑う。ルートヴィヒの形相は何とも形容しがたいものだった。食い入るような瞳で姉を見つめている。アイスブルー の瞳。炎が燃える。…情欲を含む光。思わずフランシスは悪寒を感じた。ギルベルトは気付いていない、誰も気付いていない。ぎゅっと 身を強張らせたフランシスに気付いて、アーサーがどうした、とその視線の先を追った。
 と、その時だった。ぐらり、と巨体が揺れる。眠るように後ろに倒れるルートヴィヒ。信じがたい速さで動いたのは姉ギルベルトだった。 「ルッツ!」会場内にざわめきが広がる。何が起こった?フランシスもまたルートヴィヒに駆け寄った。倒れたルートヴィヒ、それを 支えたギルベルトの周りに人の輪ができる。ルートヴィヒの顔は上気して、それは風邪の症状に似ていた。彼の国の経済状況が影響と 考えるのが妥当だが、そう深刻な事態でもない限りこんなことはないだろう、先程まで彼は平常と変わらず会議を進行していたのだ。 それとも体調が悪いのを押さえ込んでいたのだろうか?ともかく、専門家が必要だろう。医務室に、と姉が焦燥した声で口にした直後、 弟は薄く目を開けた。「…大丈夫だ、」ルートヴィヒはか細い声で呟く。大丈夫な訳ねえだろうが!ギルベルトが怒鳴るように言うと、 彼はギルベルトが握った手を両手で包んだ。

「大丈夫だ、姉さん」

 そう姉に笑う弟。微笑ましい姉弟の図が、フランシスには何故だか酷く恐ろしいものに見えた。


愛しのベルリーナ Act.2