「アメリカが好きだ」



 イギリスは酷く酔っていたのだろう。ロンドンの戦後から行きつけのパブで、イギリスはその日何杯めかもわからないジンの入ったグラスを揺らしながら、そう言った。



「俺はアメリカを愛してる。どうにかなりそうだ、あいつが望むなら抱かれたっていい。あいつのためなら、何だってしてやりたいんだ」



 フランスは、
 お前はおかしいよ、と言った。
 お前はおかしいよ、イギリス。
 イギリスは、
 そうだな、と言って、杯を傾けた。

 それから、イギリスが倒れた。






 ロンドン郊外、フランスはプジョーを走らせる。今日は、ロンドンにしては珍しくよく晴れている。フランスが愛する、太陽の恵みに溢れたよい昼過ぎだ。今向かっている邸宅の主人 は、イギリス人の多例に漏れずガーデニングを趣味としていた。特に彼の自慢の薔薇園といえば、フランスとはいえ彼より優れた庭を持つものはいないと、言い切れる程の腕前なのである。  彼の庭は不思議な庭だ。春も夏も秋も冬も、季節を選ばず華やぐ。彼が壮健である限り、訪問者を華やかに出迎える不思議な庭だ。魔法がかかっているような、と、ふいに浮かんだ そんな表現を、フランスはこれじゃあの夢見がちな坊ちゃんそのものじゃないかとひとり呟いて思考の外に放り投げた。

 目的の邸宅の前で、フランスは車を停める。
 …主人自慢の、薔薇の園。
 その全てが、花びらを閉じて眠っている。
 フランスは、つぼみばかりのアーチをくぐり石畳を歩く。
 玄関先に立ったときフランスは、ドアの内側から聞こえた物音で、訪問者は自分だけではないようだと気付いた。
 フランスは玄関のドアをノックもなく開いた。勝手知ったる腐れ縁の屋敷、フランスは迷いなく廊下を進んだ。昼間だというのに、廊下は少し薄暗い。赤い絨毯の敷かれた廊下のドア は全て閉め切られて…いや、ひとつだけ、わずかに開くドアがある。そこから、一筋の強い光がほの暗い廊下に差し込んでいた。
 フランスは、すこしだけ開いたドアの向こうを、屋敷の主人の寝室を覗いた。

 ふたりの男がいる。
 ひとりは、寝台に横たわって寝息を立てている。その寝顔は、とても穏やかだ。規則正しく上下する胸は、彼の眠りが安らかなものであると示している。
 もうひとりは、寝台に寄り添って置かれた木製の椅子に座っている。背もたれのないチェアーに座った彼は、フランスに背を向ける格好で、青年らしい広い肩をすこし縮こまらせている。

 フランスが軽くドアノブを捻ると、椅子に座る青年は緩慢な動作で座ったまま振り返り、ああフランス、と馬鹿みたいに彼らしくない、落ち着いた平らな声で言った。
 青年はすぐに、寝台の男に視線を戻した。フランスは彼の非礼を気にする様子もなく、彼の隣に立つ。ふたりの視線の先には、この邸宅の主人が眠っている。安らかに、眠っている。



「起きないね、イギリス」



 アメリカは、眠りについたイギリスの傍らで、イギリスが起きるのを待っている。



 2ヶ月前、イギリスが倒れた。
 世界的不況が続き負担のかかる状態だったことは確かだが、倒れる程の重症だったわけではなかった。
 まず、国の一大事にイギリス中の医師が祖国が倒れた原因を調べた。次に、ヨーロッパから。それから日本から、アメリカ大陸から。世界中の名医という名医が、イギリスを診た。
 けれど異常は何一つ、見つけられなかった。
 今では医師たちもすっかり匙を投げている。原因が皆目わからないのだ。手の打ちようがない。長く国として生きてきたヨーロッパの古参も、アジアの妙齢の国々も、初めて目にする 症例だという。
 要するに、どうすることもできない。

 だが、
 フランスは知っている。イギリスが倒れて、そのまま眠り続ける訳を。
 彼は、
 イギリスは、

 自分よりもアメリカを、愛してしまったのだ。



 アメリカは静かに椅子に腰かけている。両の手のひらを半分だけ椅子の平面について座る姿は、成人を迎えぬ青年そのものだ。アメリカは彼がテキサスと呼ぶ眼鏡越しに、寝台の上の イギリスを見ている。イギリスが起きているときにはやらなかったような、ただ、慈しむものに向ける眼差し。
 アメリカの姿は、フランスがいつか見た、母に先立たれた少年に似ている気がした。母が死んだ事実が把握できないままにひとり放り出され、母の眠る姿を、ただ見つめているだけの 子供に。

「イギリスは俺が思っていたよりずっと、俺のことを思っていてくれたんだね」

 アメリカは、穏やかな表情でそう言った。そうだね、とフランスは返す。「ねえフランス、」イギリスから傍らのフランスに視線を移して、少年は言う。

「もしも、俺がイギリスに、俺を好きになったことを忘れてくれなんて言ったなら、イギリスは起きるかな」

 フランスを見上げるアメリカの、青い瞳。こいつらは性格からなにから良く似ているけど、目の色だけは似ていない。フランスは、「そうかもしれないね」と頷いた。
 そっか、とアメリカは呟く。視線を戻して、イギリスを見つめる。自分の国よりも、自分の国民よりも別の国を愛してしまった、国である資格を失くした男は、安らかに寝台に横たわる。

 アメリカは、彼を見つめている。
 フランスは、彼を見つめている。
 愛することを許されなかった男は、ただ昏々と眠り続ける。






「フランス、俺はイギリスが好きだ。俺はイギリスを愛してる。彼が起きてくれるなら、昔みたいに死ぬほど憎まれたっていい。だけど、イギリスは俺を好きでいてくれている。イギリス は俺を愛してくれている。だから俺は、イギリスにそれを捨てろなんて言えない。だから、俺は」






「やあ、イギリス!今日も飽きずに不景気な顔してるね!」
「なっ!朝っぱらから人のこと馬鹿にすんな!この万年メタボ野郎がっ、育ててやった恩も忘れて!」
「昔のことを持ち出すなんて、これだから年寄りは困るよ。フランス、君の隣国だろ?どうにかしてくれよ」
「お兄さんに言われても困っちゃうよ。イギリスのアホさと天の邪鬼は生まれつきだからな」
「うるっせえ、髭野郎!お前もだアメリカ、昔はあんなに可愛かったのによぉ…」
DRRRRRR、昔のことなんて忘れたんだぞ!いつまでも引きずるなんて諦めの悪い男だなー」
「なんだよ、ばかぁ!」

 いつものイギリスとアメリカの口喧嘩の中からするりと抜け出て、フランスは息をつく。世界会議の会場でもこんなことをやらかすから、この二国は面倒なのだ。休憩時間だから付き合 ってもあげているものを、とフランスは自動販売機のボタンを押してホットコーヒーを購入する。

 あれから間もなく、アメリカが倒れた。
 しかし程なくしてアメリカは、そして手のつけようがなかったイギリスも、時を同じくして回復する。
 起き上がったときには、ふたりは「それまでのふたり」になっていた。
 自分を一番愛する、「国」になっていた。

 何十年何百年と繰り返されるやり取りを、ホットコーヒーに口をつけて、フランスは眺めている。



「愛なんて、紙切れだね。」



 きっと、イギリスの薔薇園は今日も花びらを目一杯開いて咲き誇っているだろう。明日も明後日も、来年も、永遠に。


グッバイ、ラヴデイ

10/04/07