「プロイセンくん、電話だよ」
「…」
「プロイセンくーん?」
「…」
「プロイセンくん、電話が鳴ってるんだってば」
「…うるせー」
 何度か呼んでみたけど、背中合わせで眠ったその人はまだ寝惚けてるみたいだった。この人には珍しい。疲れていたのかもしれない、じゃあ昨日はゆっくり眠れたってことなのかな。
 僕だってこのままベッドの中で寝転がっていたい気分だったけど、ジリリリリと鳴り続ける電話を無視するわけにもいかない。さっさとあの耳障りな音を黙らせて、もう人眠りしちゃ おうか。今ならあのひとだって許してくれる気がした。名残り惜しく思いながらベッドから出て、根気強く鳴り続ける黒電話を取って、アロー、と耳に当てる。



『アロー。何だ、祖国ではないか』



 聞き覚えのありすぎる声に、思わず大げさに肩を落としてしまった。僕の反応で電話の相手に大方の予想をつけたのだろう、渋々起き上がったプロイセンが項垂れる。そんなに落ち込 まないでよ、僕だって好きで電話を取ったわけじゃないんだからね。






 電話先の上司の話では、臨時のソヴィエトがあるから至急帰国するようにとのことだった。僕が東ドイツに来ているのは分かっていたから、プロイセンくんなら何か知っているかと 電話をかけたらしい。僕がプロイセンくんちに泊ってたのに内心驚いたか驚かなかったかは定かじゃないけど、じゃあついでに東ドイツも来るように言いなさいなんて言われると従わない わけにはいかない。



「ソヴィエトなんかお前だけいりゃいいじゃねーかよ!」
「仕方ないでしょ、上司の言うことなんだから」



 議場への赤絨毯を踏みながらプロイセンくんが不満を漏らしたけど、そう言ってしまえばおしまいなのだ。宗主国であろうと衛星国であろうと、上司の言葉には逆らうという選択肢は ない。たとえ上司が間違っていようと、上司がそう言うのなら間違っていないことになる。それが国というものだと、僕もプロイセンもよくわかっている。



「…それに、もう何をしたって纏まりっこないのは分かってるから」



 唇から洩れたのは、諦めの混じったそんな言葉。議場の扉に手をかけるのと同時に、「…ロシア」、とプロイセンが弱く名前を呼ぶのが聞こえたけど、僕は振り返らなかった。ここから はもう、「国家」の時間だ。 






 ソヴィエトはすでに開幕していた。遅れて登場した僕とプロイセンに、ざわ、ざわ、と議場が揺れる。「現れたぞ」「国家殿」ざわ、「あれが…」「隣の女は衛星国か?」「ふん、現 れた所で…」ざわ、「ソヴィエトだ」ざわ、



「いつまで保つことやら」



ざわざわざわ。
 「静粛に!」と上がった声で静まり返る議場。僕とプロイセンは議席についた。上司がす、と手を上げて、議論の再開が宣言された。



「同志よ!」



 最初に発言したのは、代わり映えしない党員たちの中で一際年若いチェコスロヴァキア出身の青年だった。「世界は変容を始めている、われわれも変容を受容するべきだ。変化を求める 声を押しとどめるべきではない!」物怖じしない若い党員の勇敢な発言に、同意の声が上がる。しかし、改革派たちの賛同は年嵩の党員たちの皺を深めるばかりだった。彼らの重く説得 力のある発言に若者たちの勢いが弱まれば、ソヴィエトは代わり映えのしない論議が為されるだけの場となる。
 繰り返される繰り返される繰り返される、無意味な時間。こうしている間にもロシアという玉座は崩れようとしているのに。

 何度も、
 何度も、
 何度も、
 同じ袋小路を辿る。計画された迷宮で堂々巡り。抑えつけられたひと、口を閉ざされたひと、飢えているひと、すべてを捨て置いて、恵まれたぼくたちだけが同じ思考の檻の中で喚いて いる。

 僕はいつのまにか頭を抱えていた。もう何も聞きたくなかった。国であるから、こんなに苦しいのだろうか。「ロシア!」そう、傍らの女が叫んだときには、ぐらりと身体が揺れていた。






「ロシア、起きろ!」
 覚醒とともに耳に飛び込んできたのは、女の怒声だった。「…プロイ、セン?」血液のように赤い瞳が僕の顔を覗き込んでいた。「そうだ」と彼女は頷いた。



「ソヴィエトの途中で倒れたんだよ。自宅で休んだほうがいいだろうって、お前の上司が言ったから、車回してもらった」



 彼女が言うように、自分が横たわっていたのはモスクワ郊外の自室のベッドだった。ぼんやりとした頭で、ベッドに乗り上げたプロイセンの腕を掴む。「…ロシア?」プロイセンは 自分が何をされるかわからないで、怪訝な顔をする。僕の顔の表面に、氷のような仮面が張り付いた。



「…きみのからだみたいに、みんな僕の色に染まってしまえばいいのに」



 プロイセンと位置を入れ替える。抵抗を許さずに、彼女を組敷いた。「ロシア、やめろ、ロシア!」幾度となく繰り返されてきたそれを、今また始めようとしているのにプロイセンは 漸く気付いた。銀色の髪、赤い瞳。かつて弟と同じ色だったそれらを僕が変えた。ゲルマン人らしい金髪はすっかり色が抜けて、冴え冴えとした蒼い瞳は血液の色が透けて見えるような グロテスクな色になった。彼女の意志は手折られることを今まで終ぞ許さなかったけど、今まで荒らしまわったからだだけは僕の色にすっかり染まってしまっていた。皆こうであれば いいのに。皆ずっとロシアであればいいのに。そうしたら僕はずっと、苦しくなんてないのに。
 穿たれた右手と左手と右足と左足。磔にされたあわれな女。消えない罪の証を負い続ける、かわいそうな女。
 ボタンを一つずつ外すことさえもどかしくて、力ずくでブラウスを剥ぎ取った。ぶちぶち音を立てて束ねられた糸が圧力に耐え切れずにボタンを手放していく。下敷きになった女が なにごとか喚いているけれど、うまく聞こえない。女がしていたネクタイで手首を纏めてしまうと、今度はばたばたと足を動かして背中を蹴るので、太股の上に馬乗りになって自由を 奪った。飾り気のないブラジャーをたくし上げて、むき出しになったささやかな乳房に顔を埋め、頬を擦りつけるようにして刺激する。やわらかく乳房を潰される感覚に、女の熱い吐息 が漏れた。汗のあじがする白い肌に舌を這わせながら、下半身に手を伸ばす。チャックを下ろして、ズボンごと下着をずり下ろすと、女でしかない場所が現れる。そして今度は自分の チャックを下ろして、取りだした自身を…



「ごめんなさい」



 うるさい。



「ごめんなさい」



 うるさいよ。



「ごめんなさい」



 うるさいって言ってるでしょう。



 プロイセンの湿った場所に入り込むと、彼女は高い女の声で啼いた。幾度も幾度も繰り返される、許しを請うことばを聞きたくなくて、プロイセンの口を手で覆う。息苦しそうな女に 構わず、思う様に内側から彼女を抉り取る。こうして、こうして、こうして、彼女のからだだけじゃなくてこころもぼくに染まってしまえばいいのに。ロシアになってしまえばいいのに。 それなら、もうこの人はどこにもいかないのに!






「ごめんなさい」






 そのとき、
 聞こえる筈のないことばが聞こえた。
 ことばを封じられた女が、言える筈のないことばだった。
 当たり前だ。










 最初から、許しを請うていたのは僕だったのだ。













スティグマータ Act.5