ギルベルト・バイルシュミットはイヴァン・ブラギンスキにとって脅威であった。かつてバルト海沿岸の小国に過ぎなかった男は、瞬く間にヨーロッパにおける強国に数えられるようになった。ギルベルト・バイルシュミットはヨーロッパ共通の脅威であったし、その片隅に身を置くイヴァン・ブラギンスキにとっても目障りな男だった。ずる賢いあの男に何度煮え湯を飲まされたか知れない。イヴァン・ブラギンスキはこの地表のすべての国が己たるロシアであればいいのにと切に願っていたが、あのギルベルト・バイルシュミットだけはそういった理想の世界に入れてやりたくはなかった。ヨーロッパの彼以外のすべての国がそうであるように、イヴァン・ブラギンスキはギルベルト・バイルシュミットの存在を呪った。イヴァンを恐れ慄きはしても、畏れを知らないあの男が嫌いだった。






「ありがとうトーリス、ここまででいいよ。後は歩くから」
「分かりました。じゃあ失礼します」



 トーリスの運転する車から降りて、カリーニングラードのコンクリートを踏む。トーリスの車が見えなくなってしまってからようやく歩きだした。町はずれの「彼」の住まいまではここからなら一本道だ。いや、例え一度破壊され歪に甦ったために複雑に入り組んだこの町のなかにひっそりと「彼」が隠れるように暮らしていたとしても、僕に見つからないわけはなかった。ここは「彼」の町であって、僕の町でもあったからだ。
 「彼」の住居のまわりは、前の戦争で焼け野原になってから再建がいまだに進んでいない地区で、瓦礫ばかりが積み重なる殺風景な景色だった。海が近いそこからは荒々しい白い波と、それに削られた岩浜が見えた。北の流氷の海とも、南の穏やかな海とも違う、魔性のものがひそむあやしい海がそこにあった。「彼」はそんなさびしい所に住んでいた。
 2回ノックをして、即座にドアノブを握る。鍵は開いていた。返事がないのは分かっているから、遠慮なしに目一杯ドアを押す。打ち放しのコンクリートからの反響を聞きながら歩く。広間を通り抜けて、寝室へ続く扉の前に立つ。立ち止まった自分は何を考えたのだろう。自嘲するようにくふりと口の中で笑って、扉を開ける。



「こんにちは、ギルベルトくん」



 答えは返らない。死んじゃったのかな、とぼんやり思い浮かべた一節を、シーツの衣擦れが掻き消した。とても緩慢な仕草で、「彼」はすこし体を起こしてこちらに視線をやった。そして「よぉ、イヴァン」とがらがらの声で返事をした。



「調子、どう?今月の仕事、持ってきたけど」
「悪ぃ。昨日の朝から起き上がれなくてな。待ってろ、今コーヒーでも淹れる」
「いいよ、すぐ帰るから」
「遠慮すんなって」



 けせせ、と喉の奥から絞り出すようにギルベルトは笑い声を上げ、がばっと足の先まで被っていた毛布を放ると、脱ぎ散らかした革靴に足を差し入れた。足先に力を込めて堅い床を踏みしめたその時、ぐらりと体が揺らいだ。ああ、転ぶな、と思った時にはもうギルベルトは床にうつ伏せに倒れていた。受け身もできずに体を打ちつけてしまったようだった。がっ、と苦しげに呻く声が鼓膜を震わせた。僕は動かない。手を差し伸べもしない。ギルベルトはそれを非難する様子もなく、ゆっくりと時間をかけて、床に無様に手を付いて、立ち上がる。それからそのままふらふらと広間のほうに歩いて行った。頼りない足取りを追って寝室を出た。



 ギルベルト・バイルシュミットがこんなか弱い存在になってしまったのはいつからだろう。近年体調を崩して東ドイツ本国ではなくここカリーニングラードに移ってから、彼は目に見えて衰えていった。前に来たときはもっと昔のように、苛々するくらい眩しく笑っていた気がする。いや、それも僕の錯覚なのか。過去の彼の栄華を知るからか。彼の衰えが東ドイツの停滞と進行を同じくしているのは分かっていた。分かってはいたけれど、僕は取り留めて彼を気にかけることはしなかった。国としての職務のために彼を訪問し、見る見る鮮やかな色を失っていくギルベルトをただ見つめてきた。



 ふたり分のコーヒーカップを洗う彼の背中は、昔よりずっと小さい。気の遠くなるほど多くの戦場で対峙し、両手の指で満ち足りる戦場で肩を並べたギルベルト・バイルシュミットは、もうひとつの時代を駆け抜けためくるめく彗星ではない。かつて彼が築いた王国はそのままその弟に引き継がれ、弟が築いた理想は打ち砕かれた。ならば今の彼を生かすものはなんだろう。母体となる国家を葬られ、分断されたひとつの国のうちのひとつの役割を押し付けられ、そしてその役割が消えたとき、彼はどこへ行くのだろう。
 それはやがてイヴァン・ブラギンスキの身にも降りかかる問いであった。いずれこの身にも滅びが訪れることをイヴァンは知っていた。平等とは名ばかりの歪なかたちの国家が終焉を迎えることを。そのとき、イヴァンもまたギルベルト・バイルシュミットのように色を失い、弱り衰え、そして消えていくのだろうか。知らずふるふると体が震えた。イヴァン・ブラギンスキは消えるのが怖かった。消えたくなんてなかった。自分の身にそれが迫ってから、はじめて死の恐怖に震えたのか。滑稽だ、とイヴァンは笑った。



「コーヒー、御馳走になっちゃったね。ありがとう」
「もう行くのか?」
「うん、今から帰らないと遅くなっちゃうし」
「そうか。わざわざ寄ってもらって済まなかったな」



 ギルベルトは玄関先まで見送りに出てきた。軽く右手を振って別れを告げると、彼も左手を上げて返してきた。それを確認したら、もう背を向けて歩いていってしまう。ギルベルトだってきっとそうだろう。彼と僕の別れはいつもそうだった。短くて潔かった。
 カリーニングラードは今の彼に似ている。踏み荒らされて築いたものすべてが瓦礫になって、古い痕跡を上塗りするようにできた新しい町。この町には色がなくて、だから通りすがりの町の子どもの瞳のなかにきらきらと輝いている青や緑の宝石にハッとすることがある。カリーニングラードの町を歩いていると、ギルベルト・バイルシュミットという男の記憶だとか、軌跡だとか、そういうものを訪ね歩いているような感覚に陥ることがままあった。かつて彼が軍靴で力強く踏みしめた、痩せ衰えた体を抱えて辿りついた町を僕は歩いている。

 駅の前の横断歩道で信号を待っていると、ふいに、ぞわりと毛が逆立つみたいな、形容しがたい感覚が僕を襲った。信号が青になる。僕は踵を返して今まさに辿ってきた道へと走った。町の人たちが何事かと驚いて僕を見ていた。息が切れる。荷物はどこかに放っていってしまった。さっき感じたのが何だったのか分からないまま足を動かした。胸が嫌な感じに早鐘を打っている。だめだ、だめだ、なんだこれは。
 そうこうしている内に町はずれのギルベルトの住まいに辿りついた。ノックもなしにドアノブを捻り、広間を抜けて寝室へ。
 開け放った扉の向こうにギルベルト・バイルシュミットはいなかった。
 僕は寝室を見まわす。くしゃくしゃに乱れたままのベッド、箱庭のような四角い寝室。ふいにベッド際の簡素な窓に目をやった。閉め切った窓。その向こうに。

 見つけた。



「ギルベルトくん!」



 岩浜まで降りられる小道にギルベルトの後ろ姿が見えた。僕は駆け出す。箱庭を駆け出す。海が近くなり、細かくなっていく砂に足元をとられそうになりながら、僕は走った。細い道を滑るように駆け下りる。はぁはぁと肩で息をしながら、視線を巡らせる。
 彼が。彼がいる。ギルベルト・バイルシュミットが。険しい岩の間に立って、海に向かっている。白い、白い、荒々しい波が彼に迫る。恐ろしい波が彼をさらう!



「ギルベルトくん!!ギルベルトくん!!ギルベルトくん!!」



 僕は叫んでいた。掻き消えそうな彼の背中を僕は抱きとめた。白い飛沫に打たれた彼のワイシャツはしっとり湿っていて、冷たかった。
 振り返る。ギルベルト・バイルシュミットは、ゆっくりと振り返って僕を見る。彼は自分の体に上手く力が入れられないようで、抵抗もせずにすっぽりと僕の腕の中におさまっていた。
 はぁ、はぁ、と、ふたりの胸が荒々しく鼓動を打つ。乱れた呼吸は次第にバルト海の小波のように静かになった。同じリズムで息をしている。生きている。






「イヴァン、おまえ、」






 あったかい、な。



 彼は僕の背中に腕を回した。長いこと彼と僕はそうやって、海辺に立っていた。白い波が岩にぶつかり、砕けて、また海に帰っていった。









「何で君っていう人は、こんなに荷物が少ないの?日記くらいしかトランクに入ってないんじゃない」
「俺様はムダなものは持たない主義なの。スマートな俺様カッコイイ」
「本気で言ってるから救いようがないや。あ、ちゃんと僕の餞別荷物につめた?」
「おう、完璧」



 出発の日、僕はカリーニングラードに来てギルベルトの荷造りを手伝っていた。おれさま日記とかいうふざけたタイトルのノートの束と、いくつかの日用品以外の場所にいっぱいに餞別を詰め込んだトランクはいっぱいいっぱいだった。ちなみに餞別というのは珍しく彼が気に入った銘柄のウォトカや、ボルシチに使うスビョークラ、それから道中小腹が空いたときにと僕お手製のピロシキ。中身はジャガイモにしておいた。



「統一作業は長くかかるだろうね。きっと、暫くは会えない」
「ああ…世話になったな、イヴァン」
「ふふ、君っていたらいたでうるさいけど、いなけりゃいないで寂しいかもね」
「言ってろ」



 カリーニングラード駅までの一本道を、憎まれ口を叩き合いながら歩いていく。駅に入ると、ちょうど電車がホームに入ってきたところだった。せわしなく行き来する人々の波の中で、僕は彼に左手を差し出した。彼は一瞬ぽかんとしていたけど、眩しい笑顔を浮かべて左手で僕の手を握った。






「消えないでね、ギルベルトくん。消えないでね、絶対だよ」
「お前もな、イヴァン。簡単に消えたりするんじゃねえぞ。俺に黙って消えたりしたら、ぶん殴ってやるからな」
「それはヤだな」
「ガキめ」






 彼の手のひらが離れていく。ぱんぱんのトランクを手に、電車に乗り込むギルベルト。ドアが閉まる。さっきまで触れていた手から、みるみる温度が消えていく。でもこれでいいのだ。彼と僕の別れはいつもこうだった。だから、最後だってこうでいいだろう?






「じゃあな!」






 次にまた会えるんだから、別れなんてものはシンプルでいいのだ。


白馬の騎手は未来を掲げ

10/09/26