「姉さんは死んだ。俺が殺した」

 ルートヴィヒの反応は淡々としたものだった。かつて自分も身を寄せていたベルリンの邸宅にローデリヒ・エーデルシュタインは足を 向けていた。出迎えた邸宅の主は彼なりの親しみを持ってローデリヒを出迎え、中に通した。半世紀ぶりの住まいである。内装は細部を 別として変わった様子はなく、その情景は二度目の大戦以前の時代を想起させた。記憶の中に存在しながら、現在に存在しない彼女を思った。
半世紀前、そして彼女がこちら側に帰ってきてから使い続けていた彼女の部屋は見慣れない風景を作り出していた。意外なことに彼女は 昔からよくよく本を読むし、日記をつける習慣もあった。しかしそれと思われるものは室内に存在せず、がらんどうな空間が広がっていた。 自分には知られないようにしていたようだったが、かの王の時代からであろう、よく興じていたフルートも、その楽譜と見られるものも、 見つけることは出来ない。残されていたのは汎用的な道具、例えば書類に使う羊皮紙や万年筆、寝具といった、およそ人間や人間に似た 我らが形見として抱いていくには足りないものであった。ローデリヒは不思議と疑問を抱かない。彼女がこの結末を予測していたなら、 有り得ることだった。彼女は自分の痕跡を残すような女ではない。ローデリヒはかの女と長きに渡り憎しみと痛みを、時代を共有してきた 同胞であった。彼女の死は、ローデリヒの予想以上に彼自身に喪失感を与えていた。
 ふと、木製の寝具に視線が向いた。未使用の白いシーツ、皺一つ見られない几帳面な白いシーツ。その上に、白い便箋が置かれていた。 ひとつ折られた飾り気の無い便箋。導かれるように貴族の指が伸びる。す、と便箋に指が触れて、浅い折り目は簡単に開いてしまう。 古い字体のドイツ語、彼女の字だ。ああ、ああ、これは。これは。

「…なんで、止められんかったんやっ!!」

 部屋の外で、甲高い女の怒号。イサベル・フェルナンデス・カリエド、ローデリヒがかつて婚姻関係を結んでいた女である。只事ではない 様子であったが、しかしローデリヒの手は便箋から離れなかった。注意深く聞き耳を立てると、応対するルートヴィヒの声が聞こえる。 その声音は冷静そのものだ。幾人かの話し声、に、異音が混じる。ドアが鳴る。それを感じてローデリヒは、便箋を手にしたまま部屋の ドアノブを握った。頭のどこかをちりちりと燃やす何かがそうさせた。訪問者をローデリヒは確信している。
 ばん、と扉を開くと、居間には家主ルートヴィヒ、イサベルの他に、フランシス・ボヌフォワ、アーサー・カークランドの姿が 見られた。一同は総じてローデリヒに視線を向けた。ローデリヒは彼らを見回すように一瞬なりと目を向けるのみに留めた。彼の捉える べき人物は、今まさにここへ訪問してきた。

「…ギルベルトくんは、もう、いないんだね」

 ―――イヴァン・ブラギンスキ。
 東側の総大将、崩れ行く玉座の王は、震える唇を開いた。「ええ、いません」ローデリヒが答えると、大男は澄んだ紫の瞳を揺らした。 冷徹かつ冷血な北の王者、その余りにも人間じみた様子に誰しも口を噤んだ。

「あなたに見せたいものがあります。イヴァン・ブラギンスキ、来なさい」



 ローデリヒの言葉に従って、イヴァンは室内に招き入れられた。ギルベルト・バイルシュミット、弟に食われて死んだ女の部屋だ。  ローデリヒは手の中の便箋をイヴァンに示した。「あなたのものだと思います」ドイツ語ですが、読んでみなさい。イヴァンは両手で それを取り、愛しむ様に引き寄せる。「えっと、Mein、…」得手ではないであろうドイツ語を彼は読み取り始めた。ドイツ語を母語とする ローデリヒが読んでやればいいことであったが、これはイヴァンが読まなければならないと感じた。

 イヴァンは一語読み進めるたびに休みを置いて、便箋の上の文字を解読した。短いフレーズであったので、その作業はすぐに終了する。 イヴァンは目を見開いた。見開いた目から一粒、涙が零れる。一粒、一粒、また、一粒。うっとイヴァンの呻き声が聞こえた。白い白い 便箋を掻き抱く。それが彼女自身であるように。顔を見たことのない位に歪ませてイヴァンは泣いた。



Mein Korper zum Westen(わが身体は西へ)

Mein Herz zum Norden
(わが心は北へ)』



 東ドイツは、ギルベルト・バイルシュミットは、西に弟に食い尽くされて死んだ。そして今あの女は、北の大地へ還ったのだろう。 イヴァンはマリア、と呼ぶと、声を上げて泣き出した。彼女の生涯は意味のあるものだったのだ。そう感じさせる慟哭であった。


愛しのベルリーナ Act.end

09/05/12