「ごめんなさい」



 はじめて彼女を抱いたとき、あの体中の血が沸騰するような戦場の真ん中で彼女は許しを請うた。熱に浮かされた声で、何百年も被り続けた誇り高い騎士の仮面を剥がされて、女でしか ない自分を曝け出された彼女は、許してくれと繰り返した。
 あれから30年近くが経ったけど、僕たちがやっていることは変わらない。僕は彼女のすべてを暴いて、彼女は許しを請う。そればかりを繰り返している。



「…ごめんなさい」










 ぱちりと目を開けたときには彼女はもう寝床になかった。ロシアの隣で眠りについていた彼女がいたあたりのベッドクロスが抜け殻のようにすこし盛り上がっている。ロシアが寒がら ないようにか、ご丁寧にきちんとクロスと寝台の隙間は閉じて。12月の室温にぶるっと震えながら、もう少しだけベッドの中にいたくなる自分を抑えつけて、起き上がる。



「おぉ、起きたのかよ」



 警戒心のない、いつもよりほんの少し高い声のほうへ視線をやる。ロシアの私用の机の上に彼女はいた。一糸纏わぬ白い身体を惜しげもなく晒して、脂肪のない引き締まった足を組んで ロシアの机に行儀悪く座っている。その隙間から彼女の秘められた場所が見えそうになっていて、思わず顔を顰めた。



「本当にムードも何もないよね、君って」
「は、期待してたのかァ?」
「別に。30年はこうなんだから、慣れたよ」
 あれだけ内側から荒らして回ってやったのに、これだ。はじめる前は躊躇いだか恥じらいだかを覗かせたりもするのだけれど。あっちも慣れたものだなあと思いながら、強かな人だな あと感心する。すぐ手の届くところに置いてある飲みかけの水が入ったグラスを、ぐびっと豪快にあおると、それが喉を流れていくたびに喉仏がぐっ、ぐっと上下する。 一呼吸分の時間 だけ、その艶めかしい曲線に視線を引き付けられるのが悔しい。彼女のほうはロシアの紫色の瞳が朝を迎えつつある薄暗い部屋の中で光ったのにちゃんと気付いていて、勝ち誇ったよう に笑って机から飛び退いた。



「これからどうするの?」
「帰る」
「そう。ゆっくりしていったらいいのに」



 は、とプロイセンは眉を寄せて皮肉げに笑みを寄こす。「そんなこたァ心にも思ってないんだろう?」昨夜絨毯の上に脱ぎ捨てたままだった下着を拾う。肉の薄い小さな臀部がシンプル な白いショーツに覆われる。ロシアがぼんやりベッドの上から眺めているうちに、プロイセンはさっさと身支度を整えてしまった。薄くラインの走る黒のパンツスーツ、それからまた黒一 色のグローブ。手のひらの銃痕を隠すために必要なそれまですっかり身につけると、「まだてめえが押し付けた仕事が残ってる、それに」と一度言葉を切って、東ドイツ製のブリーフ ケースを掴んだ。



「俺様はおまえが大嫌いだ。必要以上に長居する気はねー」



 びし、と指さして宣言まがいのことをされると、肩をすくめるしかない。「本当、君って変わってる」とだけ言っておいた。






 あんな国は見たことがない。
 こんな風に思ったのは何度めだったろうか。ロシアの傘下に入った国たちは最初はどうであれ、そのうちロシアには何も言ってこなくなる。ロシア自身が望むこと以外はなにも。一番 の古株のリトアニアもそうだし、プロイセンと同じ頃こちらにやってきたハンガリーもそうだ。面と向かって「おまえが嫌いだ」なんて言われると僕だって傷つくのに。何が嫌いなの、 と聞けば、いつまでたってもガキなところ、図体だけは熊並みなとこ、挙句の果てには昔オーストリアくんと組んで戦争を吹っかけてきたとこなんて持ち出してくる。どうして彼女だけ 違うんだろう。何度ああいう風に抱いても変わらないんだろう。



「…どうして、いつも謝るのかな」



 プロイセンは抱かれている間にいつも「ごめんなさい」と謝る。
 一度じゃなくて何度も何度も。
 プロイセンが何に許しを請うているのか、ロシアにはわからない。目の前のロシアにかもしれないし、遥か西のドイツにいる弟にかもしれない。もしかしたら、神様にかもしれない。 彼女はひとが思うよりずっと信心深い女性であるから。



「…あれ?」



 執務に取りかかってから数時間はしてから、見覚えのある書類が一枚だけ落ちているのに気付く。タイトルはロシア語で、東ドイツにおける来年度経済活動予定。プロイセンが顔を 顰めてぺらぺら捲っていた書類の中の一枚だ。これ、持って帰らなきゃだめなんじゃないの。性質の悪い悪戯をしている間に滑り落ちてしまったのだろうそれを手にとってからの行動は 早かった。要するにこれ以上山積みの書類と格闘するのはごめんだったのだ。執務机の上の電話で東ドイツ行きの手配をさせる。きっと彼女は、随分早い再会にとびっきり嫌そうな顔を するだろうな。想像するとちょっと笑える。執務室から出ていく足はうんと軽かった。






「え、いないの?」



 東ドイツについたのは日も傾き始めたころだった。彼女の職場に出向いたのだけど生憎もう帰宅しているという。



「バイルシュミット氏なら、既にお自宅だと思われます。連絡をお入れすることもできますが」
「いや、いや、良いよ。ぶらぶら歩いて行くから」



 ドイツ語訛りの堅いロシア語に返しつつ、スパシーバと告げてプロイセンの職場を出る。プロイセンの職場に立ち寄ったら必ずと言っていいくらいには顔を合わせているあの受け付け のドイツ女性の角張った表情に無感情な笑みが浮かぶのがロシアは苦手だった。感情を乗せない、感情を持て余した人間たちの笑みなんて、こちらではごくありふれたものだけど…ロシア はそんな生きた心地のしない笑顔よりも、もっと自然に生まれる笑顔の方が好ましかった。例えば、今訪ねようとしているプロイセンが、いつも浮かべるようなそれだ。寝惚け眼でした サインが間違っているのを笑われたり、そういうのだ。
 そういえば、僕のうちにいる国の中で、一番思い通りにならないのは彼女だけど、一番笑うのも彼女だなとふと気付く。他のみんなはどうして、笑わないのだろう?どうして、彼女は 笑うのだろう?
 どうして、こちらはこんなに寂しいのだろう。



「あ」



 道すがら、目が覚めるような銀髪が目に留まる。こちらにやってきてから変わった彼女の髪色は、時間のせいか人通りのない東ベルリン市街のなかで目を引いた。ロシアがいることに 気付かないまま、歩みを進めるプロイセンに興味が湧く。あっちは自宅のほうじゃないのに。歩幅の広いプロイセンに遅れないように付いていく。彼女はこちらを見もしない。どこへ行く のだろう、そう首を傾げたとき、彼女は立ち止まる。



 プロイセンは歩みを止めて、視線を持ち上げた。そこにあるのは、そびえ立つ壁。2mを超える、彼女と彼女の民をあちらから隔て続ける壁。
 ベルリンの壁、と呼ばれる絶壁だった。



 彼女は壁に手袋をしたままの手のひらを合わせた。右の頬を愛しげに擦り寄せる。次は左頬。壁にそれを押し付けて、ぴったりと壁に密着する。離れがたきものを恋しがるように、 その向こうにいるひとに温度を伝えたいのかのように。
 壁にその身を押し付ける女が、ロシアの目には罪人のように見えた。黒いグローブの下に秘された弾痕をロシアは知っている。傍から見れば隔てられた肉親を渇望する女性に見えるの だろうけれど、ロシアからすれば自ら罰を望む哀れな女に見えた。



(…それを背負わせたのは、僕)



 ロシアはプロイセンの罪を知っている。
 そして自分の罪を知っていた。


スティグマータ Act.3