腹の中に何かがいる。それに気付いたのは、いつ頃だったろうか。
ドイツ統一。
それは、ドイツ人の血をもって生まれたものにとって、積年の悲願だった。
オーストリアも、ザクセンもバイエルンも我こそはとドイツの盟主たろうとする。俺はというと奴らの例外ではない。かつて神聖ローマの一員とさえ認められなかった俺が、ケーニヒ
スベルクとベルリンの遠く離れた領土を持ち、いつ他国に脅かされるかわからない不安定な感覚に逃れるべく同胞たちから領土を奪ってきた俺が、ドイツの頂点に君臨する。どれ程痛快
だろう?新参者と罵られたホーエンツォレルンがドイツ諸邦を従えるのは!
もう、騎士の誇りを捨てて放浪することはないのだ。打ち倒すべき悪魔を求めて彷徨う修羅とならずともよいのだ!それは甘美な言葉だった。…ドイツ統一!それこそが、我が使命!
プロイセンはそう信じていた。父なる神が与えてくださった至上の命だと信じて疑わなかった。
「まさか貴方が『ドイツ』になるとは思いませんでしたよ」
だから、プロイセンは打ち負かされたオーストリアが憎々しげにそう吐き捨てたとき、「いや、違う。俺はドイツにはならない」と瞬時に返した自分に驚いた。
「…何ですって?」聞き返すオーストリア。それを言いたいのはこちらだと、プロイセンは心中で呟いた…俺は何を言っている。今のドイツに、プロイセン以外にドイツたるものなど
存在しないではないか…。
その時、プロイセンはがくりと膝を折った。「プロイセン?」オーストリアの声を掻き消すように、プロイセンの腹の中で、どくん、と何かが鼓動した。
何かが、いる。
それは直感だった。
そして、それは真実だった。
自分に害を為すものではない…これは、後にプロイセンが知ったことである。いや、それどころか、自分はこの存在に害を為してはならない。何者かが命じたように、プロイセンが感じ
たことだった。それは誰か?それは、腹の中に生まれたもの自身にほかならない。これは、自分の上に立つように決められているものだと、プロイセンは確信したのだった。
こいつは、戦場が好きだ。それも、後に知ったことだ。
こいつと共に戦場に出ると、興奮する。神経が焼き切れそうなくらいに、昂るのだ。立ち上る硝煙、肉の焼ける匂い、真っ赤になる視界がこいつは好きだ。こいつと馬に跨ると、俺に
天の国が近付く。戦場へと走る光景は、いつしか目を開けていられないほどの光になる。それを抜けたとき…俺はヴァルキューレと化す。人間どもの命を刈り取る戦神となる。ドイツの
為に、ドイツ統一の為に、仇名すものは存在しなくなる!
「満足か?」そう問えば、腹の中でこいつは一際強く胎動する。俺は動かされているのだと感じた。そして俺は漸く明確に理解する。
こいつが、ドイツだと。
「あのお馬鹿さんは何をしているのですか!」
オーストリアは憤慨した。フランスを攻める真っ最中に、フランス自慢のヴェルサイユ宮殿で戴冠式を行うなどというオーストリア曰く「お下品な」真似をしておいて、当のプロイセン
は姿を現さない。
招待客のオーストリアは、ザクセンにもバイエルンにも、プロイセン…次期ドイツ帝国の上司にもプロイセンの行方を訪ねた。しかし、プロイセンの居場所は皆目分からない。あの目立
ちたがり屋の男なら、ヴェルサイユの王座にふんぞり返っていそうなものを!
王座には、迎えるべき王は未だ現れない。
「…あの、お馬鹿さんが!」
オーストリアは苛立ちを露わにして、広間を後にした。
「ハァッ…ハァッ…」
プロイセンは、ヴェルサイユ宮殿の一室の寝台に倒れ込んだ。未だ経験したことのない感覚。強烈な吐き気を感じて、プロイセンはシーツの上にべっ、と痰を吐いた。
衣服の緩い締め付けすらもどかしく、震える指先でボタンを外す。常時なら秒とかからない作業が、大した重労働に感じた。
寝台の上で仰向けになると、鋭い痛みがプロイセンを襲う。痛みには強い筈のこの身は、波のように訪れるそれに惜しげもなく悲鳴を上げた。跳ねる肢体がシーツを乱す。グローブを
したままの両手が、掴めるものを探してけだもののように彷徨う。左手がやっとの思いで頼りないシーツの皺を握り込むと、右手もそれに従った。
「がっ…う、あッ、くあああっ…アッ…!」
腹の中にいるものが、どくんどくんと、今までにない程に鼓動している。別れたふたつの領土を持ったときの比ではない、直接身を真っ二つに裂かれるような痛みにプロイセンは絶叫
した。プロイセンのすべてが、腹の中の存在に共鳴する。プロイセンを動かす中枢は、プロイセンの左胸に確かに存在する筈なのに、本当はそれは腹の中の存在だと思えた。それが、
プロイセンを動かしていた。プロイセンそのものだった。
焼けつくような激痛の中で、プロイセンは不思議と冷静などこかで、何故誰も気づかないのだろうと思った。耳障りなほどの大声で喚いているのに、何故誰もやってこないのだろう…?
まるで、父なる神がこの部屋を、その大いなる手で包みこんでいるように。
プロイセンの中に降ったその考えは、尤もらしく思えた。これは、自分に与えられた使命なのだ。プロイセンは絶叫の中で考える。自分の果たすべき使命なのだ。神に腹の中のものに
より命じられた使命なのだ。
「…あっ、う…ああッ、あああ―ッ!!」
鼓動が応える。どくん。強く。強く、強く。これは己の鼓動。これは、腹の中の、自分が孕んだものの、鼓動。
そして、プロイセンの下肢から、黒鷲の翼が生えた。
血だまりの中にそれは居た。
もぞもぞと蠢くそれは、プロイセンの血を全身に纏っている。やがて鉄臭いそれから、人形のようにちっぽけな腕がずぼ、と現れた。
プロイセンは、茫然とそれを見守っていた。それは、動き出す。それは血でべたべたになったシーツの上を這いずりそして、泣き声を、上げた。
「…ははっ」
プロイセンは、笑みを浮かべる。
聖母のように。
悪魔のように。
プロイセンは、己が産み落としたものを抱き寄せた。
「Guten Morgen…Mein Sohn」
プロイセンは、生まれながらにして王となったものに口づけした。同時に、オーストリアがばん、とドアを開けた。
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