フランシスくんに連絡できて良かった。イヴァンは心底そう思った。フランシス・ボヌフォワとは西欧諸国の中で比較的個人間での交流が ある。その縁で、彼女がルートヴィヒが勧めたドイツ国内のカフェを以前に教えてもらっていたし、彼女が会議後恋人とそこに立ち寄る ことも聞いていた。そうでなければ、どうなっていたか想像したくない。上司を先に帰らせてまで空港から駆けつけた自分は間に合わな かっただろう。フランシスとアーサーが数十分前に寛いでいたであろうカフェテラスでに、今はイヴァンがいる。向かいの席には、 ギルベルトが座る。アーサーの言葉に従って彼女の家を出てきたが、ギルベルトはまだぼんやりとしたままだ。ウェイトレスが話しかける ―――多分、ご注文は何ですか、辺りだろう―――と、ゆらりとドイツ人の女の子を見やって、メニューも見ずに注文した。ウェイトレス は何事か手元のメモに書き込んで店の中に引っ込んだ。「茶ァと、プレッツェルだ」彼女は今度はロシア語で注文を繰り返す。そのまま 脱力して、行儀悪くぐだりと椅子の背もたれに全身を委ねた。

「…フランシスとアーサー呼んだの、お前?」
「うん、そうだよ」
「悪かったな。帰国途中に」
「ううん、いいんだ。いいんだよ。ギルくんが、無事でよかった」

 イヴァンはつっかえながら、言葉を並べた。自分はあまり言葉を渡すのも受け取るのも上手じゃない。だいじな人には特にそうだ。 ギルベルトはイヴァンの言葉を聞くと、そうかな、と呟いた。

「俺、よかったのかね」
 え、と呟いて、身を竦ませる。ギルベルトは自嘲するように乾いた笑いを漏らして、脱力したまま空ろに頭上を見上げた。

「ルツが不安定になったのは多分俺のせいだ。ルツはドイツは、東西は一つになるのに、俺たちはふたりだ。俺がいるからルツは、苦しん でる。残るのは俺じゃねぇ、ルツだ。だったら俺は、」

 消えちまったほうが、都合がいい。
 彼女はそういって、ケセ、と笑うのだ。

「…おい、イヴァン?」

 お前泣いてんのか、と言われて頬の辺りを擦ったら冷たかった。ぱたぱたとテーブルに涙が落ちる。ああ、僕泣いてるんだ。泣いてるんだ、 と自覚すると、うぇ、と泣き声まで漏れてきた。何で涙が出てきたのか自分でも分からない。頭に浮かんだ言葉を必死で掴み取る。どれだけ 困難でも、言わなければ伝わらないこともあるのだと、教えたのは彼女だった。

「ぼくは、君がいなくなっちゃ、いやだ」

 つっかえ、つっかえ、ゆっくりと、心の声を吐き出した。いやだ、やだよぅ、と言ってしまうと、際限なく涙が零れてくる。すると、 無気力だったギルベルトはがばりと身体を起こして「おい、イヴァン泣くんじゃねえよ!」と焦ってイヴァンの頬を両手で包んだ。 おかあさんみたいだ。「だって、だいじだもの」ぐしぐしと鼻をすすっていると、彼女はああもう、と参ったように「おまえかわいい!」 と目一杯手を伸ばしてイヴァンを抱き締めた。ほっぺが熱くなって、途端に此処は国外で公共の場であることを思い出す。しかしぽろぽろ 零れる涙も目の前の恋人も止まりやしない。「ちょっと、ギルベルトくんっ、苦しいよ!」「知るか。かわいい。あーおまえかわいい。 愛してる!」ああ恥ずかしい、ぽこぽこ、湯気が出そうだ。ソビエトの総力でギルベルトを引き剥がす。向かいに座るこちらまで乗り出して きた体を本来の場所まで戻すと、ギルベルトの瞳はいつもと変わらない。爛々と輝く赤い瞳だった。

「安心しろ。俺だって、死にたかねえ」
 まあとりあえず茶ァ飲もうぜ、とギルベルトは傍らのウェイトレスを促した。トレイに二つ並んだ紅茶は湯気が見えない。何時から見られて いたのだろう、イヴァンは雪穴に埋まりたくなって頭を抱えた。ギルベルトは悪びれもせずにケセセと笑い声を上げた。



「デートしようぜ、イヴァン」

 ベルリンの彼女から連絡が来たのは、十月に入って間もなくだった。
 今からそっち行ってもいいか、と彼女が続けて、イヴァンは動揺した。時計を見ると、もう五時を回っている。こんな時間からだと帰りが 遅くなってしまわないだろうか。その旨を伝えると、「今、会いたいんだよ」と少し声量を弱めたギルベルトの声。一時間だけでもいいんだ。 最初から答えは決まっていた。イヴァンがギルベルトの申し出を断る筈なんてないのだ。
 待ち合わせは赤の広場。ドイツからなら一時間は来られないだろう、とは分かっていたが、受話器を置くとそのまま屋敷を出た。 (待たなきゃいけないだろうなぁ、)と頭に浮かんだが、足は止めなかった。赤の広場、僕の庭。すぐに彼女を見つけられるように、 見渡しのいい聖ワシーリー聖堂に足を向ける。十一個の聖堂がそびえる足元に、英雄がふたりと、ひとりの女性が立っている。イヴァンは 目を見開いた。よう、とギルベルトが左手を上げる。英雄ミーニンとパジャルスキー公爵の像の前で彼女が立っていた。

「遅ぇよ、イヴァン」
「君が早いんだよ」

 きっと彼女はロシアに着いてから連絡を取ったのだろう。イヴァンが留守にしていたら、もしか誘いを断っていたらどうするつもりだった のか。「俺のカレシだからな」彼女は心を見通したように呟いた。俺とのデート、断るわけないだろ?不敵な物言いに何か言ってやりた かったが、彼女の言う通りだったので困ってしまった。彼女は満足げに笑っていた。

 彼女の手を取って歩く。今日は十月のこの時間帯だというのに珍しく太陽が照って、ぽかぽかと暖かい。そのせいか赤の広場の人通りは 多かった。行き来する人々を見ながら歩くのは楽しかった。「あのカップル、片方ドイツ人だな。間違いねぇあのイントネーションは 俺んちの奴だ」「綺麗な金髪だねぇ。うちの皆金髪大好きだから、あこがれるの分かるなぁ。同じ年代っぽいし、何年か前うちに留学して きて、今も続いてるってところかな」「悪くない推理だ。あとあのドイツ男は上げ底だな」あの人はあの親子はあのカップルはと、観察に 考察を加えてぺちゃくちゃ喋りたくる。
 途中の露店でファーストフードを買った。熱々のジャガイモを一個丸ごと使ってこれでもかとトッピングされたそれにギルベルトは目を 輝かせた。お前のおごりだぜ!と言われることは覚悟していたので、二人分の代金を取り出す。「イヴァン、愛してる!」「ギルベルト くんの愛は時々軽いよ…」「何言ってんだ、いつだって全力だぜぇ?」ケセセ!と笑う彼女はそのままジャガイモに噛り付いた。彼女は 一口が大きいのだ。イヴァンはほふほふと小さい口で頬張る。上機嫌で具材のキノコを咀嚼するギルベルトに、火傷に気をつけてよ、と 声をかけると、「もうやっちまった!」とからから笑った。ああ、ばかじゃないかこの人は!そんな笑顔まで可愛いなんて思うのは末期 症状だと思う。ギルベルトの顔を見ていられなくなって目を背けていると、彼女の笑い声が止んだ。食べ終わったファーストフードの包み紙 を握り締めて、真っ直ぐになにかを見つめている。

「…ブーケだ、」

 彼女の言葉の通り、赤の広場の床石の上に華やかなブーケが置いてあった。「結婚式があったんだね」ロシアには結婚式を挙げた新郎新婦 が名所を回り、ブーケを置いていく風習がある。おそらく幸せなふたりはもう引き揚げてしまったのだろう―――ギルベルトはブーケの あるほうにぱたぱたと走っていった。慌ててそれを追いかける。今日は少し気温が高い―――日なたに置かれたそれに駆け寄ると、太陽の 光がひときわ眩しく感じた。

「…あーあっちいな」
「今日は、日差しが強いからね。モスクワには珍しい」

 そうだ、とイヴァンは羽織っていた薄いコートを脱いだ。「日除けにはなるかな?」とギルベルトの頭に軽く乗せる。「おお、ダンケ!」 キャッキャと子供のように騒ぐギルベルトは、一瞬何か思い出したかのようにきょとんとして、一際大きく笑い声を上げた。

「どうしたの、ギルベルトくん?」
「ははっ、お前、気付かねえのかよイヴァン」
「なあに?」
「ベールみてぇ」

 これ、さ。ギルベルトは頭の上のコートをひらひらとさせた。

「俺、花嫁かよ」

 彼女は笑っている。

 イヴァンはギルベルトを抱き寄せた。彼女とイヴァンの向こうで教会の鐘が鳴るのが聞こえた。それは旅立つ二人を祝福する音色なんか ではなく、国歌を国家を讃えるそれだ。足元にはブーケ、頭上にベール、そしてお誂え向きの鐘の音、そう、まるで花嫁だ。イヴァンは どうしようもなく泣きたくなった。覆い隠すようにキスをする。今だけは僕でいさせて。今だけは、国家でもなく国民でもなく、 イヴァン・ブラギンスキですらなく、ただこのひとを愛する僕でいさせてください。



(消えてしまいたい)



 さいごのキスは、どうしようもなく彼女の味がした。


愛しのベルリーナ Act.6