私は草原を駆けてゆく。先へ。先へ。
私は何処へ向かっているのだろう?
自身は皆目分からないし、教えてくれる声もない。
私は駆ける。脇目も振らずに、ただひたすらに。
私は何故、走り続けるのだろう?
分からない。
只私は駆けている。
ただひたすらに。
目覚めはいつも突然に訪れる。
サンスーシで迎える午後。どうやらうたたねの中にいたらしい…ロッキングチェアに座ったままの午睡は、老いた体に堪える。私も随分と老いたものだ、とシニカルに自嘲する。
皮肉げな笑みは、老いぼれの顔にすっかり張り付いて剥がれないままだ。
「もはや、牧草地に放り出してもらうほかあるまいな」
くくっ、としわがれた声が憎らしげに響いたところで、一転、聞き慣れた馬の嘶き。大王はロッキングチェアに預けていた背をすっと伸ばし、騒音の主に視線を投げる。
「親父!」
訪問者はプロイセンだった。大王は馬を下りたプロイセンに微笑みかける。狩りでもしてきたのだろう、鞍には足を縛られた兎が3,4羽ぶらさがっている。
「久しいな、プロイセン。ヴィルヘルムのお目付役はどうした?あやつを矯正してやると意気込んでいたではないか」
「あいつの女癖は治りようがないっすよ。それにまだ俺の王はフリッツ、あんただ」
「ふふ、『まだ』ね」
「親父!」
プロイセンは軽く拳を握ってぽこぽこと大王の胸を叩く。極めて弱い力で…プロイセンは、幼子のように頬を膨らませて、必死の抗議を試みる。
傍から見れば、仲睦まじい父子の姿に見えるのだろう。軍国プロイセンのこんな姿を見られるのは私くらいのものだろうか。いや、これまで私の父や祖父、その父たちにも見せてきた
のかもしれない。どちらにしろ、20年、30年前にはどう転んでも見られなかった姿だ。
「ところでプロイセン、我が祖国よ。どうして今日はサンスーシに?」
言われた途端、プロイセンの頬にさっと朱が差してそっぽを向く。そこで大王はやっと、プロイセンが後ろ手に抱えるものに気がついた。
それはフルートだった。元はと言えば、生まれ持った性質のためか文を軽んじ軍備を急速に進めた父王の時代のためか芸術にとんと疎いプロイセンに、戴冠してすぐの大王が与えた
のが始まりで、職務の合間を縫って教えてやったものだった。
「一人でも練習は、してるんだけどな。やっぱり自分じゃあ上達してるか分からなくてさ…親父に聞いてもらいたくて」
駄目ですか?照れからか目を背けたままのプロイセンが微笑ましく、「勿論、喜んで」と返してやると、プロイセンの表情が晴れ渡る。馬を片付けてくる、と足早に背を向けたプロイ
センの姿を見送ってから、大王はゆっくりとした動作で腰を上げた。
ふたりきりの音楽会は盛況だ。
大王は肘掛椅子に軽く腰かけ、プロイセンは向かいに立ってフルートを吹く。曲目はフルート協奏曲ト長調…10年前に逝ったクヴァンツの作品だ。朗らかなサンスーシの午後に良く合う。
自信過剰のプロイセンに似合わない照れ混じりの申し出であったが、プロイセンの腕は随分上達していた。指運びがますます軽やかとなり、老いさばらえた私の指では追いつけないの
ではないかと錯覚した程である。いやま未だ抜かせはしないと瞬時に思い直したのは老いぼれの意地だろう。
象牙のホールを抑える自身の指先を見つめるプロイセンの表情は真剣そのもので、戦場でのそれに通じるものがある。それに思い当ったとき、大王はようやく合点がいった。
あの目は、鷲の目だ。
目敏く獲物を探し当て、確実に仕留める黒鷲の目だ。
プロイセンの指先は間断無く動いてホールを捕らえ、プロイセンの息吹がフルートに命を吹き込む。
それでいてその音色は繊細を極める。
プロイセンを少しでも知るものが初めてこれを聞いたなら、彼がこのような音色を生み出すことを信じられるまい。大王でさえ、驚嘆を隠し難いのだ。
昔は彼の瞳をひどく恐れたものだった、大王はわが身を深く肘掛椅子に沈ませる。
幼少時のフリードリヒは臆病な少年だった。軍国主義的な父を恐れ、また祖国を恐れた。冷たいプロイセンブラウが己をねめつけるのは何ものにも勝る恐怖だった。
それが今では、私の教えたフルートを、私に勝るとも劣らぬ腕前で奏でている。
不思議なものだ。しかし、悪い気はしないと緩く瞼を閉じたとき、ふと眩暈を感じた。ぐらりと枯れ木のような体が揺れる。「フリッツ!?」プロイセンの声が聞こえたのと、視界が
暗転するのは同時だった。
私は駆けてゆく。荒野を、駆けてゆく。
ぐにゅりという言い知れぬ感覚を足元に感じ、吐き気を催す。それでも私は駆ける。
幾千の幾万の幾億の、屍を踏み越えて。
死の作業着を身にまとい。
駆けてゆく。
この地獄のような世界を。
(…ああ、人間とは。私とは、なんと呪われているのか。)
「親父、親父っ」
緩やかな、覚醒。窓から吹き込むのは既にひんやりと冷たい夜風である。持病がたたってか、演奏を聴いている途中に気を失ったのだろう、寝台の上に寝かされていた。
緩慢に身を起こすと、プロイセンの両腕が大王を抱きかかえた。フリッツ、フリッツ親父ぃ、と、鼻を啜って繰り返す。大王はどこか冷めた思考で抱擁を受けた。
プロイセン。
己を抱くその青年を、好ましいものに思う。
ああ、私に比べて。この子に呪いなど、あろうはずもない。
私を殺すのは、他でもないこの国であると言うのに。
「ふぁ?」
やんわりとプロイセンの精悍な体を引き剥がす。黙ったままの大王をいぶかしんでか、呆けた顔のプロイセンの胸元を緩く掴み、…そのまま寝台に押し倒す。
老いた男の指先が、プロイセンのスカーフを抜き取る。露わになった首元、無防備なそれを、枯れ枝のような指先が、そっと触れるようにして撫でた。
「…親父…?」
はっと、大王が我に返ったのは、プロイセンの赤子のような幼い呼びかけだった。
寝台から立ち、プロイセンに背を向ける。
「帰りなさい」
プロイセンは動かない。
大王も、動かない。
「…帰るんだ」
再度の命令に、プロイセンは茫然としたまま衣服を整える。そのまま去っていく気配。間もなく宵闇に馬の嘶きが響き、プロイセンはサンスーシを遠ざかる。
そのとき漸く、大王はふらりと肘掛椅子に腰かけた。できはしないのだ。呪われて祝福されたあの子をこの手に留めることなど。
開け放した窓から、プロイセンブラウの夜空が覗く。
私の祖国。私を食い殺す。呪わしい祖国。私の生きた、いとおしき祖国。
永遠なれ。
そしてどうか、私の行けぬ未来を駆けてゆけ。
「愛しているよ…我が祖国よ、我が子よ、我がプロイセンよ」
黒馬の嘶き。フランス王国某所、フランスが所有する邸宅のひとつに、プロイセンが転がり込んだのにフランス、そして酒の相手にと彼を訪ねていたスペインは驚いた。
「ちょっ、ギルちゃん、どうしたん?」
「…ギル、泣いてるの?」
突然の訪問には当然のこと、プロイセンが涙しているという事実はさらに悪友たちを驚かせた。この男がこんな顔をしているのを、ふたりは見たことも考えたこともなかったのだ。
ぼろぼろと、止め処なく流れていく涙の粒を拭うこともせずに、プロイセンは呟く。
「あのとき、」
「親父、泣いてた。」
それが、悲しかったんだ、と。プロイセンは咽び泣いた。
私は駆ける。
草原を、駆けてゆく。
歩みは驚くほどに軽い。
風に乗って、丘の上まで。
そこで誰かが待っている。それを私は知っている。
父を、母を、姉を、友を、そして私を生み、育んだ国。懐かしくも美しい。それは、
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