この屋敷は、ぞっとするほど温度がない。
 モスクワ郊外に建つ19世紀にタイムスリップしたような古臭い屋敷の外は、今もびゅうびゅうと凍りつくような風が吹く。ひととき立ちどまればたちまち、指先が凍傷を起こすほどの。 しかし、吹雪のやってこないこの屋敷は寒くもなければ温かくもないのだ。
 温度がない。それは、ロシアの冬よりももっと恐ろしいことかもしれなかった。
 だから彼女は、この屋敷の中では背筋をぴんと伸ばす。軍隊仕込みの、隙のない立ち振る舞いは、この地で一層研ぎ澄まされた。一度たりとも背を丸めてしまえば、そのまま崩れ落ちて しまいそうだった。寄り添うだれかが、堪らなく恋しくなるのだった。
 プロイセンは2階の階段を上がってすぐの位置にあたるドアの前で足を止めた。黒の単色の手袋をした右手で、ふたつノックをする「東ドイツだ」そう口にすると、ドアの向こうから 入室を促す声が聞こえた。



「いらっしゃい、同志東ドイツ」



 この屋敷の主、ロシアがプロイセンを出迎える。執務机に向かう彼の表情は、山積みの書類に隠されてよく見えない…すぐに後回しにするから、こんなことになるのだ。職務怠慢だろ、 とプロイセンは胸中で呟く。



「また仕事サボってたのか。いくつ執務室に書類の山を築くつもりだよ」
「だから今やってるんだよ。職務怠慢なのは上司も同じだし。ああ今手が話せないから、報告は口頭でやってくれる?」



 ロシアは紙束で出来た山脈の隙間から、プロイセンの手の中の文書に目をやって適当に言葉を投げる。めんどくせーな、と聞こえるように言ってやると、そんなこと僕に言えるのは 貴女くらいだよ、と苦笑交じりに返答。
 諦めてプロイセンは、書類を軽く確認してから口を開く。昨夜勤務時間ぎりぎりまでタイプライターと対峙した、ロシア語がずらりと並ぶ紙束。東ドイツの今月の経済報告だ。俺に ロシア本国まで来させる案件じゃねえだろ、と改めて思うが、上司の命令に逆らう気は起きない。こういう生き物なのだ、国というのは。おそらくは。
 目の前にいるもう一匹の国という生き物は、これまた年季の入った万年筆を引っ切り無しに動かして積み重なった書類を処理していく。さらさらと紙の上を滑って行くペン先が、プロイ センが報告する声と同じく、執務室という空間を構成する音になる。ロシアの指先から生まれる音は単調で、とん、とん、と執務机を打つ左手の人差し指からも、退屈そうだと伺える。 屋内でもグローブをはめた人差し指と、木製のテーブルが衝突して生み出す音は、変にくぐもって聞こえた。
 報告が来月の経済活動の予定にさしかかった所で、ロシアは万年筆と一緒に職務を放り出す。子供か、こいつは。あー、と無意味な声を出しながら背もたれに体重をすべて預けたロシア は、プロイセンの咎めるような視線に気付いたようで、肩をすくめる。そして、何かいいことを思いついたというように席を立った。ロシアから指示がない限り、プロイセンは報告を 続ける。にこりと笑ったその男。プロイセンは笑えない。またこの男は何かやらかすつもりなのだろう、と他人事のように考えた。

 ロシアは勿体をつけるようにゆっくり、執務室の赤い絨毯を踏んだ。足音はプロイセンの横を通り過ぎ、無防備な背後までやってくる。そこで男は立ちどまった。プロイセンは口を 閉じない。ロシアは、す、と両手を伸ばして、そのまま後ろからプロイセンの身体を抱きすくめた。右手はプロイセンの頬へ、左手は、シャツのボタンを外しにかかる。ロシアの思惑を 理解して、悪趣味な野郎だ、とすぐに手を差し入れられた胸中で毒づいた。
 ロシアの手が、プロイセンに触れる。触れたところは熱くも冷たくもならない。ただ、グローブのざりざりした感触が肌を撫でて、離れていく。ロシアの右手は、軽く撫でるようにして 頬から首筋へ、首筋から胸元へ、胸元から腕を伝って、右手へ到達する。その頃には、プロイセンの中に侵入した左手はブラジャーの下の乳房に触れていて、おもちゃか何かを弄るよう に動く指に、プロイセンが動かし続ける唇から時折は、は、と甘い吐息が混じった。くっと銀色の睫毛の生えた瞼をふせて、プロイセンは背後のロシアに目を向けた。



「悪趣味、だなっ」
「あはっ、やっと諦めた?」
「笑、ってんじゃねえ」



 ロシアは、幼児のような傲慢な笑みを浮かべて、プロイセンの強張った右手にぴったり密着する形の手袋を剥ぎ取って、



「まだ消えてないんだね、この傷痕」



 手のひらに残る銃創をなぞる。

 消えない傷痕はこれだけではない。左の手のひら、右の足、左の足。もう30年以上も前になる大きな戦争の終わりごろに、この男がプロイセンにつけた傷だ。銃で穿たれた両手足は、 問題なく動きはするものの、その醜い傷痕は一向に消えない。

 これは分かりやすいデモンストレーションだ。
 プロイセンは考える。
 これは、俺とこの男の力関係を端的に表す行為に過ぎない。この男が、俺よりも上位の生き物だと。そう示すための行為なのだ。

 ベッドに行こうか、とロシアが言った。手のひらの銃創を一層深くするように、ロシアの親指が皮膚を押し込む。返事はダーという一つしかないのだ。


スティグマータ Act.2