ボヌフォワ様、ボヌフォワ様、お電話が来ております。ボヌフォワ様、おられましたら、至急カウンターまでお出で下さい―――。
 アーサー・カークランドは絶望した。国際会議は相も変わらず重苦しいわ、終わったと思ったらクラウツがぶっ倒れるわ、挙句の果てには 折角のアフタヌーン・ティーにこれだ。無駄に体格の良いドイツ娘のウェイトレスの声を聞いて、向かい合って座ったフランシスは不審 そうに何かしら、と言いつつもそそくさと席を立ってしまった。まったく不快だ。極めて不快だ。フランシスが注文したアプフェル シュトゥルーデルにざっくりナイフを入れた。透ける位に薄い生地は切り進めるたびに快感を覚える。付け合せのアイスを乗せて口に 入れれば、クラウツもいいもん食ってんじゃねえかとごちた。甘く煮たリンゴの酸味。意味は知らないが、アップルパイのようなもの だろう。アーサーはドイツ語が読めない。ドイツの血統をくむ王家を戴く国がねえ、とあの女は茶化してみせるが、王は君臨すれど統治 せず、とまで言われた時代もあったのだからお互い様だ。尤も、三百年は前のことだが。どちらにしても我が国の言語はもはや世界語の 地位を獲得しているのだから、問題は無い。
 アーサー、と聞き慣れた女の声。視線を上げると、フランシスが戻ってきていた。気だるげに美しい巻き毛を掻き揚げる。嫌な予感が した。口の中のアプフェル、なんとか、が少し苦くなった気がする。「悪いんだけどさ」ああやめてくれ、そこから先は聞きたくない。

「車回してくんない、ダーリン。ルイんちに」
「―――いいとも、ハニー。デートの邪魔したジャガイモ野郎をブチのめしにな」

 皿に残ったパイ生地を、突き破る勢いでフォークの刃が貫いた。ルドウィグ、お前もこうしてやる。



「何でイヴァンの奴、あの店のベル番知ってたんだ?」
「あたしが教えたのよ」

 なんだ、俺だけじゃなかったのかよ。不満げに鼻を鳴らす。露仏同盟の縁は意外なことにまだ続いていたらしい。そもそも会議場がらそう 遠くない位置にある先程のカフェは、彼女の隣国ルートヴィヒが教えたものだというから、どちらにしろ二人の秘密という訳にもいかないだろうが。 いや、そんな秘密があったとしても嬉しくともなんともないが。そうとも、嬉しくなんてない。本当だ。
 フランシスの話では、電話をしてきたのはイヴァン・ブラギンスキだった。どうやら、奴がドイツの片割れ―――ギルベルト・バイル シュミットと電話している最中に、様子がおかしくなったらしい。彼はもう空港に入っているらしく、自分もすぐに向かうが近くにいる ならば様子を見てきてほしい、とのことだった。半世紀ぶりにオフで顔を見せるようになったあの女がイヴァンと付き合っているなどと 聞いたときには、とうとうあの女気が狂ったか、と思っていたが、それをフランシスに言うと「あたしもそう思ったわ」と返されたもの だった。しかしアーサーよりは幾分彼女への親しみを込めた響きであったが。

「イヴァン、相当焦ってたわ」

 そりゃもう可哀想な位にね。フランシスは窓の外を見ながら呟いた。あのきんきんに冷えたウォッカしか身体の中に巡っていなそうな あの男が、随分と進歩したものだ。イワンにも人間らしいところがあったんだな、と冗談めかして言うが、フランシスは返さなかった。 こいつも存外焦っている。皮肉をしまって車を走らせた。



 ベルリン市内のルートヴィヒの自宅に到着するまで十分もかからなかった。人気の無い自宅前に車を置くと、フランシスが早々に立ち上が った。彼女を追いかけて自分も車を降りる。フランシスはごんごんとノッカーを鳴らした。気を急いた様子で何回も何回も。マナーがない、 と咎めることは躊躇われた。車はある。確かに人の気配はする。しかし、静か過ぎるのだ。構うことは無い、開けてしまえ。ドアに手を かけると、鍵は開いていた。嫌な予感がする。口の中が、苦い。「フランシィ、待ってろ」一人で踏み込もうとしたが、フランシスは ふるふると首を横に振った。色白い肌がわずかに青ざめていた。ドアを開ける。静か過ぎる室内に歩を進める。不法侵入云々の問題は 後にしておこう。気配がする方に、歩いていく。アーサーよりはこの家の主と交流があるフランシスが先導するように前に出る。足を 速める。人の気配が近づいていた。玄関から入って少し歩いた場所に電話台があった。そこにこの家の姉と弟がいた。フランシスが息を 呑む。
 ルートヴィヒの手で床に押し付けられたギルベルトと、かちりと目が合った。

 アーサーよりも逞しく引き締まった男の身体が吹き飛んだ。全力で他人、それも国を殴ったのは海賊時代ぶりかもしれない。「ギル、早く こっちおいで!」フランシスが呆然とした様子で床に身を預けたままのギルベルトの身を起させて引き寄せる。ギルベルトは状況が 掴めないようだった。上着は帰宅後脱いだのだろうが、着衣に乱れは、ない。一瞬目をそちらにやって確認をしてから、男に向き直った。

「てめえ、何してやがるっ!!」

 一メートルをゆうに飛んだルートヴィヒはうっと呻きながら身体を起こした。殴り飛ばした顔の左半分が痛むのだろう、片手でこれでもか と赤くなった頬を抑えて、ルートヴィヒはのろのろと顔を上げた。反撃を予想して臨戦態勢は解かない。しかし、想定に反してルート ヴィヒは何も行動を起こさなかった。姉と良く似た呆けた顔をして、あ、と意味を持たない呟きを漏らした。

「…俺、は?」

 身体全体の緊張が少しずつ抜ける。力一杯握り締めた拳は次第に落ちていった。

「ねえさん?」

 ルートヴィヒは姉の様子に気付いて、心配を孕んだ声音で姉を呼んだ。同時に、ばたばたとイヴァンが駆け込んでくる。はぁはぁと息を 切らせた大男に、その女暫く連れて出てろ、と命じる。イヴァンは素直に従って、ゆっくりギルベルトを立たせた。話さなければならない ことが、沢山ある。



「自分が何をしたか、分かっているか」

 居間まで歩かせてテーブルにつくように促すと、ルートヴィヒは大分頭の回転を取り戻したようだった。ああ、と男が空虚に頷く。彼の顔 には、彼の国の深い深い黒い森のような苦悩の表情があった。隣に座ったフランシスが、「…なんで、あんなこと、」と声を震わせる。 …フランシィが震えている。自然と拳をぐっと強く握った。

「分かっている…記憶はあるんだ。家に着いてすぐ横になった。姉さんは、傍にいてくれると言ったんだ。だが、目が覚めたら姉さんは いなかった。そうしたら、頭が…頭が、会議室の時のように熱くなった。だが俺は、俺はその時どこかで冷静だった。…食わなければ ならない、俺は、姉さんを食ってしまわなければならない。俺たちはひとつだ、そうだ俺たちは一つにならなければ。だから俺は姉さんを」

 はっ、と気付いたようにルートヴィヒは頭を抱え込んだ。「何を、言っているんだ、俺は」姉さんを抱きたいのか、俺は。十月を迎えよう としている室内は、暖房機能もなく寒いくらいなのに、ルートヴィヒの額には脂汗が乗っている。ごつごつした手で頭を掻き毟る。吐き気 がした。これが国という存在の業か。



 統一を迎えようとする目の前の男は、姉を食い殺すことでその日を迎えようとしていた。


愛しのベルリーナ Act.4