「イギリス!」






 その国と出会ったのは、まだ上手く舌も回らないころだった。兄たちに見つからないように、いつもと同じに森のはずれで震えていたある日のことだった。その国があらわれた。今思 うと馬鹿らしい話だけれど、あのとき俺はその国のことを妖精だと思ったんだ。俺のとは違って、きらきら、ぴかぴかした金糸の髪も、真っ青な空の色をそのままもらったような瞳も、 どの妖精たちよりずっと、ずっときれいだと思った。
 少女だった。妖精のような、美しい少女だった。きっと彼女も俺と同じなのだろうとわかった。彼女は、はじめて兄たち以外の国に出会って、どうしたらいいかわからなかった俺を抱き 上げて、俺の知らないことばでなにか語りかけた。今まで聞いたこともないような、風のように軽やかな、耳に酷く心地いいことばが俺の耳に吸いこまれていった。そして今度は、俺にも わかることばでこう言った。






―――はじめまして!わたしはフランス!






 フランス、と名乗ったその国は、それからも度々俺を訪ねてきた。彼女が俺を抱き上げて、イギリス、いい子にしていた?と言ってくれるのがうれしくて、だから、フランスが来たら すぐわかるように、イチジクのなる丘で彼女を待つことにした。そこからは、彼女の国がよく見えた。フランス!ここにはないあらゆるものが約束された国。あの国とひとつになれたら どんなにいいか、と思ったこともあった。おそろしい兄たちにおびえることもなく、あの美しい国とひとつになることができたら。
 少しでも彼女に近づきたくて、しばらく髪を伸ばしてみたこともある。俺の髪は兄と同じで、赤みがかってぱさぱさだ。フランスがそうしているみたいに髪を梳かしてみたって、なん にもなりゃしない。何でわたしの真似なんかしたの、とくすくす鈴を鳴らすように笑われれば、フランスみたいになりたかったんだと答えていた。フランスみたいになれたら、きっと 誰からだって愛されるんだろう。愛されるフランスになりたかった。フランスに、なりたかった。



「あのねえ、イギリス」



 いつもと同じに、彼女が俺を抱き上げた。「あなたは特別な国なんだよ」、と彼女は囁く。フランスのやわらかな胸に包まれたら、俺のくすんだ瞳の中に沈みこんだものすべてが溶け ていく。今ここで生まれてきたような、今ここで生まれてゆくような、ふしぎな感覚だった。



「なんて言ったって、世界でいちばん美しいフランスに愛されているんだから!」



 フランスは笑った。何かがいいたくて、いえなくて、ただフランスの胸に顔を埋めていた。










 うだるような暑さの夜だった。朝から晩までひどい雨が降り続いていて、いやな湿気を含んだ夜だった。その時俺はフランスにいて、与えられた客室で、寝付けないまま横になって いたが、雨がすっかり止んでいるのに気付く。すると俺はベッドを抜け出した。ぺた、ぺた、音を鳴らしながら、向かったのはフランスの部屋だった。明日にはフランスを発つことに なっていた。またイチジクの丘でひとり、彼女を待つことになるまでに、もう少しだけフランスといたかった。
 彼女はもう寝てしまっているだろうか、それとも、俺と同じように、寝苦しくて起き出してしまっているだろうか。ちいさな歩幅から、フランスの部屋までは遠い。足音を立てないよ うに気をつけて、ゆるく纏ったローブを引きずって、石畳を踏む。
 ようやく辿りついたときには、額に玉のかたちの汗が浮かんでいた。フランス、そう、呼びかけようとしたとき、彼女のドアが少し空いているのに気付く。そこから、中の明かりが 漏れていた。やはり、起き出していたのだろうか。歩みは先程より一層注意深く、慎重になっていた。ドアに手をかけられる場所まで来ると、密やかなささやきと一緒に、中の様子が 見てとれた。



 フランスと、もうひとり、だれかがいる。



 男だった。ひとりの男が、ベッドに腰かけたフランスに笑いかけている。フランスの顎を軽く持ち上げて、なにかをフランス語で囁いた。フランスは微笑み、ふたりの顔が近付いてい く。そして唇が合わされた。フランスは、男の後頭部を抱き寄せた。
 それは誰?なにをしているの?どうしてキスをするの?どうして俺にするみたいに、やさしくその男を抱き寄せるの?それは誰?俺よりもその男が好き?それは誰?どうして、キスを しているの?
 どうして?どうして?どうして?










(―――Maman!)










 地下牢の堅い石床の上に、フランスを乱暴に放り投げる。「きゃっ!」と悲鳴を上げて、倒れこむフランス。両手両足を縛り上げて、身動きを取れなくしても、フランスの瞳だけは抵抗 の意志を捨てなかった。真っ青な空をそのままもらったような瞳をした女は、俺の手の中に堕ちてなお弱さを見せることを良しとせず、ただ一言、あの子はどうした、と呟いた。



「お前の言ってんのは、あのペテン師のことか?あの女なら、お前と同じように俺が捕らえた。もう裁判がはじまる頃だろうよ」
「…やめて!あの子は何も悪くない。あの子はわたしのために戦っただけだ!」
「もう遅いんだよ。あの女は死ぬ!お前のために戦ったがためにな!」



 フランスが愛情を注いでいた人間の女の話を出せば、冷ややかだった瞳は揺れはじめた。その色は徐々に、絶望へと染まっていく。そして、絶望は、底無しの憎悪へとかたちを変えて いくのだ。自分があの女のためにできることはなにひとつないのだと自覚してしまえば、フランスの瞳の中に、黒い炎が宿る。



「…わたしは憎む」



 フランスの上に覆いかぶさる。かつてこの女が俺を抱き上げたときのように、俺とこの女の視線がまっすぐ向かい合う。あのときと違うのは、交わされ合うのは憎しみ以外の何もの ではないということだった。



「わたしはお前を憎む、イギリス」



 青い瞳が燃えているのを、くすんだ緑の瞳で冷ややかに眺めていた。
 今までふたりが過ごした、短くはない時間がすべて魔法かなにかのように思えた。駆け抜けためくるめく時の中で、小さな俺とフランスが、けらけら笑っている。イチジクの丘で、 幸せそうに笑っている。






「…俺もずっと、お前が憎かったよ、フランス」






 だからさよなら、Maman。魔法は解けてしまったから、もうあの頃には戻れない。


Enchanted

10/06/24