「…本当に、大丈夫だと言ってるだろう、姉さん」
「駄目だ、許さん」

 俺は今回議長国なんだぞまだ仕事が残っているから、などと抜かすルートヴィヒを無理やり彼自身の車に押し込んで、ギルベルトは ハンドルを握った。上司連中には既に話はつけてある。「姉さん!」有無を言わさずアクセルを踏んだ。起動し始めたエンジンに揺られて 弟は漸く観念したようだった。
 先程の会議室を騒がせた一件は、ルートヴィヒの頑なな「大丈夫だ」という主張で収束した。頑強な彼の失態に周囲は動揺したが、 姉ギルベルトもまた例外ではない。彼女東ドイツは、壁が崩れてから西との経済格差が浮き彫りとなった。半世紀の長きにおいて、断絶 した国家の溝を埋めるのは容易なことではない―――ドイツたる弟の身体が、東の存在を負担としているなら、これ程己の無力さを感じる ことはなかった。助手席の弟は、矢張り疲れていたのだろう、脱力した様子で薄く目蓋を閉じている。幸いなことに自宅は会議場からそう 遠くない。自分を落ち着かせるように、ギルベルトは深く深呼吸した。

(…この身はルツに捧げなければ)

 ふいにぼんやり脳裏に浮かんだ北方の男を、彼女はすこし首を振って追い払った。



「ルッツ、起きろ。着いたぞ」

 逞しい肩を軽くぽんぽんと叩くと、弟は小さく呻いて覚醒した。微力ながらも肩を貸してやる―――百年前なら抱き上げてやれたろう――― と、素直に従ってよたよたと歩き始める。万全でない身体には寝室も遠く感じるだろう。おぼつかない足取りに合わせて、ふたりで歩いて いく。ルートヴィヒが済まない、と口にするので、謝んなってと笑い飛ばしてやった。弟を支え弟に付き従うのは当然のことだ。いつも より距離があったルートヴィヒの寝室に入ると、早々にベッドの上に寝転がらせた。ギルベルトも軽く腰掛ける。

「本当に済まない、姉さん。手間をかけて」
「だーかーら、謝るなっての。疲れてんだよ、ルッツ。むきむきの癖に働き過ぎだ」

 会話するときには目を見て話せと教えたからか、上半身を起き上がらせようとするのを片手で阻む。弟は大人しくされるがままになり、 姉は満足気に微笑んだ。

「ゆっくり休め。眠れるまで傍にいてやるからよ」

 昔みたいにさ、ケセセッと笑うと、屈強な弟は顔を柔らかく綻ばせた。彼は時折、存外幼い表情を見せる。半分とろんとした瞳で、弟は 呟いた。

「…本当に、傍にいてくれるか?」
「ああ、勿論さ。俺のルッツ」
 昔と変わらない声音でそう返すと、ルートヴィヒは安心したようで、そのまますうと寝入ってしまった。



 電話のベルが鳴ったのはそれから間もなくだった。
 誰だ畜生、弟が起きてしまわないか気遣いながら、極力静かに寝室を出る。
 大方倒れたルートヴィヒを心配しているであろう国々か、後回しにした仕事の処理を連絡してくる上司だろう。後者なら弟が寝ている内に 早々と済ませてしまいたい。ハロ、と受話器を耳に当てると、想定に無かった男の声が耳に飛び込んだ。

『アロー、ギルベルトくん』
「…イヴァンかよ」

 声の主はイヴァン・ブラギンスキだった。柔らかい、柔らかい男の声。先程またね、も言わずに別れた恋人の声が、ほんの少し胸を軽く したなんて認めない、断じて認めない。>

『かよ、って、酷いじゃない』
「悪かったな。何の用だよ」
『うん。弟くん、大丈夫だった?』
「…ああ。今は寝てる」

 そう、良かった、と電話越しに返す言葉は心底安堵したようだった。この男は何時も怯えた声をする。『僕これからうちに帰るから』と イヴァンが言う。じゃあ、と短く口にして電話を置かれる前においイヴァン、と、およそ愛を囁くには遠い物言いで呼び止めた。

「お前も、あんまり無理すんなよ。大変だろ、そっち」
『…心配、してくれてるの?」
「当たり前だろうが」

 ふんと鼻を鳴らすと、少し面食らったように黙り込んでからえへへ、と小さく笑うのが聞こえた。何だこいつ、照れてやがるのか。 イヴァンは喜んでいるのも悲しんでいるのも分かりやすい。そういうところが嫌いではない、と思う。「そういうところ嫌いじゃねぇ」 思いついたままに口にすると、イヴァンはまた黙り込んでしまった。この男は口に出さなけりゃ理解できない癖に、真正面からの感情を 受け止めるのを慣れない。その癖いつも人の言葉を疑ってかかる。だから愛おしい、その言葉は飲み込んでおいた。今度直接言って やろう。そうしたら奴はどんな顔をするだろうか。そんな光景を思い浮かべてニヤリと笑みを浮かべつつ、「じゃあ、また今度の会議 でな」と口にする。口にした。が、途中で言葉が切れてしまう。

「…何をしているんだ、姉さん」

 遮ったのは弟の声だった。地を這う様な低い低い声だった。

 弟は重々しい足取りで此方に歩み寄る「ルッツ、なんで起きて」「うるさい」再び遮られた言葉の続き。ギルベルトは底知れぬ感情を 抱いた。目の前にいるのは弟だ。確かに弟だったが、アイスブルーの瞳には暗い炎が轟々と燃えていた。

『…ギルベルトくん?』

 受話器の向こうのイヴァンの声、が、遠くなる。ルートヴィヒは乱暴に手から受話器を奪い取り、がちゃんと音を立てて置き捨てた。 外部からの接続が途絶えた空間で、ギルベルトは思わず身を竦ませた。弟に対して怯えを見せる彼女をルートヴィヒは冷酷な目付きで 見据える。「い、痛い、ルッツ!」そのまま抗いようのない力でギルベルトを床に組み伏せた。

「傍にいてくれると、言ったじゃないか姉さん」

 頭上に見える弟の顔は、床に強かに打ち付けられて滲んだ涙で歪んで見えた。


愛しのベルリーナ Act.3