それから、俺とルートヴィヒの奇妙な共同生活が始まった。路地裏で眠りこんだ俺を、わざわざ拾って自宅まで連れてきたお節介な男は、これがなかなか面白い男だ。まず、弱冠二十歳
にして俺よりよっぽど博識だ。ルートヴィヒの取っている新聞やらTVやらを手持無沙汰に眺めているとき、経済だとか政治だとかの専門用語に首を捻っていると、ルートヴィヒはすらすら
と答えてみせる。自分から知識をひけらかすことをせず、しかし聞かれたことには簡潔かつ明快に答えをくれるのだ。嫌味のないルートヴィヒの態度は俺にとって大変好ましい。
また、語学にも堪能とみえる。俺の前で何度か、別の国の言葉で喋っているのを聞いた。英語はもちろん、若干ドイツ人らしい堅い口調は免れないが、イタリア語やドイツ語を使いこな
しているようだ。この男はドイツ人らしく、仕事とプライベートをきっちり分ける男のようだから、仕事らしき電話は受信してすぐ席を外すのだが、友人とおぼしき相手と通話しているこ
ともあった。何か仕事をしているのかと聞くと、「公務員だ」と淡々と答えられた。他国の知人が多数いるということを考えると、外交官か何かをしているのかもしれないと思った。
また、無愛想という第一印象が間違いだということも分かった。確かにルートヴィヒは目鼻立ちがはっきりしたゲルマン系らしい顔つきで、その上いつも気難しい表情をしているが、
それがこの男の平常なのだと気付いたのは2、3日あの顔を拝んでからだ。嬉しいことがあればたやすく笑顔を見せるし、その笑顔は何ら俺と変わりない。不器用な奴だと言うより、普段
がこうなのだから気にすることは何ひとつないのだと思うことにした。いや、今でも偶に睨まれてるんじゃないかと冷や冷やするが。
驚いたのは、大層ルートヴィヒが近隣の住民に慕われているということだ。ルートヴィヒに付いて買い出しに出かけると、十中八九声をかけられる。俺でなく、ルートヴィヒにだ。「ル
ートヴィヒさん、いいお天気ですね」「そうだな。しかし寒暖の差が激しいからな、体調には注意をするように」「ルートヴィヒさん、お出かけですか」「ああ、明日の朝食の買い出しに
な。一品ヴルスト・ザラートを加えたくて」「お仕事ごくろうさま、ルートヴィヒ」「Danke、こんな日はビールを開けたくなるな」「ルートヴィヒ…」
といった会話が、ルートヴィヒと住民たちの間で毎日と言っていいほど交わされるのだった。近所付き合いを欠かさないのは立派なものだと感心すると同時に、慕われているというか、
尊敬されているような雰囲気さえ見てとれた。つくづく、ルートヴィヒという男は不思議な青年だ。
俺は、正直ルートヴィヒとの生活を楽しんでいた。
初めに仕事が決まるまでと期限を口にしていたくせに、俺は、ルートヴィヒが家を出ると「帰ってきたらいなかった、じゃあんまりか」とソファに腰掛けて、ルートヴィヒが帰ると
「また明日でいいか」とベッドに入る。
このままじゃ駄目だと思っても、なかなか俺は決心できなかった。それほどに、ルートヴィヒとの空間は居心地がよかったのだ。
ルートヴィヒの自宅に身を寄せてから、早2週間が経とうとしていた。
「これ、随分古い写真だな」
リビングに置いてある棚の写真立てに気付いた俺は、ソファに座って新聞を読んでいたルートヴィヒに話しかけた。「ああ、それか」とルートヴィヒは新聞に目を向けたまま即座に返す。
写真の中には、ふたりの男が映っていた。ひとりは、ルートヴィヒ。もうひとりは…ルートヴィヒと、よく似た顔立ちの青年だった。ふたりとも、皺一つないスーツに身を包んでこちら
を向いている。
ルートヴィヒが直立不動の姿勢で立っているのを、もうひとりが左腕を回してルートヴィヒの肩に手を置いている。ルートヴィヒが緊張した面持ちでゆるく微笑んでいるのに対して、
もうひとりの男はというと、隣のルートヴィヒをもからかうように不敵な、勝ち誇った笑みを見せていた。沸々湧いた「何だこいつ、むかつくぜ…」という言葉は胸に仕舞っておく。
その男はルートヴィヒによく似た面差しをしていたが、髪や目を見てみると、ルートヴィヒのそれとは濃淡が異なり、違った色をしているのだろうと推測する。というのは、その
写真は今時珍しいセピア色の一色で取られた写真だったからだ。こんな旧時代の遺物、まだ残ってたのかと驚いた。随分古い型のカメラを使ったのだろう…
「お前の隣にいるのって、誰なんだ?」
ことり、とルートヴィヒが眼鏡を置く音がした。仕事のときや読み物をするとき、ルートヴィヒは眼鏡をかける…彼はソファから立ちあがって、俺と並んで写真立てを眺めた。
「それは、俺の兄だ」
「兄貴?お前、兄貴がいたのか?」
「ああ」
驚いた。随分長く一人暮らしをしていたような風だが、写真の中のルートヴィヒは今のルートヴィヒより僅かに幼く見えるくらいだ。繁々と写真を覗き込んでいると、ルートヴィヒで
ない方の男、ルートヴィヒの兄だという男の首元に目が行く。鉄十字だ。目を丸くして、自分の首元を漁り、あるものを取り出す。
それは、鉄十字だ。形も、色もほぼ同じように見える。妙な偶然だ、おおーと声をあげているとルートヴィヒがそれに気づいて、口を開いた。
「それは、どうやって手に入れたんだ」
「これ?これなー、俺の親父がこういう骨董品好きでよ。親父の倉庫掃除を手伝ってたら見つけてさ。くれっていったら、くれた」
「そうか…」
「それにしてもさ、随分年季が入ってるよな、この写真。ほら、端っこがちょこっと欠けてるし…これ、焼き焦げた跡か?」
「ああ、そうだ、随分古いものだから」
そう言うと、ルートヴィヒは写真立てをゆっくり伏せた。仲睦まじい兄弟の肖像が、笑顔が、見えなくなる。
ルートヴィヒは多くを語らなかったし、俺も聞かなかった。語らずとも、聞かずとも、傍にいることはできたのだから。
しかし、いつまでもその穏やかな時が続くことはなかったのだ。
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