タタン、タタンと規則的に刻まれるゆるやかなリズム。薄く閉じた瞼の下でギルベルト・バイルシュミットは心地よい暗闇にまどろむ。左の頬のあたりから二の腕あたりまで感じる温度はきっと隣に座った弟のもので、襲いくる眠気に凭れてしまうのを許してくれるやさしさと、その失いがたいぬくもりを甘受する。ふたりで呼吸をしているようだった。同じステップを踏んで、鼓動をしている。眠りに落ちるように穏やかな。
 ベルリン中央駅発のSバーンはタタン、タタンと、決められたリズムの通りにレールを辿る。まるで還っていくようだと思った。それはどこへ、だろう。どこへ、還っていくのだろう。…それはきっと、今まさに感じているぬくもりの、根源とも言える場所へ。還っていくのだ。はじまりへ。取り留めもない思いを巡らせながら、ギルベルトは意識を手放した。






「お前が、僕の花嫁か?」






 開口一番、『奴』はそう抜かしやがった。Iの発音のかたちにした唇をひん曲げて、要するに、期待はずれだとでも言わんばかりに。俺だっておなじだった。新しい総長の実家に、俺と同じ奴がいるというから、ケーニヒスベルクからわざわざやってきたっていうのに!俺と同じくらいの年格好のそいつは、俺とはぜんぜん違ってた。俺みたいに異教徒どもに勇敢に剣を振るってきた勇猛さもなく、かといって神聖ローマみたいに誉れ高きゲルマン民族の気品を備えているわけでもなかった。貴族づらをしたできそこない。俺が最初に思ったのはそれだった。うす汚れた羊毛を隠すために野に打ち捨てられた狼の革を纏った羊のような、みっともなさがあった。せっかく与えられたゲルマンの光輝く金のたてがみがもったいないくらいだった。



「へっ、誰が花嫁だ。おれさまだってお前みたいなえせお坊ちゃん、お断りだ!」



 ドイツ騎士団!とそれまで黙って様子をうかがっていたアルブレヒトの声が上がるが、俺は黙ったりしなかった。「まったく、あきれるぜ。おれさまがお前みたいな辺境領と一緒にならなくちゃなんねーなんてよ!」そこまで言ってしまえば、相手も黙っちゃいなかった。「なに!」とそれまで領主の目もあってか大人しくしていた少年がわっと飛びかかってきた。そこから先はなし崩し、どっちが上になったの下になったの、ひっかかれたお返しにきれいに切り揃えられた髪をひっぱってぐしゃぐしゃにしてやった。それの報復だとでも言わんばかりにほっぺを右から左からつねり上げられる。今度はがらあきのわき腹に蹴りを一発。そこまでやって、ようやくアルブレヒトが「やめなさい!」と割って入ってきて、あっというまに引き剥がされた。
 はぁはぁ肩で息をしているそいつは、お行儀のいい貴族の少年の仮面を引っぺがされて、青い瞳がぎらぎら燃えている。ざまあみやがれ。俺は人差し指を突き付けて公然と言ってやった。



「おれはお前なんていらない。おれはひとりで国になるんだ!」



 アルブレヒトの制止の声を振り捨てて、一目散に駆けていく。ゲストルームから、地の利のないホーエンツォレルンの居城の中を駆け巡る。草のにおいのする方に向かえば、手入れのあまりされていない中庭に辿りついた。それだけ走っただけなのに、もう息が上がってしまう。はあっと大きく息を吐いて、一際大きな菩提樹の木陰にふらふらと近付いてそのまま座り込んだ。

 おれが悪いんじゃない。こんなにも小さなこの体が悪いのだ。この世に生を受けて数百年、けして平坦ではない道を歩んではきたけれど、自分はずっとこんな頼りない体だった。騎士団の誰よりもドイツ騎士団の手は小さくて、ようやく掴んだ何ものをもこの手からすり抜けていく。もうずっと、ドイツ騎士団は欲しがりだった。この手の中に確かに残るものを欲しがっていた。彼は国ではないから。
 何度となく神に問うてきた、国でない自分がどうしてほかの『国』たちのような宿命を負って生まれたのかと。新しく総長になったアルブレヒトが、ドイツ騎士団としての国家の廃止を決めてからもずっとだ。自分はこれまで、仕えるものを変えて、剣を振るう場所を変えて、振るう相手を変えて生きてきた。今度は俺は何になるんだろう。ドイツ騎士団でなくなったら、今度は。



「おい、お前」



 心地よい木漏れ日のせいで、薄く閉じた瞼を開く。芝生の前に、けんか別れしてきたばかりの少年が立っていた。ぼさぼさにしてやった旋毛もそのままに。太陽の祝福を受けた金が、まばゆいばかりにぺかぺか光っている。疲労した頭は拒絶の表情を浮かべることすら億劫で、「お前って呼ぶな」とだけ返していた。
 「じゃあどう呼べばいいのさ。ドイツ騎士団国家はアルブレヒトがなくしちゃうんだぜ」呆れたように言って、彼は俺の隣に勝手に座り込んだ。おれさまはいいって言ってねーのに。そいつの横顔を見ていると、思いっきり抓られたほっぺの痛みがよみがえる。やり返してやろうかと思ったけれど、めんどくさいのでやめてやった。隣どうしのくちびるが動く。「ホーエンツォレルンの傍系であるアルブレヒトがお前を元に新しく国を作るんだぜ、」彼は足元までやってきた小鳥に手を差しのべながら言った。



「僕とお前が、いずれは一緒になるんだ。ひとつの国になるんだよ。だったら、うまくやって行かなくちゃ。そうだろう?」



 彼の指先で、小鳥がぴいぴい鳴いている。「おまえと、おれさまで?」そう聞き返すと、「そうさ」と彼は答えた。





「ふたりで新しい国を作るんだ。世界で一番、かみさまに祝福された国を。100年先だって、1000年先だって、ずっと続いていく国だよ」





 ぱさ、と小鳥が羽ばたいた。ふたりが一緒に空を仰ぐ。地上を這ういきものたちを尻目に、青い青い空を翔けていく。何よりも誇り高く、何よりも気高く。
 国になる。そうしたら、俺もあんな風になれるのだろうか。あの鳥のように。100年先だって、1000年先だって、飛んでいけるのだろうか。





「…小鳥みたいにカッコイイ国、ってのを付け加えるなら、考えてやらないこともねーぜ」





 何だよそれ、と彼は笑った。始めて見た奴の笑顔だった。






「プロイセン」
「は?」
「プロイセン公国、って言うのはどう?お前の名前だよ。だって、ドイツ騎士団国家じゃなくなるなら、新しい名前が必要だろ?」
「そりゃそうだけどよー…確かに、あそこらへん、昔はそんな名前だったけどさ」
「それもあるけど、ほら、プロイセンってカッコイイじゃん。100年先も1000年先も、誇れる名前だよ」
「カッコイイ?…おお!確かにカッコイイな、プロイセン!」
「だろ?決まりだね、プロイセン公国!いいか、僕とお前でプロイセンの名前をヨーロッパ中に、いいやエルサレムよりずっと遠くまで知れ渡らせるんだ。王様を頂く王国になるんだよ。それまではお前とだって仲良くしてやる」
「ケセセ、そりゃ俺の台詞だっつーの!」
「言ったな!」
「お前だって!」






―――プロイセン

―――プロイセン!



 やすらかな幻想から引き戻されて戻ってきたとき、はじめに感じたのは確かな温度だった。抱かれている、だれかに抱かれている、それが分かる。だけど寒いんだ、腕だって足だって凍りつきそうだ。長い長い数十年を極北の国で過ごしたその身はもう限界だった。「プロイセン、しっかりしろ」と聞き慣れた声が耳を打つ。赤く変色してしまった瞳をゆるく開けば、昔と変わらない青い瞳がこちらを見つめ返してくる。変わらない温度、ずっと隣にあり続けた温度。





「もう少しだ、プロイセン。もう少しで、僕とお前の愛するドイツが君を迎えに来てくれる。だから、死んではいけない。絶対にだ。世界で一番かみさまに祝福された、世界で一番、カッコイイ僕のお前の国が、君を迎えにくるんだよ」





 だから、

 生きるんだ、プロイセン。



 数百年の春秋を共にした男がプロイセンを抱いていた。窓の外は、今もなおビュウビュウと吹雪が荒れ狂っている。まだ、冬は終わらなかった。東ベルリンの粗末な家屋で身を寄せ合うふたりが、ただ春の芽吹きを待っていた。










「兄さん、もうポツダム中央駅だぞ。いい加減起きてくれ」
「ふぁ?」



 弟に軽く肩を揺さぶられて、長い眠りから覚める。気付いたらタタン、タタンと心地よいリズムはもう止まっていて、慌てて弟のあとについてSバーンの車両から降りる。



「駅からは、兄さんが迎えに来てくれてるんだよな?」
「おお、ベルリンを出てすぐメールしたし、もう着いてるはずだぜ」
「はは、あっちの兄さんはこっちの兄さんとは違って抜け目ないからな」
「てめ、言ったな?…お、いるいる。おーい!」



 駅から出ると、すぐに奴の愛車を見つける。今やちょっとしたレアもの、東ドイツ製トラバント。7年越しで注文して手に入れた、東西ドイツ統一後もけなげに働き続けるそいつの車内から、彼が現れた。こちらに気付いて、軽く手を上げて俺たちを出迎える。そいつは笑って言うのだ。頭に黄色い小鳥を乗っけて。






「親愛なるプロイセン、ドイツ!ようこそ、ブランデンブルクへ!」





リーベス コンツェルト フォン ブランデンブルク

10/09/26