あんたみたいな穀潰しもうたくさんだよ、パン屋のくそばばあはヒステリーじみた声でもって俺を糾弾した。子猫のように首根っこを引っ掴まれて放り出され、俺は「Sheisse!」と腕の 太いパン屋の女将に投げつける。その女はせいせいした、とでも言うようにふん、と鼻息を荒くして、ぴしゃり戸を閉めた。
 俺はというといつまでもそうしている訳にもいかないので、冷たい石畳から立ちあがる。手荷物も一緒に投げ出されただけ、マシだったろう。今日からまた、屋根探しをしなければなら ないと思うと気が重い。わずかな金品だとか、そんな荷物にもならないようなものが詰まった小さめのリュックが、肩にずっしり重りか何かのようにのしかかった。希望だとか絶望だとか 言うものはなにもなく、ただ生きるために、重い足取りを動かしはじめる。

 どうして一所に留まるということができないのだろう、と何の気なしに考えた。前は古本屋、その前はトルコ人街の屋台、そのまた前は…と、そこまで思いを巡らせた所で、考えるの をやめる。どうせ、店主だか従業員だかと馬が合わないだとか、客と取っ組み合いの喧嘩になっただとか、そんな下らない理由で追い出されたところばかりだ。今回もそれは例外では ない。  それにしてもあの怪力ばばあ、小麦粉袋よりよっぽど雑に扱いやがったな。無理やり引っ掴まれた首のあたりの痺れを和らげるべく、左手を後ろにやって上下に擦る。今度街で 見かけたりしたら、ただじゃおかねえ。



「…っと!」



 ふいに、首を擦る左腕が何かにぶつかった。無理に伸ばした二の腕が思いもよらない角度まで曲がって、筋肉に痛みが走る。眉間がぐいと歪んで、俺はぶつかった相手を睨みつけた。



「ああ、すまない」



 それは、男だった。背はギルベルトよりヒールひとつ分高く、180かそこらだろうとギルベルトは推測する。年齢は、ギルベルトと同じか、それ以上と言ったところか。いかにもドイツ 人という風体で、後ろにぴったり撫でつけた透明度の高い金髪も、眼つきの鋭いアイスブルーの瞳も、几帳面な男の雰囲気を醸し出していた。細身のギルベルトと比べなくとも筋肉の 付きがよく、学生時代スポーツでもやっていたか、それとも軍人か何かかもしれないと思った。
 謝罪を口にしたその青年に、ギルベルトが最も心惹かれたのは、人間のにおいがしないという点だった。おかしな話だが、自分と同じような年代であろうその青年は、瞳の中に老人の ような老成した光を持っていた。何かを言おうとして、唇がふるえる。青年は怪訝に思ったか、眉を顰めて「何か?」と聞いた。俺は我に返り、何でもねぇ、俺も悪かったと左腕を下ろす。 街中でこんなことをしているから、人にぶつかりもするのだ…



「………」



 ギルベルトは、逃げるようにして足早にその場を去った。残された青年は、立ちどまったまま、ギルベルトの後ろ姿を眺めている。細められたその目は、遥か遠くに離れた故郷を仰ぐ ような、郷愁の色に染まっていた。






「何度も言わせるなよ、俺の店は俺と女房で手が足りてるんだ。この不景気で、ガキどもが食ってくのもカツカツなんだ、あんたを雇う余裕はこれっぽっちもないよ」
「おい、そりゃねえだろ!俺だってここが駄目なんじゃ、今日の宿だってないんだぜ。自分の分は自分で稼ぐからよ、頼むから雇ってくれよ!」
「しつこいな!悪いけど、他を当たってくれよ!」

 髭面の肉屋の親父は、今日は店じまいだから出てってくれと半ば無理やり俺を店の外に追い出した。ばん、と勢い良く絞められたドアに、Ladenschlussの札が無情に揺れている。俺は それから暫くひとしきりの罵倒を吐きながらドアをがんがん叩いていたが、反応がないと分かると、ふらふら頼りない足取りで肉屋を離れた。
 結局今日の寝床は見つからなかった。ベルリンには既にとっぷりと暗闇が落ち、あちらこちらの窓から淡い光が漏れる。あの民家の窓の中では、あたたかい家族が、あたたかい食事を 囲んだりしているんだろうな。あたたかい寝床で、安らかに眠りにつくんだろうなあ。そう思うと、ギルベルトは自分が世界で一番みじめなものに見えた。まるで家を飛び出したばかり の時のようだ、その言葉が浮かんでくると、頭の中がズキンと痛む。内側から響くような痛みに、ギルベルトは立っていられず、路地に身体を入り込ませた。壁に背中をぴったりつけて、 ずるずる、無様に崩れ落ちる。路銀は心もとなく、一先ずの寝床を探す体力も残っていそうにない。一日かけて十、二十件近くを回った結果がこれか、と、自分の不遇に笑えてくる。 ケセッ、としゃっくりにも似た笑い声が、路地裏に響いた。



「このままくたばるのも、悪くないかもな」



 ギルベルトは、口元をぐっと歪ませて、目を閉じた。溜まった疲労が、ギルベルトを緩く押しつぶす。次に目覚めたときには、少しでもこの糞ったれな日常が変わっていますようにと、 願いながら眠りに落ちた。


ハンマーソングと罪業の塔 Act.2