男が一人、立っている。

 栗色の髪をした男である。肩まで届かないそれを気紛れな潮風に任せつつ、船乗りの守護者たる聖シェラエレーオを象った船首の先に、男は必然のように立っている。

「見ろよ」

 男が振りかえる。

「ここからは、ホドが見渡せる」

 若い男である。成人を迎えて間もない、溌剌とした青年である。南ホド海の水面をそのまま汲みあげたがごとき、清廉な青が瞳に嵌めこまれている。
 この何処にでもいる青年を前にして、船乗りたちは動けなかった。その誰もが、船首の先に降り立った彼より一回りは年を重ねているにも関わらず、である。
 必然―――船乗りたちの当惑は甚大であった。その青年は、今先程まではいなかった人間である。そして、いる筈のない人間であるのだ。

 彼はこの船から100メルトルは離れた、ガルディオス伯爵籍の船舶から飛んできたのだ。
 その言葉に、語弊はない。

「なァ、」

 およそ人が立つことのできる幅を持ち合わせていない船首に危なげなく佇みつつ、口を開いた青年に、船乗りたちはそれぞれの獲物を構えた手をびくりと震えさせた。

「そーいう物騒なモンはとりあえず収めといたら?俺ってさあ、めんどくさいことは嫌なんだよね…あんたらが以後俺らに目ぇつけられるような真似をしないって言うなら、見逃してやってもいいんだぜ?」

 べらべらと気だるげに口を動かす男。その目元はいかにもめんどくさげに歪んでいて、騙そうとしているわけではなく本当に面倒事を厭っているのであろうことが伺える。
 しかし年嵩の男たちは若造の口ぶりに呆気にとられつつも、舐められているのだと感じたようだった。「ふざけるんじゃねえ!」「返り打ちにしてやる!」と口々に怒号を上げ、突如現れた青年のペースから抜け出して闘志を燃やす。船首から逃げようのない彼へじりじりと歩み寄り、獲物をキラリと光らせる。
 青年は、瞳をとじて、はぁーっと大きく溜め息をついた。そして、次に海のように青い瞳が現れたときには、


 空に舞い上がっていた。


 「どこだ!?」と声が上がれば、すぐに「ここだよ」と答えが返る。屈強な男たちが声の主を探して頭上に目をやると…いた。いわゆるロイヤルヤードと呼ばれる桁に飛び移ったのである。およそ人間が飛べる距離ではない。青年は、「めんどくせーな」ともう一度繰り返した。
 すうと潮風を深く吸い込む。


 そして、彼は謡った。




「トゥエ レイ ズェ クロア リョ トゥエ ズェ」




 すると、どうだろう。男たちは次々と甲板に膝をつく。続けざまの不可解さに頭を悩ませつつ。崩れ落ちた男たちは、やがてすうすうと寝息を立て始めた。誰ひとりとして頭上の男が何者なのか、何をしたのか、どうしてそれができるのかわからない。ただの7音節に、誰もがくずおれて床に伏していく。
 …いや、一人だけが膝を折らずにいる。刃零れした曲刀を辛うじて握る中年の男に、青年はヒュウと口笛を吹いた。

「やるねオッサン。第一譜歌『ナイトメア』の効きがよくないとこを見ると、あんた第七音譜術士(セブンスフォニマー)の素質持ちなんじゃないかい?」
「聞いたこともない不思議な譜歌…膨大な音素を利用した超身体能力」

 ふらふらと覚束ない足元、明瞭さを失った視界に音律士(クルーナー)を捕らえて、男は激昂した。




「貴様ッ、ホドの『神の右手(レオン)』かっ!」




 神の右手(レオン)と呼ばれた青年…ホド最強の譜術士ヴェルフェディリオ・ラファ・フェンデは不敵に笑った。
「おっ、俺のこと知ってる?じゃあ話ははえーな、さっさと降参してくれると楽なんだけど。俺が」
「…神の右手が何だっ!俺たちの商売の邪魔はさせねえ!くたばれ、ホドの番犬!」

 キィン!と金属と金属の衝突が生む超高音。
 男は己が振りあげた曲刀がその手から離れたのに気付かなかった。




「商売、ですって?」




 切れ味の落ちたそれを弾いたのは投擲された長剣。
 いつの間にか船の横腹にぴったりと張り付いたガルディオス伯の船舶の甲板で、女が嗤う。

「フェレス島領の、未開発の海上鉱山から盗掘した宝石を売り払う小悪党の所業が、商売?お話になりませんわね」

 ガルディオスの金とフェンデの青、そして真っ赤なルージュ。さらなるホドの騎士の登場に、武器を失った男はようやく膝を折る。

「ところで、ヴェルフェディリオ。先程めんどくさいだとか何とか聞こえた気がしますけれど?」
「気のせいっすよ、気のせい」

 『レディ・バロック』マトリカリア・クラン・ガルディオスは、足取りも軽やかに甲板を飛んで、盗掘者たちの船へ降り立った。




「盗掘品の押収も終わりましたわね。ではわたくしはこの船舶をフェレスに引き渡しにいきますわ。あなたは先にホドへお帰りなさい」
「へいへい」
「ヴェルフェディリオ・ラファ?」
「…了解しました、マトリカリア・クラン殿っと」

 この人にだけは適わない、と何百回と繰り返したフレーズを胸の中で繰り返して、ヴェルフェディリオはふいと沖に目をやった。

 日の入りを迎えつつあるホドの海。
 遥かに望むは、白亜の島。
 そして、そのもっと向こうには。

「どうしたの?ヴェルフェディリオ」
「…いや、」

 とうとう、明日か、と思っただけですよ。

 ヴェルフェディリオの視線の先と、同じものをマトリカリアも見つめている。
 ホドの海が、死んでいく太陽に焼かれている。はるかのホドが禍々しいそれを跳ね返し、きらきらと輝いている。
 ホド。ヴェルフェディリオの、マトリカリアの故郷。
 明日、そのホドに、新しい風が吹き込んでくる。それが平和なのか、災厄なのか、今のヴェルフェディリオにはわからない。
 災厄だとしたら、ヴェルフェディリオはどうするだろう?それを殺すだろうか、それともすべてを承知で受け入れてやるのだろうか。


 それが、預言に示された未来だとしても。




 明日、キムラスカから花嫁がやってくる。



Kyrie ―憐れみの賛歌