ヨーロッパはドイツにそれはそれは仲のいい兄弟がおりました。兄をプロイセン、弟をドイツと言いました。ふたりは悪友どもと飲んだくれた兄を叩きだしたりあまりに兄をぞんざいにする弟のお尻をペンペン叩いたりしながらも仲睦まじく暮らしていたのですが、それは今から60年ほど前のこと、たいへん大きな戦争がありまして、兄弟は離ればなれになってしまいました。戦後傷ついた兄を引き取ったのはロシアというおおきな国で、実のところ働きものの兄はぎゃあぎゃあ文句を言いながら扱き使われていました。そんな兄はロシアの家にいた何十年かのあいだ、ばか正直に何でも口に出してしまう性分のために何度もロシアと真正面からぶつかって、ぶん殴られたりぶん殴ったりしていましたが、それは苦しいだけの時代ではありませんでした。
 やがて時代が動いて、兄と弟の間にできていた壁がなくなりました。長年兄を取り戻そうと奮闘してきた弟は、「東西ドイツは統一されるのだから、東ドイツである兄は俺と暮らすべきだ。」と主張しました。一方ロシアは、「プロイセンくんが東ドイツでなくなるのなら、起源の地であるカリーニングラードの所有者である僕と暮らすべきだ。」と主張しました。ふたりの主張は食い違い、会議は踊るどころか昼夜問わず踊り狂いました。それはさながら独ソ戦の再来を予感させ、当事者のプロイセン含む世界各国は騒然としました。「俺と暮らすんだろう、兄さん?」「僕と暮らしたいよね?プロイセンくん」なんてムキムキのクマと骨太のクマに迫られても、プロイセンはさーっと視線をそらすことしかできません。ふたりして目が笑っていないのです。怖すぎます。
 あわや開戦というころになってから、決断は冷戦の終了で猫の手の100本も借りたいほどてんやわんやと忙しい国連さんに委ねられました。徹夜4日目の国連さんは大国同士のプロイセンを巡る痴話喧嘩にピクピク青筋を立てながらウィダーインゼリーをかっ食らっていました。そして、3か月後に国連さんの採決の結果が書類で届きました。書面にはプロイセンが1年のうち3分の2をドイツ、3分の1をロシアと暮らすことと書いてありました。こうしてプロイセンはふたりとの慌ただしい同居生活を始めたのでした。









「お帰り俺のヴァーニェチカ、飯にするか?風呂にするか?」



 扉を開けた途端に抱きしめられるみたいにほかほか温まったカリーニングラードの古家、鼻孔をくすぐるいい匂いはきっとあつあつボルシチ、家そのものがペチカみたいに。そんなごきげんな1年の始まりがまたやってきた。






「それとも、俺かぁああぁあ!?」






 のはいいんだけど、どうしてこの人は玄関先で襲いかかってくるのかな。正直助けてください。






 栄えある大ロシア軍はプロイセン軍の精鋭による奇襲で哀れ総崩れと相成った。要するにどったんばったん音を立てて、8か月ぶりにあらわれたギルベルト・バイルシュミットが僕を押し倒したのだった。きみって人は、僕よりずっと痩せっぽちのくせに手加減なしで倒れこんでくるものだから。まるできみが小さい子どもみたいじゃないか。いつもは笑いながら投げつけられる言葉を押し付ける。ねえ、僕が困ってるのわかってる?そんな風に言っても当のギルベルトは、「んぅー」だか何だか甘ったるい呻きを漏らして僕の胸に顔をつりつり擦り寄せる。…お酒臭い。



「…えーと、例年通りにごちそう用意してくれてたけど、なかなかモスクワから離れられなかった僕に痺れを切らして先にウォッカをひと瓶開けちゃったって解釈でいい?」



 彼の背後に控え目に転がる飴色の空き瓶を見て、僕は状況を把握した。何だ、よくよく視線を巡らせれば瓶はひとつどころじゃない。ひとつ、もうひとつ、ああもう数えるのはやめておこう。とにかくギルベルトがひどく酔っ払っているのはわかった。ギルベルトは何拍子か遅れて、僕の問いに「だってよぉー、おまえ、なっかなかモスクワから帰ってこねぇーんだもんよぉ。おれさま、ヨッキュウフマンで死んじまいそう」と呂律の回らない舌を緩慢に動かした。真っ赤に腫れたそれは、行き先を見誤って僕のコートに落下してしまいそうだった。



「それ、じゃま」



 いや、見誤ってなんかいない。ギルベルトの舌は明確な目的をもってうごめいている。「や、なにするの」引きずるようにして僕の首筋までやってきたそれが、邪魔呼ばわりされて引き抜かれたマフラーに隠された肌の上を撫でていく。むき出しの肉の熱さのためにとっさに漏らした同じくらい熱い吐息を彼は見逃さない。恥ずかしくてさっと目元を覆った腕のすきまから、ギルベルトの勝ち誇った笑みが見えた。ああ、気に入らない気に入らない、僕はいつだって彼のマトショーリカで、彼の指先が触れたなら、望むとおりの表情が顔を出してしまうのだ。
 けせっ、と彼が喉の奥で笑った。しゃっくりのよおうな笑い声、こんなに近くでそれを聞いたのも8か月ぶり。熱い舌がなぞっていった首筋に浮き出た血管が、彼が離れていくとすぐにひんやり冷えてしまう。それがいやで、僕はやめないで、やめないで、とニェートを繰り返す。べっとり張り付いた彼の唾液が、ますます僕を欲しくする。やめて、やめてよ、そんなことしたら、

そんなことしたら!



「あ゛ーッ!!!!」



 がばっと起き上がる僕。跳ね飛ばされたギルベルトはしたたか打ちつけた頭を押さえながら、「な、なんだよぉお!?」と冷水をぶっかけられでもした体で問い詰める。



「ギルベルトくん、忘れたの!?ナターリアとの講和条約第44条!“ベロチューは顔から上のみ”だってば!!」
「うおお゛ッ忘れてたぁああああ!!来てないか?ナターシャ来てないか!?」
「来てない来てない来てない、っていうかまず腰の上から退いて、色んな意味で危ないから」



 かくして、僕はとりあえずはた迷惑な酔っ払いを引き剥がすことに成功したのだった。






「チェッチェー、そもそも年末だってのに帰りが遅ぇお前が悪いんだぜ。せっかくのボルシチも冷めちまったし」
「そうだね、君がやけ酒して僕が帰ったとたんに押し倒してこなかったら、せっかく君があたため直してくれた手料理もあつあつで食べられたのにね」
「…お前のためじゃねーぞ、俺様のためだかんな」
「はいはい」



 ほのかに温かいスープ皿に触れた指先に、ばつを悪くして視線を逸らすギルベルト。彼は僕のことをガキだ何だと言うけれど、彼だってずっと子どもみたいだと思う。そんなことを言ったらまた機嫌を損ねてしまうだろうから、笑って済ませてしまおう。彼と過ごした何十年かとこの20年とで学んだことは多い。
 僕と彼が1年のうち3分の1を一緒に過ごすようになって、ちょうど20年が経った。パイを切り分けるみたいにきっかり切り分けられた1年を過ごす術を、僕も彼も、そして彼の弟も模索してきたけれど、今では彼の古巣であるここカリーニングラードで過ごすことにしている。
 ちなみに、そんな共同生活が始まって間もなくギルベルトことプロイセンと僕の妹であるナターリアことベラルーシの間に講和条約が結ばれた。兄である僕のことを、何ていうか、うん、とても慕ってくれているナターリアの「同禽だけは許せない」とか何とかいう主張と、よく分からないけどムキになったギルベルトの「バードキスじゃ満足できねぇ」等々の主張、えーと、とにかく、喧々諤々の論戦(武器の利用含む)が行われ、あわやプロイセン=ベラルーシ戦争勃発の危機が懸念されたけど、改正を繰り返された講和条約のおかげか今のところは落ち着いている。これ以上ふたりが争ったらこのボロ屋、絶対潰れると思う。仮にもここは前の上司の奥さんの故郷だし、あんまり暴れないでほしいと僕は思っている。本当に。



「それにしても、こっちは相変わらず寒ぃな。去年暖房設置してなけりゃ死んでたぜ…」
「それは、最初にこんな時期を選んだ君だって悪いよ。1月から4月の4カ月なんて一番寒い時期をさ」
「だって5月にルッツとシュパーゲル食いてーし」
「だったら慣れなよね、これくらいの寒さ。もっと昔は長い間こっちに居たでしょ?」



 そう、彼が僕の傍で暮らす4か月は、彼の国の数え方で言えば1月から4月。ロシアでいちばん寒い季節に彼はやってくる。
 僕は彼がわからなかった。ギルベルトは最初、それは今のような暮らしがはじまる20年前ではなくてもっと前、彼が望まない形でロシアの地を踏んだころ。彼は冬が嫌いだった、僕の家で迎える冬が嫌いだった、筈だ。心臓まで凍っちまいそうだ。そうぼやいているのを聞いたことがあった、窓の外の雪原をぼんやりと眺めながら。あんな風な目をしていた子が、ほかにも居たな。…そう、あれはトーリスだ。トーリスをあの子の大事な友達から引き剥がして、すっかり僕と同じようにしてしまってから、トーリスはふとそんな目をして外を見ていた。トーリスも冬が嫌いだったのかもしれないな、と思う。
 僕だって冬は嫌いだ。冬将軍は戦のときもそうでないときも僕の味方で、僕の傍にいてくれるけれど、彼は冷たい。冷たすぎるんだ。彼に抱かれていると雪野原にひとりだけで立っているような心地がする。僕はひとりだって分からせられる。
 だから冬なんて大嫌いだった。まだぶつくさ言っているギルベルトに僕は問うたのだ。



「じゃあ、冬なんかに来なければよかったじゃない。そう、7月や8月なら、ひまわりだって咲いているのに」



 ぽつりと食卓の上に落ちたことばを、ギルベルトは黙って聞いていた。少しのあいだそこに沈黙があって、それからギルベルトは僕の投げたことばを拾い上げる。「ばっか、おまえ」と彼はスプーンの先っぽを僕に向けた。



「俺はなぁ、お前のためにここに居てやってんだよ」
「…なに?どういうこと、」
「だってなあ、お前、冬になったと思ったら辛気くせー顔してるもんだからよ。だから、俺様が居てやるのさ。お前が冬を越せるようにな」



 俺様がいるからには、お前にそんな顔させねぇ。



 根拠もなしに彼はそう言うのだから、僕は何も言えなくなる。「それに、お前んちの向日葵畑すげーもんな。毎日見てたら慣れちまうだろ?そんなの俺様やだもんな」なんて言ってる彼が、ひまわりよりもずっと眩しいのだ。
 彼はずるい。これからの冬は、やがてみじかい春に向かっていく僕の冬はすべて、彼が一人占めするんだ。なんてすてきな4か月だろう、ずっとずっと嫌いだった、僕を一人にしてきた世界が与えてくれた1年のうちの3分の1だけの時間。なんてすてきな冬だろう、なんて幸せな世界だろう。涙が出るくらいに。

 すっと手を伸ばす。向かいに座る彼の手にそれは簡単に届いた。手を伸ばせばたやすく触れられる場所に彼がいる。






「じゃあ、

 ―――ずっと一緒にいようね、ギルベルト」






 ギルベルトの指先がふるえて、硬直する。ついとそっぽを向いた彼の頬が赤く上気しているのがわかった。これくらいで恥ずかしがったりしないでよね、100年先だってこんな風に過ごしていくんだから。
 ねえだから、


こっちを向いてよペルセポネ!

10/09/26