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 落ちていく。
 落ちていく。
 落ちていく。
 ふわり、包まれるように、落ちていく。
 シュヴァルツヴァルトの底無し沼に身を沈めたように、
 手足の感覚すら失くして、
 落ちていく。
 
 
 
 『ギルベルト』
 
 
 
 声が聞こえる。
 ああ、これは、
 
 
 
 『…ギルベルト』
 
 
 
 これは、親父の声だ。
 俺の大好きな、親父の声だ。
 この世で俺を唯一人愛してくれるひとの、声だ。
 
 
 
 (親父…そこに、いるのか?)
 
 
 
 親父はいつものように俺の髪を掻きあげて、あらわれた額にキスをくれる。
 俺は落ちる。
 俺は落ちる。
 俺は落ちる。
 優しい親父、大好きな親父。この世で唯一、俺のことを愛してくれる親父。
 
 
 
 『ギルベルト
 
 愛しているよ。』
 
 
 
 俺は、堕ちる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 落とされるように目が覚めた。おかしな夢を見たものだ、着地するような感覚で目覚めて考える。俺にキスをしてくれたのは、誰だったろう?俺を抱いたのは、誰だったろう。
 
 
 
 「…ふぁ?」
 
 
 
 起き上がろうとして、漸く俺は異変に気付いた。ギルベルトを覆う、真っ白なシーツ。ふわふわで、干したばかりなのか、太陽の香りがきもちいい。ギルベルトは気付く。スプリングの
  きいた上等なベッドに、ギルベルトは横たわっていた。
 
 
 
 「…ふぁああああああああ!?」
 
 
 
 
 
 
 ベッドから起き上がり、とにかく状況を確かめようとドアを開ける。しぃん、とした静寂が、広い廊下に広がっていた。シックな赤い絨毯には埃ひとつない。家主がよっぽど几帳面
  なのか、メイドのひとりやふたり雇っているのか…ちょっとした貴族の館を訪れた気分だった。壁紙も年季が入ったアンティークじみている一品だったが、装飾が控え目ながらも高貴で
  好ましい。感嘆の声を漏らしたところで、いい匂いが鼻孔をくすぐる。俺は犬にでもなった気分で、ふらふらと、匂いのする方へ歩いて行った。
 きぃきぃ音のする階段を下ると、居間に出た。この部屋はニ階に比べると現代的で、真新しいフローリングが敷かれている。そこに、一人の男が立っていた。俺から背を向けて、
  コーヒーを淹れているようだった。男は、俺の立てた音に気付いたのだろう、ゆっくりと振り向いた。その顔は…
 
 
 
 「Guten morgen」
 
 
 
 その男は、昨日街でぶつかった男だった。
 
 
 
 「おっ、お前、あの時の…!」
 「覚えていたか?あれから帰宅途中、路地裏で寝ているあなたを見つけたんだ。勝手な真似だとは思ったが、自宅に連れ帰らせてもらった。最近は、ベルリンも物騒だからな。ああ、
  あとあなたの荷物は、ベッドの脇に置いておいた」
 
 
 
 男は淡々と、仕事上の必要事項を述べるように言葉を並べる。愛想のないむきむきだ、とむっとしたが、男の言い分は確かに納得できる。こいつが俺を保護しなければ、今のような
  安らかな目覚めは得られなかったかもしれない…俺は、ちょっと俯いて、「Danke」と言った。男は「Bitte」と返す。男はコーヒーカップをふたつ、手にして食卓に置いた。
 
 
 
 「それよりも、朝食にしないか。詳しい話はそれからでも構わないだろう?」
 
 
 
 そこで俺は、朝食の匂いに惹かれてここへ辿りついたことを思い出した。食卓には、アツアツのヴルスト、焼きたての黒パン、未開封のイチゴのジャムに、湯気をふきあげるコーヒー…
  俺は、思わず「おう!」と目を輝かせて、大きく頷いた。無愛想な男は、そこで漸く少しだけ笑みを見せた。
 
 
 
 
 
 
 「うめめーっ!!」
 
 
 
 イチゴジャムをたぷたぷに塗りつけた黒パンを頬張って、俺は叫ばずにはいられなかった。男は「物を入れたまま喋るんじゃない」と眉を顰めたが、本気で怒ってはいないように見え
  た。
 男はルートヴィヒと名乗った。歳は20だと言う。最初街で見かけたときは、自分と同じかそれ以上かと思ったが、年下だとは。こうして見ると、なるほど顔立ちは随分若い。あのとき
  オールバックにしていた髪を下ろしているせいもあるかもしれないが、険の取れた、歳相応の顔つきに見える。いつもそのようにしていれば、無暗に怖がられることも歳を上に見積もら
  れることもないだろうに…と、ヴルストを噛み切ると、これもまた美味い!ヴルストの中から肉汁がじゅわじゅわ溢れて、口の中が焼ける。心地よい熱さだった。少しでも多くこれを
  味わい尽くしたくて、何度も何度も噛み締める。それを向かいに座ったルートヴィヒが、くっと笑って見ているのに気付いて、「わ、悪ぃ」と思わずフォークを置いた。
 
 
 
 「俺、最近ずっと住み込みでアルバイトしててよ。こんなにあったけぇ食事を、だれかと一緒に食べたのなんか、久し振りで、なんか、嬉しくって…それに、めちゃくちゃ美味ぇし!」
 「そうか」
 「お前、家族とかいんのか?」
 「…いや、居ない。一人暮らしだ」
 「そうなのか?勿体ねぇな、それ!こんなに美味い料理を作れるのにさ」
 
 
 
 俺は饒舌だった。ルートヴィヒの美味い料理のせいかもしれないし、ひとりじゃない食卓の心地よさからかも知れない。ルートヴィヒが口を噤んだのをいいことに、取り留めもないこと
  をべらべら話し続けていると、ルートヴィヒはふいに、口を開いた。
 
 
 
 「なら、あなたがここに住むか?ギルベルト」
 「…ふぁ?」
 
 
 
 ルートヴィヒの口にした言葉に、反応したのは俺よりもルートヴィヒ自身だった。言うつもりのなかったことを言ってしまったとでも言うように、コーヒーカップで口元を隠して、
  視線を背ける。
 黙ったままのルートヴィヒに、俺は何か応えなければと思って、「いや、そこまで世話になる訳にはいかねえよ!」とぶんぶん首を横に振る。ルートヴィヒは、視線を俺に戻して、
  そうか、と、傷ついた顔をした。
 傷ついた、顔をした。
 
 
 
 「…ああ、そうだな。すまない、出すぎた真似をした」
 「…いいのか?」
 「は?」
 「世話になっても、いいのか?」
 
 
 
 今度は俺が、目を逸らして、言うつもりのなかったことを言ってしまう。何で言ってしまったのだろう、答えは簡単だ、ルートヴィヒが叱られた子犬のようにシュン、とする傷ついた
  顔を見ているのが、耐えられなかったからだ!
 ルートヴィヒの表情が、晴れやかに日が差したのが分かる。お前、やっぱりそういう表情していた方がいいよ。コーヒーカップを傾けて、俺は昨日会ったばかりの男と同棲することを
  決めた。
 
 
 
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