ローデリヒ・エーデルシュタインが自宅にテレビを置くのを決心したのは周囲の国々より大幅に遅かった。90年代を迎えた今も二重帝国 時代に建てた古巣に住まい、ふと浮かんだ旋律をつぶさに書き留め、ピアノの調律を欠かさない。帝国を名乗らなくなっただけで、彼は 十六、十七世紀と変わらぬ生活をしていた。変動、変化を嫌う彼は、情緒を損なうとしてテレビという文明の機器を歓迎しなかった。 しかし時代は変わるものである。今となっては違和感無くでんと存在を主張するそれをローデリヒは感慨もなく眺めていた。

『本日を持ってドイツが、完全な主権を獲得しました。ベルリンに対する連合国の全ての権利は、今月3日をもって失効することとなり ます。とうとう東西ドイツの統一は秒読み段階となりました―――』
「…あなたが映っていますよ、ルートヴィヒ」

 テレビの液晶から目を離さないまま、ローデリヒは向かいのソファに腰掛けるルートヴィヒに話しかけた。画面の端に自分自身を見つ ける。国民の感情が己を沸き立たせたのだろう。なんと晴れやかな顔だろうか。数時間前の自分に驚愕した。今の自分はきっと酷い顔を している。

「そろそろ帰ってはいかがですか」
 ローデリヒの声は疎ましげな響きも哀れみの響きも無く、ただただ平坦だった。
ルートヴィヒは未遂に終わった凶行に走って以降、一週間は家に帰っていない。家に帰れば、姉がいる。姉を前にすれば、自分は何をする か分からない。理性を失った自分に恐怖した。しかし、あの時どこかで冷静な自分がいたのも確かだった。
 ―――食べてしまいたい。
 頭の中に浮かんだ欲望が情欲が、ずっと消えなかった。自分がその行為に及ぼうとしたその日に、アーサーとフランシスに諌められたその 日に、ルートヴィヒは自宅から逃げ出した。イヴァンに連れられた姉が戻ってくるのと入れ違うように家を出た。ルッツ、待って、と姉が 叫ぶ声が耳から離れない。姉は追ってこなかった。自分を諌めた彼らの誰かが引き止めているのかもしれない。それが、正解だ。姉さんは 俺に会ってはならない。

 数分前席を立ったローデリヒが、金の装飾が付いたトレイを持って戻ってきた。トレイにはティーポットとカップが二つ、それから茶菓子。 作り置きですが、と前置きしてから、テーブルにトレイを置いた。これはどこどこのお茶で、このクルーラーはどこどこの小麦粉を、中の ジャムは、油はなど、付き物の長い解説は無く、召し上がりなさいとパン菓子を載せた皿を寄越した。ダンケ、と礼を述べて紅茶に口を つける。取って置きであろうローデリヒの紅茶は、赤いバラの味がした。
 家を出たといっても、仕事を捨て置く訳にはいかない。故にここ一週間はローデリヒの家から職場に通っていた。無論ギルベルトとも 顔を合わせることになるのだが、あの日からろくに話もしていない。いや、できなかった。…自分は今も昔も周りに支えられてばかりだ。ローデリヒには多大な迷惑をかけてしまっていたが、彼はこれまで一言たりとも非難の言葉を 浴びせることはなかった。何を言うことも無く、食事の時間には爆発音を立てつつも食卓を準備し、午後に小さな茶会を開いた。――― そろそろ帰ってはいかがですか。ローデリヒは繰り返して言った。カップをかちゃり、と置く。

「…それは、できない」
「何故ですか」
「俺は、姉さんを食ってしまう」

 彼は眼鏡の奥の暗紫の瞳を光らせた。無駄のない優雅な仕草でカップを口につけてから、それは最初から危惧されていたことです、今では なく百年も前から、と淡々と言った。そうだ、姉はまたローデリヒは知っていたのだ。プロイセンがドイツの頂点に立つとき、ドイツと 同一になるとき、プロイセンの名はやがて歴史に埋もれるであろうことを。それでも彼女は生き長らえた。元々の住民が離れ移民が溢れて 有名無実となった州で、消えてもおかしくない状況で、彼女は生き長らえた。やがて二度の大戦の後、姉は東に行った。俺はこの為に死に 損なってきたんだよ、と彼女は笑って、壁の向こうに行ってしまった。しかし、その時代は終わった。冷たき時代は過ぎたのだ。壁は崩れ 去ったのだ。それなのに何故俺は彼女を望む。ルートヴィヒは己を図りきれなかった。共存でなく、吸収を何故望むのだ。姉は戻ってきた のに。もう姉は消えたりは、しないのに!
 ローデリヒの声に気付いて顔を上げる。ああ、また思考が沈み込んでしまったらしい。掻き毟った頭皮はきっとまた充血している。ぐちゃ ぐちゃになった頭に貴族の声は氷水のようにひんやりと流れ込んだ。しかし、熱は収まらない。逆にローデリヒに対する反感が生まれる。 感情の奔流は止めようがなく、ルートヴィヒの口から急速に流れ出た。

「お前は、何故冷静でいられる!」

 ローデリヒは表情を変えない。

「俺が、俺がこのままでいたら、本当に、姉さんを食い尽くしてしまったら、…姉さんは消えてしまう!だが、止められないんだ! どうしても!止められないんだ!死にでもしなければ止められない!」

 ルートヴィヒはそこで一息置いて、「そうだ、」と呟いた。

「そうだ、…死んでしまえばいいんだ。ローデリヒ、頼む、ローデリヒ・エーデルシュタイン…オーストリア!俺を殺してくれ!髪の一筋 残らないように殺してしまってくれ!…そうすれば姉さんが『ドイツ』になる!ヴェストが、俺が死んでしまえばオストが姉さんが 『ドイツ』になれるんだ!だから、ローデリヒッ」
「お黙りなさい」

 ルートヴィヒは反射的に口を噤んだ。ローデリヒの反論は短く、言葉を荒げることはなかったが、これ以上はない苛立ちと威圧感を含んで いた。もう何も言うな、とでも言うように目尻を酷く歪めていた。それはローデリヒには極めて珍しいことだった。

「あなたの言葉はあの方を侮辱しました」

 ローデリヒは音を立ててティーカップを置いた。数百年来の宿敵、不倶戴天の敵、ドイツ統一から自分を追い出した女、古きに渡る同胞を 彼はあの方と呼んだ。

「あの方は百年前から死を覚悟していました。いえ、その前から、あなたを拾った時からかもしれません。我らにとって二世の存在は死を 意味しますからね。だからこそあの方はあなたに尽くしました。あなたを世界の王にするのだと、何度も何度も口にしていました。あなた を生かすために、生涯を捧げてきたのです。それがあの方の、ギルベルト・バイルシュミットという女性の全てなのですよ」

 そうだ、知っている。俺は知っている。姉さんが俺に全てを捧げてきたことを。俺を国として存在させるために、俺を生かすために、 姉さんは全てを捧げてきたのだ。ルートヴィヒが己の生を否定することは、ギルベルトの生を否定することだった。何故なら、彼女が ルートヴィヒを歴史という膨大な海から拾い上げたその時から、姉弟は同一だったのだから。

「彼女の生を無意味にしないで下さい」

 ローデリヒはぽつりと呟いた。彼のその少ない言葉の中に、ルートヴィヒが知らない何百年という歴史が渦巻いているのだろうと思った。



一週間ぶりに戻った我が家だった。ノッカーを鳴らしていると、まるで客人のようだなと思う。それでも、そのまま家に入っていくのは 躊躇われた。家の中からはすぐに反応が現れ、ばたばたと走ってくる音が聞こえた。ああ姉さん、そんなに慌てないでくれ、俺より年上 なのだから。

「姉さん、ただいま」

 開いたドアの向こうに、姉が立っていた。姉は顔をくしゃくしゃにして泣いた。おかえり、と言おうとするのが分かる。心が確かに 繋がっていた。ルートヴィヒは昔より大分痩せてしまった姉を強く強く抱きとめる。この人は、こんなにも小さかったのだ。


愛しのベルリーナ Act.5