海が燃える。
 フォースの海が。
 父なる人の祝福がある限り、
 絶対に沈まないと、
 絶対に負けないと、
 あの男が誇った艦隊。

 無敵艦隊、と
 そう呼ばれた艦隊が、どす黒い煙を上げて、スコットランド沖に沈んでいく。



「見ろよ、オランダ」



 イギリスの声に振り向くのと同じ瞬間、ドス、と甲板に叩きつけられるひとりの男。
 男は強く身体を打ち、その衝撃でごほごほと咳き込んだ。口の中を切ったのだろう、わずかに赤い血が混じる。
 オランダの宗主国スペインが、イギリスの下に這いずっていた。ずる、ずるかろうじて動きを見せる指先から、気を失ってはいないのだろうと推測する。イギリスもそれに気付いたの だろう、残虐な笑みを浮かべて、悪魔のような男は勢いを付けて、堅い軍靴でスペインの掌を打ち抜いた。
 ぎゃっ、と、今まで聞いたこともない、スペインの悲鳴。
 今、自分がどんな顔をしているのか、オランダは分からなかった。震えるスペインを見つめるイギリスは、くくっと唇を歪めて笑う。イギリスは最早スペインを見ておらず、オランダ に視線をやる。



「見ろよ、オランダ。
 ずっとこうしたかったんだろう?」



 イギリスの下で、スペインがもがいていた。もがいた所で、足掻いた所で、今さら何も変わらない。アルマダは敗北し、スペインの太陽は沈む。永久に太陽が輝くことなどないのだ。
 スペインの、太陽に焼かれた黒い髪がわずかに持ちあがった。それが苦痛からか、屈辱からか、ぶるぶる震えているのがオランダにはわかる。俯いていたスペインに、オリーブ色の 瞳が現れた。スペインの眼窩に収まったふたつのオリーブは、オランダを見ている。その目の中にある光の名をオランダは知っている。



「…なんでやぁ、オランダ」



 …違う
 俺が見たかったのはこんなものではない。
 俺が本当に、本当に見たかったのは、



 こんな、哀しそうなスペインの瞳ではなくて、







「諦めな、イギリス。お前の負けだよ」



 そう高らかに言い放ったのはフランスだった。イギリスの行く手を阻むのは、未曾有の大艦隊。フランス、スペインといった、今までイギリスが踏みつけてきた国たちであり、ふたたび ヨーロッパの、いや世界の中核となるべく、虎視眈眈とイギリスに反旗を翻すのを待ち続けてきた国たちであった。
 それだけではない、自由という旗印はアメリカ本国のみならず、ヨーロッパの民衆たちをも呼んだ。東欧から西欧まで、優秀な義勇兵たちはアメリカのために戦い、宗主国と植民地の 歴史的な戦いは、植民地の勝利に終わろうとしている。



「俺たちだけじゃない、ロシアを始めとするヨーロッパに残った奴らが武装中立同盟を結んだ。…分かるだろうイギリス、お前にはもう、大人しくパリに来て条約を批准するしかないんだ」



 イギリスは、甲板に膝をついて、今にも崩れ落ちてしまいそうに見えた。スペインの無敵艦隊を叩き潰し、フランスとの植民地戦争に勝利した大帝国とは思えない有様だった。
 その男は、ちっぽけな植民地を愛していた。アメリカと名づけられた小さな子供を、弟と呼んだ。誰も信じず、誰に信じられることもなかったその男は、ヨーロッパで見つけられなかった ものを新しい大陸で得た。
 そして今それを失った。



「その身が呪わしいか、イギリス」



 オランダは意図せずしてそう口にしていた。フランスが、スペインが、オランダに向き直る。大国たちの表情には、動揺の色が覗いている。
 イギリスは、いつかのように顔を歪めて、くふ、ふ、と笑っていた。何もかも失った男は、オランダに向かって顔を上げた。歪み切って、ばらばらと、溢れる涙を拭いもせずに垂れ流す 哀れな男がそこにいた。男は絞り出すような声でこう言った。



「ああ、呪わしい」

 スペインは新大陸を喰らい、

「教えてくれ、誰か教えてくれ」

 オランダはスペインを、喰らい、

「どうして、
 どうして、俺たちはこんな風にしか存在できなかったんだ?」

 イギリスはオランダを喰らい、

「俺は呪う。世界を呪う」

 そしてイギリスは世界に喰らわれる。



 イギリスは笑った。
 絶望に食い荒らされたイギリスの心が、哀しく叫んでいるのがオランダには聞こえた。



 俺が見たかったのは、こんなものじゃない
 俺が本当に、本当に見たかったのは、










「オランダ!」



 スペインがいつものように、ばたばたと忙しなく駆けてきたと思えば、匿ってんか、とオランダの背後に回って肩を丸めた。今度は何をやったのか、どうせまたつまらん事やざ、と 思っていると、次はイギリスがやってくる。「どこだ、スペイン!」…どうやら背中のスペインは、イギリスに性懲りもなくちょっかいをかけてきたようだ。
 イギリスはすぐにオランダの背中にいるものに気付いたようだった。とはいっても、スペインも大の大人である。いくら身を縮めた所でオランダの身ひとつで隠れる筈もないのだが。
 ずんずんと歩んでくるイギリスは、大英帝国の慇懃さそのものだ。まあ、あの頃よりよっぽど丸くはなっただろうが。気付けば、オランダから少し低い目線からイギリスがギギギ、 と睨みつけてきていた。



「おい、オランダ。お前がスペインを隠してるのは分かってるんだ。さっさとこっちに渡せ!」
「…おお、勝手にせんかい」
「ちょ、オランダぁ!親分のこと裏切るん!?裏切るん!?」
「裏切るも何も、最初から親分だとか思っとらんわ」



 オランダのアホぉ!と涙目で訴えるスペインをイギリスに突き出すと、イギリスは喜々としてスペインの襟を引っ掴む。二度と俺に膝カックンなんてできないようにしてやる、ファッ キン!などと凄むイギリスに、堪忍してやぁ、と縮みこむスペイン。猫の喧嘩か、と思うくらいに、しょうもない。



「あらら、親分捕まってもたんか。おにいちゃん酷いなぁ」
「…ベルギー」



 ぴょこん、とそれこそ猫のように身軽にオランダの隣に飛び込んだのは妹のベルギー。今回の世界会議の議長国である。仕事はもう終わったのか、と聞くと、うちやって休憩欲しい もん、と小さな唇を尖らせた。議長国なら会議の休憩時間にもやることはあるだろうが。そう言いたくなったが、やめておく。



「酷い、とは心外やな。スペインの奴がまたしょうもないことをしとるから、あしらっただけじゃ」
「でも、おにいちゃん、楽しんどるやろ?」
「アホなこと言うな」
「嘘やろ、おにいちゃん」



 おにいちゃん、笑っとるもん。



 ベルギーの言葉に、自分がやわらかい笑みを浮かべていることに気付く。







(…ああ、そうか、俺が本当に、本当に見たかったのは、)







 イギリスの手がスペインを締め上げる。ここで決着つけてやる、と意気込むイギリスの頭を平手打ちするドイツ。調子に乗るな、と諌められたイギリスがドイツの威圧感に縮こまった のを見逃さず、現れたのは騒ぎを聞きつけたアメリカで、ばんと乱暴にイギリスの背中を叩きつける。何を騒いでるんだい、俺も入れてくれよ!アメリカの後ろには、唖然としてぽっかり 口を開けた日本。イギリスのふるふる震える肩にフランスがぷぷっと噴き出し、イギリスがアメリカに向き直り、ばかぁ!と会議場の廊下がびりびり震えるくらいのはた迷惑な音量で叫んだ。



 また、同じようなことやっとるやんなぁ、とベルギーが言う。なぁ、おにいちゃん。見つめるベルギーの金髪を撫でてやる。妹は、喉をくすぐられた猫のように、んーっと気持ち良さげに鳴いた。


グロティウスは願った

10/06/01