ばん、と勢いをつけて開けた扉の向こうを見て、ドイツが最初に感じたのは、この部屋はおもちゃ箱のようだということだった。
上等な赤いカーペットの上に、造花の向日葵が所狭しと床にばら撒かれている。一目見て造花だと分かったのは、こんなに暗く閉ざされた場所にあの太陽をこよなく愛する花は咲きは
しないと知っているから。顔を埋めたら、きっとマシュマロのように柔らかいだろうクッションが、天蓋付きのベッドから零れそうな位の数で鎮座している。その中には、中の羽毛が
ばらばら周りに散らばったものもある。
傷つけるものも、傷つくものもなにもない。好きなものばかりを掻き集めたおもちゃ箱のような部屋の中心に、その男はいた。
ロシア。
ソヴィエト連邦と呼ばれ、またいずれはその名を失うであろう、崩れゆく大国。
紫の双眸は暗い焔をめらめらと灯し、ドイツを睨みつけている。
その手の中には、
ドイツが兄と慕う国がいた。
東ドイツ。
いや、もうそんな呼び方をする必要はないのだ。
プロイセン。
プロイセン。
ドイツを愛し、ドイツが愛する、兄がいた。
忌まわしいあの壁に隔てられてから、久しく目にした兄は、遠目に見ても酷い有様だった。ドイツとまったく同じ色をしていた金髪も、蒼い瞳も、すっかり脱色してドイツのそれとは
似ても似つかない。ロシアの腕の中の兄は、戦前よりもずっと小さく見えた。ワイシャツの袖から覗いた黒々とした痣も、緩く閉じた瞼の下に見える殴打の跡も、兄がどんな扱いを受けて
きたか想像するのは容易だった。
ドイツは、湧きあがる目の前の男への殺意を押さえつけて、代わりに感情を無くした仮面を被る。ドイツは口を開いた。
「お前の負けだ、ロシア。兄は返してもらう」
ドイツが絨毯を踏んで、ふたりに近付くごとに、ロシアの眼光はますます鋭くなった。硬質なアメジストは、腕の中のプロイセンを離すまいと、ますますキツクプロイセンの細くなった
身体を抱き潰す。
しかし、
ロシアの眼前までやってきたドイツの手に、いとも簡単に、プロイセンは戻された。まるでドイツの元にあることが当然であるかのように、それは淡々と、綽々と、為された。
ロシアの願いは叶わない。
ドイツの手からプロイセンが必然のように奪われたように、ロシアの手からもプロイセンは必然のように奪われる。
「ずるいよ」
ロシアは、俯く。
「ずるいよ、ドイツくん」
「もしも、もしもプロイセンが育てたのが君じゃなくて、僕だったなら、」
「その人は僕を愛してた。君は選ばれたりしたんじゃない、君がプロイセンの元にやってきたのは、ただの偶然に過ぎない。なのに、当然みたいに、プロイセンに愛されて」
「僕だって、僕だって、その人に愛されたかった!!!!」
びりびり、と
ロシアのおもちゃ箱が揺れる。
癇癪を起した子供のように、ロシアは目を潤ませて、めちゃくちゃに叫ぶ。ドイツは動じない。無表情の仮面を外すことさえ、しない。
「…いいさ」
動かないドイツに、くふ、ふ、とロシアは口の中で嗤う。
シベリアの地の底から響くが如く、赤い絨毯を、滅びゆく大国の呪詛が伝っていく。
「どこへでも行けばいいよ。プロイセンが焦がれて焦がれてたドイツにでも、どこへでも。せいぜい、ドイツ同士仲良く喰い合えばいい。お前のせいでその人は死ぬんだ。お前のせいで
ね!」
ロシアの言葉は、氷でできたナイフのようだった。男は繰り返し繰り返し、ふたりにナイフを突き立てる。ばらばらに、めちゃくちゃに、これまでロシアが受けてきた分だけ。
それでも、今のドイツにとって、ロシアの手のナイフは、子供が爪を突き立てたようにしか感じられなかった。ドイツが着た冬用のコートに、ぐっと爪を立てて、痕を残そうとする
ように。
「お前が、本当に」
「本当に、この人に愛されたかったのなら、やり方を間違えたのはお前だ」
ドイツの手の中には、プロイセン。
ロシアの手の中には、何もない。
ドイツは空っぽになったおもちゃ箱を後にした。シルクを引き裂いたようなロシアの絶叫が木霊していた。
トゥリー、ドゥヴァ、アディーン。一生懸命指折り数えてやってきた今日に、僕はわくわくが止まらなくて、じっとしていられなかった。あの人は、いまどのあたりだろう?モスクワ
にはもう入っただろうか、もしかしたら、もうこの辺りに来ているかも。そう思うと、はぁっと窓に白い靄を作って待っていることなんてできなくて、屋敷を飛び出していた。
足跡を作る人なんていない、ただ白ばかりが敷き詰められた平原を僕は駆けていく。
金色と、蒼色の、たからもののような色のあの人は、ロシアでとってもよく目立つ。あの人がこの雪原のどこに隠れていたって、すぐに見つけられる自信があった。同じように、あの
人は僕のことをすぐに見つけてくれる。雪の中に紛れてしまいそうになる僕を、何やってるんだっていつも、呆れたみたいに笑ってくれる。
ひまわりみたいに、笑ってくれる。
「ロシア!」
僕の大好きなひまわりは、遠くで僕に向かって大きく手を振っていた。騎士さまの鎧を纏うその人は、戦いから帰ったばかり。僕は雪を踏んで、彼のところに走った。早くあの人を
抱きしめたい。早く、あの人におかえりなさいって言いたい。
でも、ぼす、ぼす、と足を突き立てるたび、音を立てる雪に足を取られて、転んでしまう。
「ロシア、何やってんだよ。ばっかだなぁ」
鼻の上に雪をのっけて、顔を上げると、僕へと手を差し伸べるひとがいる。プロイセンはいつものように呆れたみたいに笑って、雪を払ってくれた。
いい子にしてたか?そう聞かれると、僕はすぐに頷いた。うん。プロイセンは満足げに、えらいな、と褒めてくれた。頭に乗せられた掌が、ぐしゃぐしゃ僕の髪を掻き乱す。
プロイセンが、僕を撫でてくれるのが好き。
僕を好きだよって思ってくれているのが、たくさん伝わるから。
プロイセンは、愛していると口にするのを躊躇わない。彼が、だれかに愛を捧げるのは当然のことだからと彼は言う。愛してるとキスをくれるプロイセンが好き。
彼は愛されるのがすきだと僕は知ってる。やわらかいマシュマロみたいな愛情が、彼は好き。おかえりなさいって、きみが好きだって、抱きしめてあげるのが、彼は好き。
僕は知ってる。
「ねえプロイセン、あなたが本当に、
僕の為に存在していたら、僕を愛してくれていたのなら、」
ひまわりのように笑うあなたが好き。
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