短くはない因果な生の中で、いくつもの傷痕を背負った。ドイツ騎士団の名を背負う時代に受けたものもあれば、公国や、王国の名を背負う時代に受けたものもある。消えたものも あれば、今でも消えずに残っているものも。それらをなぞってみれば、当時の記憶とまやかしの痛みが舞い戻る。この身に刻まれた傷あとたちは、騎士として生まれた自分にとって誇り でもあった。ただひとつの傷を除けば。
 今も己を苛む傷痕がある。今も、一向に消えやしない傷痕がある。右手と、左手と、右足と、左足、かつての聖なるひとと同じ場所に刻まれたそれは、天にまします方から与えられた 聖なる御印ではなく、勝者から与えられた刻印だった。
 これが俺の罪。
 背負うべき罪。
 この痕が消えないのは、きっと俺が永遠に許されることなんてないからだ。



(…俺は何から許されたい?)



 答えをくれるものはない。
 この冷え切ったこちらの世界には、縋るものさえ何ひとつないのだ。










「…まーた来ちまった」



 さっさと仕事を片付けて向かったのは、10年ほど前に自ら積み立てた壁だった。東ドイツのど真ん中、陸の孤島とでも言うべきこの壁の向こうは、こちらとは別の世界だ。同じドイツの名を 背負いながら。
 冷たいコンクリートに両手を付いて、ことんと額を寄せる。この向こうにいる俺の弟は、今の俺を見て失望するだろうか。弟のためでなく、己のために生き残ることに血眼になっている 俺を。
 こうして壁の前までやってきて、首にかかったクロスの片割れをもつ弟に想いを馳せるのが習慣になっていた。俺様とあろうものが女々しいぜ、なんて自嘲するのはもう飽きてしまった 。自分が女でしかないなんて、昨夜思い知ってきたばかりのだけど、なんて、遠い北の凍てつく大地のだだっ広い屋敷でひとりきりのあの男を思い出す。



「…あいつ、何で謝んのかな…」



 ロシアはいつも、プロイセンを抱きながら「ごめんなさい」と謝る。
 一度だけじゃなく、何度も何度もだ。
 ロシアが何に許しを請うているのか、プロイセンにはわからない。目の前のプロイセンに向かってそう言っているのなら、一層わからない。謝るくらいなら、抱かなきゃいい。今さら あの行為にいちいち嫌悪感だか何だか抱いてるわけじゃないが、無為に繰り返されるそれに疲れてはいた。キスを交わしたって、何が生まれるわけでもない。そこに一種の虚しさを感じて いるのは、プロイセンの中に秘められた女の性かもしれなかった。認めたくはないけれど。
 この身体は誰に抱かれたって男を満たすことはないだろう。プロイセンが知るどんな女より、プロイセンの身体は痩せっぽちで貧相だ。女であることを求められたのは生れてからほんの 少しの間だけ、今の自分とは程遠い神聖な名で呼ばれていたころだけで、それからはずっと女であることは必要ではなかった。これまでの上司には男として扱えと言ってきたし、弟にも 姉とは思うなと教えてきた。それでもあの弟は「姉さん」と呼んで自分を慕ってくれたのだけれど。ロシアにとっても、そうだろう。扱いにくい国がたまたま女という性を抱える国であっ たから、ああいうやり方でプロイセンを抑えつけている。
 だから結局は無意味なことなのだ。あいつが俺を抱くことも、俺があいつに抱かれることも。あいつが今の俺の従うべき王であることは分かり切っている。だから本当はあんな行為は 無意味で、必要がない。それなのに俺たちは繰り返しているのだ、ふたりして罪を積み上げているのだ、何時までも何時までも。
 両の手のひらと足の甲の傷痕がずきん、と痛む。
 虚しい。



「…ロシア?」



 さああ、と布がこすれる音に振り向くと、朝に別れたばかりの男が立っていた。何でここに、と口にする前に、煤けたマフラーがビルの隙間風に吹かれてまた、さああ、と踊る。すこし 離れた場所に立っているロシアを負う男は、昨夜この身を組敷いた男よりずっと小さく、頼りなく見えた。アメジストの瞳が揺れている。かじかんで、赤くなった鼻。縋るものなんて なくて、立ちつくしている大きな子供。






(…あ、
 なんか、)






 プロイセンの中の湧きあがったなにかを、何と名づけていいかわからなかった。同じように、罪を積み上げる男と女が、そこに向かい合って立っていた。






「ロシア!何の用だ」



 すこし風が強くなってきた。これから吹雪になるかもしれない。風に遮られないように張り上げた声に、ロシアが大げさにびくりと震えた。こいつが本当に、時代を率いる二雄のうち のひとりだろうか?ただの図体がでかいばかりのガキではないか。ひとつ溜め息をつくと、間髪入れずに「渡すものがあるんだ!」と大声で返される。呆れられたとでも思ったのかもしれ ない。失望されるのが怖くて、期待に応えたがるなんて、それこそガキだ。



「これ!持って帰らなきゃ、駄目じゃない」



 ロシアが掲げた一枚の書類にぎょっとする。何てこった、忘れてきたってのか!なんて失態だ。顔を顰めると、ようやくロシアはいつものように余裕を漂わせたやわらかい笑みを浮かべる。 「ふふ、うっかりさんだね」。ふざけんな。



「…書類を忘れたのは俺の落ち度だが、なんでお前自ら来たんだよ。リトアニアのやつにでも頼めばよかったろ」
「だって、もうあの部屋にいるの疲れちゃった」
「国ともあろうものが、情けねえ。ガキが」



 フイとそっぽを向くと、酷いなあなんて零すのが聞こえる。チラリ、視線をやれば、寂しげに目を細めるロシア。



「…もう日が暮れちまうぞ。宿、取ってんのか?」
「取ってないけど…今から出たら、モスクワには着けると思うよ。真夜中になるだろうけど」
「そっからどうやっておまえの屋敷に帰るんだよ、バカ」
「…それで、何が言いたいの?」



 ここまで言ってもこの男は分からない。拗ねたみたいに、唇を尖らせる。半ば呆れながら、あちらの方を向いたままで、プロイセンは呟いた。



 俺んち泊ってけっつってんだよ。



 ロシアはきょとん、と目を丸くしていた。何を言われたかわかっていないんじゃないだろうな、と一瞬だけ考える。次の瞬間には「いいの、」とぽつりとその男は零していて、押しつけ がましいくせに臆病なこの男は、「嫌なら別にいーぜ」と言うプロイセンにダー!と返していた。まるっきりガキみたいにはしゃいで喜ぶロシアに、自然と笑みが浮かんでいた。






 ひとつきりのベッドに、背中合わせに横になる。来客用のベッドなんて洒落たものはないので、俺のベッドには今晩だけは二人分の体重に耐えてもらおう。ちっぽけなベッドの上で、 図体だけは立派なガキの背中が俺の背中に触れていた。狭っ苦しい寝床の中で、俺からも、ロシアからも、不思議と文句は出なかった。特別意味なんてない、ただ触れ合っているだけの 温度が、存外心地よかった。ロシアもそうだろうか。俺を抱きながら許しを請い、無意味にそれを繰り返して、罪を積み上げる男と女の片割れは、この温度に快さを感じているのだろうか。



「お前、体温高えな」
「きみが冷たいんじゃないの?」
「ばっか、お前がガキだからだ。子供体温ってやつだろ、子供体温」
「ガキじゃないよ」
「ふ、ガキ」
「ちがうってば」



 ムキになるところがガキだって言ってるんだよ。くっくと笑みが漏れると、背後の温度が少し距離を取って、やつが背中を丸めたんだと分かった。「きみはどうして笑うのかなぁ、」 と呟く。「僕はきみみたいに、うまく笑えない」。
 こいつに心から笑うことを許さなかったのは何だろう。心まで凍りつくような寒さが、この子供の顔から子供らしい笑顔を奪ったのだろうか。
 この世界がこんなに冷たくなけりゃ、こいつも普通に笑えたんだろうか。

 ふたりの前に、朝が迫っていた。


スティグマータ Act.4