兄さんの肌は芳しい罪の味がした。
 兄は寝台の上で俺を招く。来い、と吐き出された吐息は興奮で濡れていた。来い、ルツ。俺の指先から走る神経のすべてを撫で上げる 甘美な誘いに、迷うことなく俺は彼の手を取った。兄の手はわずかに水分を含んで、俺のささくれた指によく馴染んだ。





 ルートヴィヒにとって、休日は家で過ごすのが常だった。得てして、二度の大戦を経て真の良き友となったイタリアや、隣人フランス、 昔馴染みのオーストリアやハンガリーの訪問、またはこちらからのそれで、実現することは少ないのだが、ドイツ人の性か、元々内向的な 性格も手伝って、自宅というものは彼にとってごくプライベートかつ過ごしやすい空間であった。
 さて今回は貴重な自宅での休日を得たルートヴィヒは、何をしようかと傍目には分からずとも胸を躍らせて思考しているのである。
 哲学者の横顔にも似た思案の表情は、深い憂慮に浸ったそれにも思われるが、当人からしてはまったくそのような意図はない。欧州人 らしい彫りの深い顔立ちは、歳若い(『国』としても、外見だけをみなすとしてもである)彼にいくらか歳を重ねて見せていた。

「…兄さん、何を見ているんだ?」

 ううーん、と、首を傾げて唸る弟を、向かいのソファに座った兄が眺めている。
 兄の表情は穏やかだ。やわらかな笑みを浮かべた彼の表情は、かつて黒鷲を抱いた男にはひどく似合わない。ルートヴィヒは常と変わらぬ 兄に微笑ましい表情を浮かべつつ、兄の向こうに見えるカーテンに気付いた。
 あれは、大戦後にローデリヒに見繕ってもらったものだったか。解れたり、破けた箇所を直しつつ、かれこれ30年は使っている。ローデ リヒが同居していた間に彼の節約癖がうつったのか、こういった長く使用できるものはとことん使い込んでしまうのだった。白いシンプル なレースのついたカーテンは、今となってはこまめに洗っても取れない汚れが黄色く染み付いている。
 こんなアンティークじみたカーテンも、共に年月を重ねてきたことを思えば案外美しいのだが。夜風にたなびくそれは、月を浚って行く 千切れ雲にも似ている。しかし昼の日光の下で見ると、その汚れは存外目立った。そろそろ買い換えるか、と何度か思ったことを口に出す と、今度こそ実行せねば、という思いが湧き上がる。
 カーテンを買い換えたいのだが、兄さんはどんな色がいい。聞くと兄は顔を緩ませた。ルートヴィヒを見つめた兄の瞳は、とろりと溶か したルビーを流し込んだようだ。そうだ、ルートヴィヒはようやくカントのような横顔を晴れさせた。

「プロイセンブラウがいい、兄さんの色だ。いいだろう、兄さん?」

 弟の常より弾んだ声に、兄は微笑んだ。窓際の黄色いドレープは兄の姿によく似ていた。





 寝台の上で俺と兄さんが絡まり合う。
 俺の背中に爪を立てる兄は、地獄に落ちるに相応しい淫靡を放っていた。俺と兄さんにはそれが似合いだ。共に堕ちていくのがきっと 正しい。
 兄さん、俺の熱に浮かされた声に応えて、兄は一層強く爪痕を残す。兄が俺に残したそれが、かつて神に傅いた彼が刻み付けた罪の痕跡 が、とても神聖かつ罪深いものに思えて、この目に焼き付けたくなる。どんなに首を曲げても、見えるのは精々兄の手首くらいのものだった。 肉付きの悪い兄の手首。俺が何度も縄で締め付けた箇所が、充血してくっきりと痣を残していた。
 美しい爪痕だった。違わぬ罪の証だった。





 食卓に並ぶのは、平日よりほんの少し豪華なメニューだ。冷たい食事という呼び名に違わず、ルートヴィヒの祖国の夕食はごく簡素だ。 一般的に昼食が食事のメインとなる欧州の中でも、イタリアなどの家ではまた勝手が違うのではあるが。友人から何度か習ったヌードルは 今やルートヴィヒのレパートリーの一つである。
 自宅で育てたハーブを散らしたパスタ、薄い生地にジャガイモとヴルストをあしらったピッツァ。イタリア風の食卓は心なしか華やかだ。 そうだワインも開けてしまおう、ルートヴィヒは密かに心を躍らせる。
 食卓では兄が座っている。やわらかに微笑む兄に素直に笑みを返す。

「今日は自信作だぞ、兄さん。兄さんの好きなイタリア料理だ。上手くできているかは、分からないが」

 パスタとピッツァを盛った皿をふたつ、食卓に置く。一度台所に戻ってから、赤ワインとグラスも一揃い。日の高い間に、新調するカーテン を買いに出たときに一緒に買っておいたそれは、イタリア産だ。キアンティ・クラシコ、行きつけのワイナリーで仕入れたそれは、値段の 張るちょっとした高級品である。贅沢の為に節約はするものだ。それが、ルートヴィヒに節約癖を植えつけた親戚とは異なる考えかもしれない。
 黄ばんだカーテンの代わりに、プロイセンブラウのカーテンが窓際で揺れている。兄の色をしたそれが、月を覆う。月を浚って行く。
 奇妙にそれが美しかった。兄の肩越しにそれを眺めつつ、食卓についた。
 時間はゆるやかなワルツのように流れ、収束する。穏やかな休日の出来事を思い返しつつ、ルートヴィヒは食事を終えた食器を洗う。 今日はいい買い物をした。あれほど美しいプロイセンブラウが見つかるとは。我が国の技術力の優秀さをこんなにも謳歌したのは久方ぶり のことかもしれないな、ルートヴィヒは一人満足げに息をつく。
 かつて黒鷲の旗を靡かせて戦場に立った兄は、幼いルートヴィヒにとって天上の軍神そのものだった。彼の目に輝く彼の国の名を冠した 青は、ワーグナーも見惚れるものだろうと思う。
 振り返ると、窓際に兄が佇んでいた。兄の名を冠した青の前で、兄は笑っている。何の憂いもなく、いとおしげに微笑んでいる。ルート ヴィヒの背中がズグンと痛んだ。ルートヴィヒは震える手で蛇口を捻り、家事を中断する。そのままバスルームに駆け込んだ。兄は変わ らず、微笑んでいた。兄の肩の向こうで、月が哂っていた。





 兄さんは持てるもの全てをすべからず用いて、俺を誘い込む。兄の手、兄の腕、兄の指先、兄の爪先、兄の吐息、兄の唇、兄の内股、 兄の悲鳴。全てが俺の五感を刺激する。俺の精神を汚濁させる。兄は娼婦じみた笑みを浮かべた。空気のない声で、笑い声を上げた。 一層強く兄は俺の背中に爪を立てた。





 ザアッと一気にシャワーを流す。服を脱ぎ捨てた肌に、熱湯が流れていく。無心にシャワーを浴びる。ルートヴィヒは、がしゃがしゃと 後ろにやった髪を掻き毟った。
 バスルームに設置された鏡に、自分が映っている。自分の背中が映っている。ルートヴィヒは首を曲げて背後に目をやった。白い背中。 己の白い背中に、彼より逞しく頑強になった白い肌に、今も消えない傷跡がある。

「…兄さんッ」

 赤い爪痕。兄の残したそれ。また、ずきんと消えない傷跡が疼く。シャワーに打たれても、それは洗い流されない。今まで負ったいくつ もの傷跡の、そのどれが消えても、兄の残した爪痕は、兄の残した呪いは、決して消えはしないだろう。
 兄さん。
 兄さん、強欲な俺の兄さん。貴方の好きな、メイプルをたっぷりかけたホットケーキも、貴方に映える赤い縄も、貴方の中に注ぐ白濁 した液体も、全て用意しているから、もう一度俺の背中に爪を立ててはくれないか。もう一度、罪深い貴方が、罪深い俺に、呪いを刻んで はくれないか。

 そうして共に堕ちてゆこう。今度は共に。今度は。今度は。





 兄さんの中で俺は動きまわる。兄を思うさま、蹂躙する。
 兄は恍惚とした瞳で俺を見下げる。その瞳から既にプロイセンブラウは消え、グロテスクな血液の色がそのまま浮かんでいる。高慢な兄 は、下卑た唇と瞳をだらしなく開いている。煌くような淫猥な赤が覗く。俺は死者の肉を食らうがごとく、それを貪る。
 ヘッ、と兄は声も無く哂った。兄は蛙のような声で言った。

「愛してるぜ、ルートヴィヒ」





 翌朝、兄は消えていた。




マリアの爪痕

09/07/24