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 『Gute
  Nacht、ギルベルト』
 
 
 
 いつものように、親父は俺の額を掻きあげて、おやすみのキスをしてくれる。
 俺は親父が好きだ。キスしてくれる親父が好き。おはようのキス、いってきますのキス、おかえりのキス、おやすみのキス。親父はたくさんキスしてくれる。俺を愛していると、いつも
  言ってくれる。
 だから、ひとりのベッドの夜だって大丈夫。親父がキスの魔法をかけてくれたから、夜の静けさだって怖くない。明日はきっと、今日よりいい日で、俺を待ってくれているから。そして
  俺はまた、親父のおはようのキスに出会うんだ。
 ベッドの中でうとうととし始めたころ、ドアがキィと鳴った。「親父?」俺は、毛布の中に埋もれながら、親父を呼ぶ。なにか、あったのだろうか?親父は、明かりもつけないで、
  ドアを開けたままにして、こちらに歩いてくる。俺が起きてるの、気付いてないのかな。親父は、
 親父は、俺のベッドの上に乗り上げて、
 そして、
 
 
 
 『ギルベルト、
 
 愛しているよ。』
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 「ギルベルト!!」
 
 
 
 後ろから声が追いかけてくる。あれは誰だ。あれは誰だ。雨はざあざあ降り出して、ベルリンの敷石を打つ。俺は、俺は、どこにいるかもわからないまま、めちゃくちゃに叫びながら、
  駆けていく。駆けていく。
 
 
 
 「ギルベルト、待て!ギルベルト!!」
 
 
 
 ぐい、と腕を掴まれた。そのまま強引に、左腕も取られて、向き合わせられる。目の前には、ルートヴィヒ。雨でびしょびしょになった、ルートヴィヒ。
 
 
 
 「フェリシアーノから連絡があって、まさかとは思ったが…ギルベルト、こんな所で何をしているんだ。傘も差さずに…!仕事を探していたのかもしれないが、調子を崩したら元も子も
  ないぞ!」
 「お前も、そうなのか?」
 
 
 
 俺は呟く。
 ルートヴィヒは、口を噤んだ。
 
 
 
 「お前も、あのイタリアと同じ、何かなのか?」
 
 
 
 ルートヴィヒは、応えない。
 それは肯定だ。
 ルートヴィヒは。
 人間ではない。
 
 
 
 ルートヴィヒは、『国』なのだ。
 
 
 
 「…ああ、そうだ。俺は『ドイツ』だ」
 「じゃあ、俺は?俺は、何者なんだ?お前は、知ってるのか?俺のことを知ってるのか。話せルートヴィヒ、いやドイツ。全て話せ!!」
 
 
 
 俺は激昂する。
 ベルリンの空がぴかりと光る。どこか遠いところで、雷が落ちた。
 
 
 
 「…分かった。全てを、話そう」
 
 
 
 
 
 
 全てを話すと言って、ルートヴィヒはまず帰宅することを提案した。俺はルートヴィヒに逆らわず、フォルクスヴァーゲンの助手席に乗る。俺もルートヴィヒ、いやドイツも、無言だっ
  た。あんなに心安らぐ居場所だったドイツの自宅が、魔女の館かなにか、今にも引き込まれてしまいそうな、おどろおどろしいものに見えた。
 
 
 
 「俺の兄は、1989年に消えた。…知っているだろう?ベルリンの壁が崩れたのと、同時期だ。当時ドイツはふたつに分かれ、俺が西で、兄さんは東だった。壁が崩れたとき、…兄さんは
  消えた。他の共産圏の国から聞いた話では、東西ドイツが統一に向かうにつれて、兄さんは床に伏せっていたらしい。結果として、俺は兄さんを吸収する形で今の『ドイツ』になった。
  忌まわしい壁がなくなって、やっと兄さんに会えると東へ走ったとき、既に兄さんは、消えていた」
 
 「あの写真は、兄さんと俺が一緒に写った唯一の写真だ。20世紀に入るか、入らないかのものだから、まだ色はついていなかった。二度の世界大戦の間も、東西分断の間も、持ち続けて
  いた。いつかまた、兄さんと写真を撮りたいと思って」
 
 「兄さんが消えてから、俺は兄さんの鉄十字の行方を捜していた。せめて兄さんの鉄十字だけでも、形見として持っておきたかったんだ。連邦内の親戚や、他国の連中にも聞いて回った
  し、地方の蚤の市にも足繁く通った。そして見つかった」
 
 「一度目は、ドレスデン生まれの2歳の赤ん坊だった。誕生の記念に、親戚が蚤の市で偶然見つけて贈ったものだったらしい。しかし俺が見つけたときには、その子はもう死んでいた。
  両親から虐待を受けていたんだ。食事も満足に与えられずに放置され、体重が平均の半分以下になっているのを発見された。近所の川の土手に捨てられて、死後1週間近く経っていた」
 
 「二度目は、6歳だった。両親が双方共に若く、保護能力が足りずにデュッセルドルフの孤児院に預けられた。厄介払いだったとも言っていい。その子は孤児院での共同生活になれる
  ことが出来ず、ノイローゼじみた状態になって孤児院を飛び出した。生きるために盗みを働いて、その日暮らしをしていたが、所詮子供のやることだ。捕まって、パン屋の店主にしこたま
  殴られた。打ちどころが悪かったのだろう、そのまま死んだ」
 
 「三度目は、13歳だ。シュトゥットガルトの教師夫妻の間に生まれた。衣食住不自由なく育ったが、親が教師なだけあってしつけが徹底的に厳しく、家の中でも心安らがない日々を過ごした。
  親から学ぶ筈の感情の表し方を知らず、学校でも孤立した。めちゃくちゃに暴力を振るうこともあった。子供たちのなかでイレギュラーだったその少年は、学級内で苛めを受けて、死亡
  した。一人を数人で暴行した跡が見られた。状況を知っていたはずのクラスメイトたちは、追及にも糾弾にも知らないふりを通した。少年にはひとりも友達がいなかった」
 
 「四人目は、比較的長生きをした。29歳だ。マインツ生まれで、妻子も持った。服飾品の製造会社に勤めていたが、不況の煽りを受けてリストラにあった。妻子に逃げられ、なにもかも
  希望をなくして、彷徨った。その果てに、交通事故に遭って、死んだ」
 
 「その誰もが、兄さんの鉄十字を持っていた。…そして、俺は五人目を見つけた。あなただ、ギルベルト」
 
 
 
 ルートヴィヒは、淡々と、続ける。
 
 
 
 「ギルベルト・バイルシュミット。あなたは偶然ながらも、俺の兄が持った人の名と同じ名をもって生まれた。…俺には分からない。プロイセン、俺の兄よ。あなたは非業の内に死んで
  いく。幾度も幾度も、孤独の内に。何故だ?何故、あなたは解放されない?あなたは、『国』であることから解放されたのではないのか?」
 
 
 
 ルートヴィヒは、ドイツは、ふ、と息をついた。コーヒーの中に視線を落として。ルートヴィヒの淹れたコーヒー、あたたかな、筈だった、もの。今俺の手の中で、凍えきった温度を
  伝えてくるもの。あんなにあたたかかった筈なのに。どうして、だろうなあ。
 
 
 
 『なら、あなたがここに住むか?ギルベルト』
 
 
 
 ああそうか。俺は思い出す。俺は、あのとき名乗っていなかった。まだ、名前を言っていなかった。なのに、ルートヴィヒは俺の名前を知っていた。そうか、そうだったんだなルート
  ヴィヒ。俺は聞く。
 
 
 
 「お前は、俺のことを最初から知っていたんだな、ルートヴィヒ」
 
 
 
 ルートヴィヒは、こくりと頷いた。ルートヴィヒは知っていたのだ、最初から。俺が『プロイセン』だと。だから俺に近付いた、だから俺をこの家に迎え入れた。
 
 
 
 「ギルベルト、すまない、俺は」
 「いい、いいんだよ、ルートヴィヒ。ドイツ。いいんだ」
 
 
 
 ルートヴィヒの言葉を、俺は制する。
 
 
 
 「俺、寝るわ。明日になったら出ていく。ごめんな、ルートヴィヒ」
 
 
 
 もごもごと、何かを言いだそうと口を動かしているルートヴィヒを残して、席を立つ。優しいルートヴィヒ、兄の面影を追って俺を求めたルートヴィヒ。
 俺はルートヴィヒの兄ではなかったけれど、ルートヴィヒに泣いて欲しくなかった。いいんだ、そんな哀しそうな顔をしないでくれ。いいから。俺は、いいから。
 
 
 
 
 
 
 最初からさ、わかってたんだ、おれが 幸せになんか なっちゃいけないってさ。
 
 
 
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