「はぁっ、はあっ」
逃げなきゃ、逃げなきゃ。俺は息を切らして走る。じゃないと悪魔がやってくる。シュヴァルツヴァルトの陰に潜む悪魔が、俺を捕まえる。
動かなきゃ、走らなきゃ、はやく行かなきゃ。俺を守ってくれる人なんて誰ひとりいない。はやく、はやく逃げなきゃ、逃げなきゃ!
悪魔が俺の左手を掴んだ。醜く歪んだ、悪魔の顔。俺は叫ぶ。嗤う悪魔。俺は叫ぶ。
悪魔よ去れ!
悪魔よ去れ!
悪魔よ去れ!
どおん、と
俺は階段の上から、悪魔を突き落とした。
「は、
ははっ…やった!」
俺は笑っていた。悪魔を殺した、と。ああ、親父はどこにいる?お願いだから親父、早く俺のところに来て。よくやったって抱きしめて、頭を撫でて。愛してるって、キスをして。
外は酷い嵐。
ふ、と目を向けた窓硝子に映る俺の顔は、
「…何をしている、ギルベルト」
ばん、とドアが開いて、現れたのはルートヴィヒだった。明かりも付けずに、立ちつくす。
「…ああ、起きちまったか?悪いな。早めに終わらせるつもりだったんだが」
「終わらせる、とは何のことだ」
「決まってるだろ?」
俺を、だよ。
洗面所から持ち出した剃刀を自分の喉に付きつけて、俺は言う。
「馬鹿なことを考えるな、落ち着けギルベルト!あなたを騙した俺が糾弾されることはあっても、何故罪のないあなたがそんな真似をしなくてはならない!!」
ルートヴィヒは、俺を刺激すまいとその場から動かず、叫ぶ。目を見開いて、指先を震えさせて。らしくない、感情的な声で。
俺は笑う。「俺は落ち着いているよ、ルートヴィヒ」。窓の外は酷い嵐だ。薄暗い部屋の中で、ふたりの影は動かない。
「ああ、同じだなあ。あの夜も、こんな嵐の夜だった。お前と同じように、親父は明かりを付けずに俺の部屋に入ってきたっけなあ」
「…何の話だ?」
「なあんだ、お前、知らなかったのか?俺が何をしたのか。俺が、何の罪を犯したのか」
教えてやるよ、優しいルートヴィヒ。
ぴかりと、まばたき一つ分だけの時間部屋の中が眩いくらいに照らされる。
「俺は、親父を殺したんだよ。」
間もなく、どかんと、轟音。
随分近くに落ちたみたいだ。
「今日と同じ嵐の夜だったよ。俺がベッドの中でうとうとし始めたころ、ドアが開いた。親父だった。明かりもつけずに。妙によく聞こえる足音で、親父が近付いてくるのがわかった。
親父は俺の上にのしかかってきた。俺は親父のやっていることがよく分からなくて、されるがままだった。さっきおやすみのキスをしてくれた親父とは、別人みたいだった。親父は、
俺の服のボタンをひとつふたつ、ゆっくり外して、服の隙間から片手を入れて、胸とか腹とかをぺたぺた触ってた。親父のもう片方の手が、俺のズボンを下ろそうとしたとき、俺は大声
を上げて親父を振り払った。あの時俺はなんて叫んだか覚えちゃいないけど、言葉にもならないようなめちゃくちゃな叫び声だったよ。俺は逃げた。泣きながら逃げた。親父が追いかけて
きた。怖かった。怖かった。狭い家だ、親父はすぐに俺を捕まえた。俺は、俺は、俺は親父を突き飛ばした。階段の上から。その時の俺は、きっと悪魔の顔をしていたよ。
…わかったろう、俺は罪人だ。罪業の十字架を背負う罪人だ。だから俺は許されないし許されちゃいけない、救われちゃいけないんだ」
また、
ひとつ神様の怒りが落ちてくる。罪深い俺のことを、天にましますお方が怒っている。
「この2週間、楽しかったよ。本当に、楽しかった。ルートヴィヒ、お前が俺を拾ってくれたからだ。俺はお前の兄貴じゃないけど、お前のことが好きだ。どれだけ感謝したってし足りな
い。俺が二度と手にできないと思った、あったかくて、ひとりじゃない時間をくれたから。
ごめん、ごめんなルートヴィヒ。こんな俺が、お前の兄貴の生まれ変わりでごめんな。救いようのない、俺でごめん。なあ俺はきっと次も生まれ変わるだろう?その時は、誰よりも
早く俺を見つけてくれ。それで、次の俺を、救ってやって。はは、こんなの許されないのかな。最後くらい、祈ってみたっていいのかなあ」
今度は、二度と俺を独りになんてしないで。
また、
ひとつ、
ひと光り。
祈るかたちの手で剃刀を握る。長くながく伸びた影は、俺の首に揺れている鉄十字とおなじ、十字架のかたち。
「さよなら、ルートヴィヒ」
耳をつんざくような、音。
それが雷が落ちた音じゃなくて、声にもならない声で激昂したルートヴィヒの声だと気付いたのは、目の前にもう少しで俺の喉を掻き切るところだった剃刀が、ルートヴィヒの手で止まっているのを見たときだ。
「なんで…」
なんで、殺してくれないんだよぉ。
俺は、その言葉が言えなかった。言えなかった。ルートヴィヒが、素手で剃刀の刃を掴んで、両の手の平からぽたぽた血を流すルートヴィヒが、ぽたぽた、涙を、落としていたから。
「いやだ」
「いやだ、ギルベルト」
「いやだよ、ギルベルト、死なないで」
ルートヴィヒは、泣いていた。俺の中で、ぱっとなにかが弾ける。剃刀を手から離して、「ルートヴィヒ、ルートヴィヒっ!血がっ!」とルートヴィヒの血まみれの手のひらを抱きしめ
る。
「ギルベルト、死なないでくれ、嫌だ、死なないで」
「死なない、死なないからっ!ルートヴィヒ、ルートヴィヒぃっ!」
「ギルベルト、ギルベルト、俺は、」
今のあなたを 救いたいんだ
俺は、涙のとまらないルートヴィヒの頭を抱きかかえた。俺も泣いていた。嬉しくって、嬉しくって、泣いていた。ルートヴィヒの言葉で、すべてが報われたと思った。すべてが救われた
と思った。
ごめんなさいと俺は言った。それは、俺の殺してしまった親父のためでもあったし、俺の前で血を流すルートヴィヒのためだった。そして、ありがとうと、俺は言う。ルートヴィヒのた
めに、これから生きていく俺のために。
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