俺の身長がまだ、兄の腰の辺りまでしかなかったころから、よくかれにキスを請うたことを覚えている。かれは俺が生まれる前から戦い続け、俺が生まれてからも戦い続けていた。 まだ国ですらなかったころの俺は、かれの出征のたびにかれのひらりと踊るマントの端を掴んで困らせたものだ。可愛いルッツ、愛しのルッツ、どうか離しておくれ。お前のためなら なんだってしてやるけれど。はるか上からやってくるかれの手のひらは俺のそれとは別物で、嘘みたいに大きかった。その手でくしゃりと撫でられてしまうと、もう聞きわけのない真似 なんてできなくて、でもやりきれない思いがぐ、と俺の拳を握らせる。自慢のマントはしわくちゃだ。かれは俺を引き寄せて、俺の王よ、命令を、と言う。キスを。キスをくださいと、 俺が言うと、かれはいつも魔法のようなキスをくれた。くちびるが触れたところから奔流のようになだれ込むなにかが、指先まで行き渡る。血管のひとつひとつを伝うようにしてやって くるそれは、かれが差しだす献身であった。かつてかれが傅いた、父なる人に捧げられた献身であった。
 かれのくちづけよりほかに俺を安堵させるものはなかった。おお、全能なる人よ、あなたはちっぽけな俺のためにこの誉れ高いひとを生み出されたのか。かれが俺の元に遣わされた ことに俺は感謝した。かつて聖なるひとを産んだ女の名を冠したかれは正しく祝福された存在なのだろう。ゆるく閉じた瞼の裏で、俺は黄金色の小麦畑に立っているような気がした。 さわさわと黄金が揺れれば、豊穣の音色が鼓膜を優しく撫でていく。満たされている。全身でそう感じている間に、すっとかれのくちびるは去って行ってしまう。かれはとん、と俺の肩 を押して、背を向けるのだ。じゃあなルッツ、俺のライヒ、良い子にしておいで。漆黒のマントをたなびかせて、かれは振り返らない。かれを引きとめた時の、言いようのない不安は すっかり姿を消していた。いつだってそうだ。かれのキスは魔法で、俺の中で生まれたサタンなんて、あっという間にどこかに行ってしまう。かれはそれをよく知っていて、いつだって 降り注ぐような献愛のキスを与えてくれる。






 かれのキスは、オーストリアの作るザッハトルテのように甘い。
 かれのキスは、お抱えのコック自慢のバームクーヘンのように甘い。
 かれのキスは、






 二度目の大戦が始まってすぐのことだっただろうか、アポイントメントなしでやってきたイタリアに俺と兄さんがキスしているのを見られたことがある。兄さんが出かけるというから、 挨拶代わりにキスを交わしていた。入れ替わりでやってきたイタリアは、どうやらそれを見ていたようで、わざわざ出してやったレープクーヘンを見つめているままで、奴らしくなく 堅く閉じた口が開いたのは兄の車のエンジン音が聞こえなくなってからだった。



 ドイツ、いつもあんな風にプロイセンとキスしてるの。



 俺はああそうだが、と事もなげに応えた。信じられない、とでも言うように、ばっと顔を上げたイタリアの表情はやはり堅い。



「お前にも兄がいるだろう、ロマーノとはキスしないのか?」
「俺と兄ちゃんは、そんなに仲良くないけど…ドイツたちみたいのは、あんまり普通じゃないんじゃないかな」



 ドイツとプロイセンってすっごく仲がいいんだね、とイタリアが誤魔化すように笑ったのを、俺はああ、そうなのかと返した。ああ、そうなのか。俺は思う。そうか、俺とかれは普通 ではないのか。目の前のイタリアは口寂しくなったのか、切り子の入った硝子皿に盛ったレープクーヘンをつまんでいる。神に最も近いのであろうイタリアが言うのなら、きっとそうなの だろう。
 イタリアが啄んで、ぱきりと割れたレープクーヘン。ぽろぽろテーブルの上に零れていくその欠片を俺は見ていた。歪んだかたちで焼き上がってしまったレープクーヘンを直すこと なんてできないように、一度出来あがってしまった関係性を修正することは難しい。たとえ、己が歪んでいると自覚していようと。それでは、こぼれていったその欠片たちはどこへ行く のだろう。歪んでできた心から剥がれ落ちたその残照は。
 零れているぞイタリア、と溜め息をつくと、イタリアはヴェッ、と鳴き声のような声を上げた。叱ったところで切りがないので、ふきんでも取ってこようと席を立った。






 かれのキスの味が変わったのはいつだっただろう。
 もうかれのキスは夢のように甘いだけのものではなくて、
 甘くて苦いチョコレエトを啄むのと似ている。
 かれのキスは、
 かれのキスは、
 かれ の、






 ベッドの上で、兄は荒い息を繰り返している。はぁ、はぁ、とかれの胸がおおきく上下するたびに、気が狂わんばかりの激痛がかれを撫でていく。人間であったならば耐えられない ような直死の苦痛がかれを襲っていた。いや、人間であったほうがよかったのかもしれなかった。かれが国でなく人間であったなら、こんな風に眠れもしないベッドに身を投げ出して、 みじめな姿を晒すことはなかっただろう。
 俺はベッドの傍らにひとつ椅子を置いて、そこに座っている。俺自身も、中枢から痛みのシグナルが鳴り響いているのがわかる。大きな大きな戦争が終わってもうすぐ2年が経とうと しているのに、いまだに松葉杖は手放せないし、負傷した左目の視力は完全に戻ってはいない。胸のあたりが息苦しいのはもう慣れてしまったし、なにより俺を苦しませたのは、波のよう にやってくる頭痛だった。頭の中を掻きまわされるように、ふ、とやってくる激痛は、いっそ狂うことができたらどんなにいいかと思うくらいだった。俺がこうなのだから、俺の肩代わり をしているかれもまた同じ痛みを味わっているのだろう。いや、弱っているかれにはより大きな負担になっているに違いない。
 原因は分かり切っている。俺は、俺たちは、分け隔てられようとしている。戦争に負けたドイツはクーヘンのように切り分けられて、やつらの腹の中にすっかり収まってしまうのだ。 そして、その胃袋のなかと同じ色に染め上げられてしまう。Neinと声を上げる余白などありはしなかった。ドイツは分断されようとしていた。
 俺は感じている。かれもまた、同じことを感じているに違いない。
 俺が何をすべきか。
 かれが何をすべきか。
 分かっているから、俺は何も言えなかった。ただ、ベッドの上で息をしているだけのかれに寄り添っていることしかできなかった。
 こうしている時間さえ、もう残り少ないのだと知っていたからだ。



「な、あ、ルツ」



 途切れ途切れになるかれの声の中で、たしかにかれが俺を呼ぶ声を聞いて、なんだ兄さん、と応える。ベッドの上の兄の右目はいまだ包帯の下にあり、ひとつきりの瞳が青く、俺を 見つめている。血走った瞳の奥にあるものを、俺は理解したくなかった。



「分かっているな?俺が、やるべきことと、お前が、や、やるべきこと、を。…潮時、だ、ルッツ」



 聞き分けておくれ、かわいいルッツ。俺は、俺たちは。
 ふるえる指が止まらない。



「…いやだ」



 Nein、と俺は口にしていた。兄の瞳が揺れる。その先に続く言葉を知っていた。知っていた。知っていた。






 普通でないことなんて知っていた。






 もうすぐ俺たちは別れなければいけないということを、知っていた。






「いやだ!!」






 がたんと音を立てて、椅子が倒れる。不自由な足をもろともせずにベッドに乗り上げて、兄の傷ついたからだに馬乗りになる。はじめから包帯が取り代えやすいように緩められていた 胸元を露わにして、てのひらを置く。すらりと浮き出た鎖骨のあたりに触れると、知らず喉が鳴る。包帯に覆われた胸板。傷ついたかれのあわれなからだ。それに欲情している俺は、もう 救いようがないのだと思った。血の巡りが悪く灰色になった肌に顔を埋めると、鼻孔いっぱいに汗のにおいと乾き切らない出血の生臭さが広がる。じっとりと汗ばんだ兄のからだ。はじめ からそうするために生まれたかのように、ぴたりとなじむ手のひら。兄とおなじように自分の息もはぁはぁと荒くなっていた。今までに感じたことがないほどに近くに感じる兄の呼吸。 兄もまた、自分のそれを感じているのだろう。はぁ、はぁ、と、ふたりの呼吸音が重なる。



「ルッツ、おまえ、」



 俺とセックスしたいのか。

 聞いた兄に、



「したい」



 俺は即座に答えていた。



 かれの身体から、はじめから無いようなものだったちからがすっかり抜けていった。いいぜ、好きにしろよ。片方だけの目を閉じた兄の唇に自分のそれを寄せる。くちゅ、と、ふしだら な水音を立てて、キスをした。すこしだけ甘くて苦い、血の味がする。かれの命が流れていく。いや、これは恋の味なのかもしれなかった。恋は苦い味がするというから。
 もうすぐ、もうすぐ、くちびるは離れていく。


銀 の 燭 台

10/06/09