「僕のダーチャに来ない?」雪が解け始めたころそう誘うと、ギルベルトは「ビールはあるんだろうな」、と二つ返事で頷いた。そのときは「うん、期待してて」とできるだけ平静に 返したけど、内心はどきどきして心臓を零しそうだった。ギルベルトが僕のダーチャに来る!今まで姉さんと妹以外招いたことのないそこに、ギルベルトがやって来る。20世紀の始めごろ 上司にもらって以来、一から自分で建てたダーチャだった。一昨年植えたリンゴの木とスモモの木、自慢のバーニャを、ギルベルトは気に入ってくれるだろうか。考えるだけでわくわく して、カレンダーに赤いインクで大きな丸をつけた。「この日、何かあるんですか?」そう聞いたトーリスに、「今まででいちばん楽しみな日だよ」なんて返してしまった。トーリスは首を傾げていたっけ。



「これがお前のダーチャか。立派なもんだな」
「でしょ、そうでしょ」
「ただ、冬の間に溜まった埃がひでえな。綺麗好きのドイツ人の腕が鳴るぜ」



 荷物を置くや否や、ギルベルトは意気揚々と腕まくりをした。掃除道具は洗面台の横の戸棚に纏めてあるから、そう言ったのを聞いたか聞かないかのうちに、彼女は勝手知ったる宗主国 の別荘なんて勢いできょろきょろ内装を確認しながら歩いて行ってしまう。これは、ダーチャ中をぴかぴかにするまでゆっくりできそうにないなと苦笑してしまう。でも、きっとそれだ って楽しいだろうな、なんて思えるのはきっとあの人のおかげだ。
 「あった!」洗面台を置いてあるほうからギルベルトの声が聞こえた。それからがちゃがちゃ戸棚を漁る音。しばらくするとギルベルトが戸棚の中身ををあらかた物色したようで、ひょ いと顔を出した。



「俺は床やるから、お前は机の上とか窓とかやってくれ」
「ううん、床掃除は僕がやるよ。広いぶん床の方が大変そうだし。女の子に無理はさせられないから」



 女の子という言葉に、ギルベルトはチェッチェー、と口を窄めた。「俺、女じゃねーし」とそっぽを向くのが、照れた時のギルベルトだと僕はもう知っている。ごちゃごちゃ掃除道具を 突っ込んだ戸棚から布巾を引っ張り出して、「じゃあ窓からお願いね、ディエーヴゥシカ」と言うと、彼女はちらりと視線を寄こして「…任せとけ」と返してくれた。






 ギルベルトは自分を女の子なんかじゃない、と言うけれど、僕からしたらそうじゃない。ギルベルトは女の子だ。姉さんやナターリヤみたいにいかにも女の子らしい体つきではないけれど、僕よりずっと狭い肩幅も、小枝みたいに繊細な指先も、くびれの綺麗な白い腰つきもぜんぶ男じゃなくて女のそれだし、それよりも、彼女の心は女性のものだ。ギルベルトの腕の中は、世界中のどこよりもずっと安らかな場所だ。まるで聖母さまのような。こんなことは、つい1020年前には考えもしなかったことだ。あのころだって何度もこの人と夜を共に してきたのに、抱きしめられるだけで満たされる今はなんだろう。どうして心が通いあうだけで、ただの抱擁がこんなに幸せなものになるんだろう。
 心という器が零れるくらいに満たされるたび、一抹の不安が過ぎる。彼女が僕を抱きしめてくれて、こうして貴重な休暇を共にしてくれていると、どこかから声が聞こえる。僕はいつか 、彼女を壊してしまうんじゃないか?これまでのように、これまでそうしてきたように、無理矢理すべてを奪ってしまおうとするんじゃないか?
 ギルベルトといると、胸の奥がきゅうんと痛む。その痛みは何度も僕の中で叫び声を上げるのだ。ぜんぶが、ぜんぶが、欲しい。彼女のすべてが。そんなことは許されないって分かっているのに。それなのに僕は考えてしまうのだ。彼女がいつか僕から離れて行ってしまうくらいなら、いつか、いつか、



 ギルベルトが弟のところに帰ると言ったなら、
 僕は彼女を喰らい尽くしてしまうんじゃないか?



「それでも俺はあいつんとこに帰るぜ」



 バーニャの中に腰かけて彼女は言う。朝ダーチャに着いてから、もう夕方になってしまった。おかげでダーチャは隅から隅までぴかぴかだ。きっと彼女も疲れたのだろう、あーっと少々 野太い声をすっかり蒸し上がったバーニャの中に響かせた。うん、いいんだけどね、好きだから。



「俺は東ドイツだからな。プロイセン王国が解体されたときに、消えちまう筈だった俺が、神の御意志かなにかで生き残っちまったんだ。もしドイツが昔のようにひとつになるのが時代の 流れなら、俺はあいつのところに戻る」
「…ドイツがひとつになったら、象徴となるのはひとりかもしれないのに?」
「それでも、だ」



 彼女がそれまで組んでいた足を伸ばした。彼女を中心として生まれた熱気の波紋が、少し離れたところで向かい合って座っている僕の所まで届いてくる。きゅうに寒くなった気がして、 膝を抱えた。「おい、聞いてんのかクソガキ」とギルベルトが眉を寄せる。でも、僕の眉間の皺はギルベルトよりずっと深い。それが拗ねたときの僕だとギルベルトもよく知っているの だ。



「寂しいか?」
「…さみしいよ」



 ギルベルトはくすくす笑った。なんで、なんで笑うの。わからなくて僕はますます膝と膝の間に自分を沈める。がたんと音がして、ギルベルトがバーニャから立ち上がったのがわかった。 くるりと背を向けて、木製の床を鳴らしながら足を進める。体を洗う部屋まで続く出口の前まで来て、彼女は立ち止まった。



「なんで俺だってさみしいって分かんねーの」



 ぽたぽたギルベルトの髪から水滴が落ちていく。銀色に光る短い髪から下っていく滴たちは、白いうなじを辿って背中に至る。肩甲骨まで辿りついたとき、この人は背中の羽をいったい 何処へやったんだろうなんて下らないことを本気で考えた。肩幅に開いた足は無駄な肉がなく美しい。ふくよかでなく、必要な分だけの脂肪を備えた淡白な美があった。中世から近代まで何百回、何千回と馬に跨ったためによく引き締まり、バーニャの蒸気でほんのり色付いた尻を、左手の指先がすっとなぞっていく。



「欲しくねぇの?」



 媚態。
 それでありながら、
 紛れもなく神聖な。



「誘ってんだけど。」



 がたん!と音がした。僕がバーニャから立ち上がった音だった。ぐいとギルベルトの腕を引いて、バーニャを出る。「お、おい、イヴァンっ」もどかしい、もどかしい、高温のバーニャ からいきなり外へ出て冷えたせいだけじゃなくて、胸が燃えるようにばくばく鳴っている。母屋へはすぐだ。彼女の「Ja!」の許可がもらえるまでごしごし磨いた床に、僕から彼女から水滴が落ちていくけれど、気にならない。彼女が静止の声を上げているようだったけど、やっぱり気にならない。脇目も振らずやってきた寝室のベッドの上に抑えつけるようにしてギルベ ルトを寝かせた。すかさずその上に覆いかぶさる。



「もぉっ…無理だよ…っ」



 明かりをつけるのさえ忘れた、仄暗い部屋の中で、僕の下の赤い瞳が光っている。熱を帯びて、今にも零れ落ちてしまいそうな。






「きみが好き。きみがほしい、きみの全部が欲しいよ。聖母さまみたいなきみが好きだよ。誰にも渡したくない、離れたくないよ。ぼくから離れないで、ここにいて、ぼくを好きでいて、 ぼくにきみの全部をちょうだい。わかんないよ、これが君の言った、何をして欲しいか言うってことなの?こんな乱暴な、きみの全部が欲しいなんて、それこそ『ロシア』みたいな、 きみの全部を壊しちゃいそうな、こんな恐ろしいものが、僕の望みなの?わかんない、わかんないよ。これがっ…」






 どうにかなりそうだった。胸の中から叫んでくる痛みを、浮かんだままに言葉にしていた。誰かを好きでいること、誰かを愛していることが、こんなに恐ろしいことだったなんて、知らなかった。誰かを憎むことよりずっと、激しいことかもしれなかった。こんなに狂おしく誰かを思うことなんて、初めてだった。
 僕の下にいる、まさに僕の中の恐ろしい感情が一心に向かうその人は、唇を引き結んで僕が喚くのを聞いていた。彼女は、こんなのが僕の望んでいることなの、と震えた声で呟く僕に、 手を伸ばした。左手の手のひらで、ぱしん、と頬を軽く叩く。そして彼女は笑った。



「よく、言えたじゃねぇか。イヴァン」



 彼女はもうひとつの手のひらを持ち上げて、僕の顔をやわらかく包んだ。さっきまでバーニャにいた彼女の手は熱くてきもちいい。「そう思うのが、正しいこった。俺様っていうすこぶる魅力的な女にはな」僕の額と彼女のそれがこつんとぶつかる。驚いて閉じた瞳をまた開ければ、上気した頬の彼女がそこにいる。「これ、が、正しいの?」「おお、そうだとも」爪先まで桃色に色づいた彼女のからだ。彼女は水滴の残る僕の頭をわしわしと撫でた。



「いいぜ、イヴァン。こんな体でよけりゃ、全部お前にやるよ」



 にかりと笑う彼女の胸に顔を埋める。僕はぼそりと、「ヴァーニャってよんで、」と呟いた。「ああ、ヴァーニャ」。応える彼女が愛おしい。すべらかな肌に頬を擦り寄せた。






 バーニャから上がったまま、何一つ覆いのないままからだは、触れたとたんに吸いつくようだ。はぁはぁ荒い息をしているのは、多分僕のほう。控え目な胸元を余すことなく味わうように、手のひら全部でなぞる。その胸の隙間に、べろりと舌を這わせた。もっと、もっと、この人を味わい尽くしたい。すると彼女は、僕の背中に回した手でキュッと肩を掴んだ。



「ヴァー、ニャ。急くな。逃げやしないから」
「…やだよ、我慢できない」
「けっ、じゃあ、好きにしろよ」
「うん、する」



 右側の乳房の上でつんと立ったものを、すぐにそこまで辿りついた舌でひときわ強く吸い上げるように舐めると、彼女ははあっと熱い吐息を漏らした。今まで幾度も幾度もこの人に跨ってきたのに、ただ肌を触れ合うだけで感じる電撃のような心地よさはなんだろう。彼女もそれを感じてくれているのだろうか。そうだといいな。知りたくて、「きもちいい?」と 肌から唇を剥がして聞く。



「んなこと…聞くなぁ…っ」
「知りたいんだ、ギルベルト」



 彼女は、きもちいい、と泣くように叫んだ。ずん、と腰が重くなったのをはっきり感じる。急くな、なんて彼女は言ったけど、やっぱりそんな風にはできない。早く、早く、彼女を もっと感じたい。彼女の中に入りたい。感情ばかりが先行して、指が上手く動かない。滑るようにして彼女の肌を下り、辿りついた場所はもう瑞々しく湿っていた。銀色の繁みの中に指を差し入れる。もう、ベッドの上に充満する熱気を口から吐き出しているのがどちらかわからない。僕かもしれないし、彼女かもしれない。それともそのどちらもか。かまどのように熱いそこからは、あとからあとから、彼女の中から溢れてくるもので、ぴちゃぴちゃ音がする。雨季を迎えたステップのように、繁みが潤いを帯びる。彼女は焦れたのか、「もぉ、いい 、」と熱に浮かされた高い声で叫ぶ。



「もう、いいからっ、ヴァーニャ。早く、早く挿れて!」



 待ちわびたかのように、彼女は啼いた。
 限界まで張りつめた自身で、濡れたその場所を侵す。彼女のそこは僕をたやすく受け入れた。突き上げるたびに、彼女は高く鳴く。ふるふる震えながら、投げ出したままだった右手が 持ち上がって、左手と同じように僕の背中に添えられる。その手のひらにもう傷痕はない。それは、僕の罪か、彼女の罪かが、赦されたからなのだろうか。無意味だと分かっていながら 繰り返し続けた行為と、今の行為はまるで違う。僕は彼女を求めていたし、彼女も僕を求めていた。子どもを育てる機能を持たず、ただ人を模してつくられた生殖のための器官が僕たちに備っているのは、こんな風に求めあうためかもしれない。心も体も。すべてを満たすために、こんな風に生まれてきたのかもしれない。
 そう考えると、涙が出るくらいに幸せだった。今このときのために、僕は生まれてきたんだと思えた。満たすために、満たされるために、満たしあうために。



 そのために、僕たちは、こんな風に生まれてきたのだ。






「きみが好き!」






 泣き叫ぶように言う。
 世界の中心に僕はいた。










「君って元気だよね、毎回思ってたけど」
「当ったり前だろうが、元軍国舐めんなよ」



 さっきまで突き回されてたことなんてすっかり忘れたとでも言うように、ギルベルトは獰猛に干し肉を食む。結局明け方まで続いたベッドの上の戦争じみた激しい行為のあとでギルベルトが最初に口にしたのは、「腹減った!」という一言。雰囲気気にしてよ、と言い飽きた文句を久し振りに思い出したが、今日ばかりは丁寧に胸の中に閉まっておくことにした。 さてかくして彩られた食卓は保存食が多いとはいえ華やかだ。彼女御所望のビールもある。姉さんが昨秋寄こしたクリムゼクトも大盤振る舞いだ。せっかくダーチャまでやって来てくれたお客様のためならこれくらいはしなく ちゃね。



「掃除やら何やらで、一日丸潰れにしちまったな。まあ自業自得って言やあそうだが」
「…嫌、じゃなかった?」
「は?嫌だったらお前のナニこいつみたいに噛み切ってやるって、ヴァーニャちゃん」



 こいつ、と言いながら、哀れ引き裂かれた干し肉を指す。それだけはやめて、お願いだから。「だったらずーっと俺を満足させとけ」だって?そんなこと言われなくたってするよ、 僕の聖母さま。


Lambency

10/07/10