「ヴェリオさまっ!」
ガルディオス伯爵邸は第3階、屋敷の最上階にあたる階段を上り終え直後、死角から飛び込んできた影に、ヴェルフェディリオは体勢を崩して、受け身も取れずにどすんと尻もちをついてしまった。平静を取り繕うこともできず「いでっ!」と情けない悲鳴を上げ、このおいたを仕出かした犯人をぎろりと睨みつけた。
「…セーツィ?」
奔放な性分によく合った濃紅のカールをたくわえた頭がびくっと揺れて、飛びつくようにして抱きついたままの姿勢で、ヴェルフェディリオの腰に顔を埋めていた少女―――セクエンツィアは、叱られるのが分かって怯えた子供そのものの顔をして菫色の瞳で主君を見上げた。
「はぅっ…ごめんなさいごめんなさい!わたしっ、ヴェリオさまが帰って来たってペールギュントさまからお聞きして、嬉しくて、きっとお疲れだからびっくりさせて元気をお出ししようって…っ!」
セクエンツィアは口下手なりに言い訳をしようと一気にまくし立ててくる。ヴェルフェディリオ専属の守護騎士たるレヴァーテインたる彼女であるが、弱冠14歳という幼さもあってか、騎士としては少々頼りない。否、訂正しよう。少々、というか、だいぶ、である。
彼女がヴェルフェディリオの守護騎士になってから1年、彼女の扱いにも慣れたもので、常ならば呆れ顔で溜め息をひとつ、少女の瞳が潤みだす前にぐしゃぐしゃ頭を掻き撫でてやりもするのだが、今日ばかりは違った。「いいから、退きな」と少女の小さな両肩を押しのけた。
「先に帰ってな。俺は報告があるからさ」
「は…い、ヴェリオさま」
「ヴェルフェディリオ、だよ。ほら、早く帰んな」
セクエンツィアが、何か言いたげな顔をしながらも、命令に従って素直に退く。声をかけてやるべきだと、分かってはいたが、ヴェルフェディリオはそのまま何も言わずに立ち上がり、主の執務室に向かうべく歩き始めた。自分らしくない。分かってはいた。だが、ホドに来て間もない、幼すぎる彼女を気にかけてやる余裕が今のヴェルフェディリオにはなかった。背後で、階段を下りていく足音が聞こえていた。いつもよりずっと軽やかさがなくて、元気のない足音だった。
…セツィの奴、今ごろ一人で泣きべそかいてんだろうなぁ。密猟者狩りじゃあ傷ひとつ負わなかったくせに、やけに胸がきしきし痛んだ。それも、完璧に自業自得だ。セクエンツィアまで傷つけた。
知らず知らず皮肉げに俯いた顔を、アホか俺は、とばかりに軽く振って、上を向く。すると、執務室前の廊下にひとりの老騎士が立っていた。
「浮かん顔だな、フェンデの」
ペールギュント・サダン・ナイマッハ。ガルディオスの右の騎士たるヴェルフェディリオと対を成す、ナイマッハ家の左の騎士が、いつもの気難しげな顔をして腕を組んでいる。
「マトリカリア様は?」
「フェレス島の女総督どのに、密猟者の引き渡し。婚礼までには帰ってこれない、だそうですよ」
「そうか…」
歯切れの悪い言葉に、ヴェルフェディリオは「何か問題が?」と考え込むペールギュントに不躾に問いを投げる。すると、ペールギュントは視線を足元に落としたまま、「主が休息を取られていない」と言った。
「はあ、ジグムント様が?いつから?」
「朝からだ」
「朝からって…俺とマトリカリア様が出発してから、ずっとっすか?あのサボリ魔にしちゃ、異常すぎやしませんか」
「…無理をしておられるのだ」とペールギュントが言ったが、そんなことはヴェルフェディリオにとっても明らかだ。彼らの主は領主としてあるまじきことにも、ガルディオス邸脱走の常習犯である。職務途中のそれは普通なら美徳とは到底言えないが、集中力に欠ける主にとっては必要不可欠な時間なのだ。それに、ホドの住民に目を配る機会にもなる。そのたびに左右の騎士がホド中を走り回ることになるのだが。
マトリカリアはホドを代表する外交官として世界を飛び回る役割を担うとともに、主が姉と慕う女性である。実の姉であるユリアナがホドの外に嫁いでからは、彼に最も近い場所にある人間と言っていい。彼が不安定な時期にマトリカリアがいないのは、懸念すべきことだ。あの伯爵殿という奴は、何でもかんでも自分一人で抱え込んでしまいがちなのだから。
主を、そしてヴェルフェディリオをも、焦らせるもの。
目前に迫る嵐は、それほどまでに激しいものなのか。
「…間もなく、皇帝陛下との謁見を終えたキムラスカの花嫁殿がグランコクマを発たれる。わしはそのお出迎えだ」
「奥義会総出で出迎えるんですって?大層なこった」
「当然だ、ジグムント様の妻となられる方なのだからな」
ペールギュントはこれからホドを発つという。帰ってくるのは、婚礼の日だ。
顔を上げた老騎士。ナイマッハの碧空のごとき瞳が、ヴェルフェディリオをとらえた。
「ヴェルフェディリオ、あの方から目を離すな。あの方の旧知も、今やホドにはおぬしだけだ。背中を押すのも、踏み留まらせるのも、おぬしを置いて他にない」
わしが戻るまでに、その腑抜け面を何とかしておけ。
騎士らしく、颯爽とヴェルフェディリオの横を通り抜けていくペールギュントの背中に、「…俺、そんなに腑抜けた面してますかぁ?」と投げるが、老騎士はもう振り返らない。溜め息が漏れ出た。いかん、これじゃじーさんの言った通りだな。情けねぇ。
「…俺を買い被りすぎだよ、じーさん」
絨毯の上に、そう、呟きを落とす。そしてヴェルフェディリオは、主君の執務室のドアノブに手をかけた。
「ヴェルフェディリオ・ラファ・フェンデ、只今帰還いたしました」
ノックをしても返事がなかったので、止むを得ず許しなく入室した。執務室は暗かった。そろそろ日が傾くころだが、カーテンはぴったりと閉じていた。おそらくは、朝からずっとそうなのだろう。執務机の上には書類、書類、書類の山脈が連なる。赤絨毯の上に落ちているのが4、5枚。
「…ジグムント様?」
返事がない。あるのは書類の山ばかりだ。
「おーい、ジグムント様?もしかして、とうとう過労死しちゃった?」まだ返らない主君の声に、ヴェルフェディリオは直立不動の体勢を崩して、わざとらしく目元に手をやって泣き真似をする。
「ああ、なんということだ!婚礼直前のお方が、よりにもよって過労死なんて!キムラスカの花嫁殿もお可哀そうに、早速未亡人だよ!貴方様の墓にはこう刻もう、『ジグムント・バザン・ガルディオス、逃亡癖高じてとうとう人生から脱走せり』…」
「…勝手に殺すな」
書類の山並みの向こうから、ぬっ、と黒い物体が現れる。
ホドの民にはそう多くない、漆黒の髪。ガルディオス以外の何者でもない、ホドの蒼の瞳。
ジグムント・バザン。ガルディオス。彼こそが、ガルディオス伯爵にして、ホドを治める唯一の王である。
「あらま、生きてたのねージグムント様。何より」
「…マティ姉さんは?」
「あんたら同じこと聞くね。今ごろフェレスだろ、婚礼には間に合わないってよ」
婚礼。ヴェルフェディリオが口にした言葉に、ジグムントの表情が硬くなったのが分かる。書類に次ぐ書類でろくに顔が見えない正面から執務机の横に回ると、成るほどペールギュントの言う通り休憩ひとつ取っていなかったらしい、ジグムントの顔は今朝よりずっとやつれているように見えた。それでも右手には律儀にも羽根ペンを握ったままである。こいつのことだ、無理に仕事を詰めたあげく、終いには満足に読み込みひとつ時間を使っただろうに。
執務机の真後ろにあたる窓のカーテンを、シャッと一気に取り払う。途端に室内に光が差し込み、すぐ外に伸びる梢の影が揺れる。ガルディオス邸一番の背高のっぽの木は、ジグムントの逃走経路のひとつだ。ここからどうにかして幹や枝を伝って下まで降りていくのだ。運動能力は人並み以下のくせに、そういう能力だけはあるんだ、こいつは。せっかく自ら閉ざした逃げ道を開け放ってやったのに、ジグムントといえば子供のように頑なに、俯いてばかりだった。
その手には、一枚の書類が握られていた。ヴェルフェディリオは、それがジグムントの結婚相手―――ユージェニー・セシルの詳細が書かれた書類だと分かった。
「セシル家…あの『鬼の子』の妹か。こっちは戦場に立ったこともなく、貴族の令嬢らしく箱入りで育ったみたいだな。『鬼の子』のことを抜きにすりゃ、まあ、妥当なとこか」
文字ばかりが並んだ紙面の中で、まだ見ぬ花嫁を思い描くことは難しい。ただ、セシル家の娘、その一文だけがふたりの中のイメージを湧かせた。それは、遥か昔のようにも思えるイメージだ。
血。
そのイメージからは、血の匂いがする。
「もう、3年も前になるのか…」
ぽつりと呟いたのは、ヴェルフェディリオ。おそらく、ふたりの頭の中には同じ記憶が再生されているに違いない。3年前の冬だ。そうだ、あの時は冬だった。雪が降っていたから、きっとそうだ。
あの時、あの場所から、ふたりにとって共通のひとりの友人がホドから失われた。彼は生き残りはしたが、ホドから去った。それは、ジグムントのせいでもあったし、ヴェルフェディリオのせいでもあった。きっと、互いに己が責を負うべきだと思っている。今もなお、そうに違いない。ともあれ、ジグムントとヴェルフェディリオにとって、旧知の友であったひとりの男が、ここにいるならふたりともに叱咤のひとつでもかますであろう男が、今ここにはいない。
「…レクエラートがいたら、何か違ってたかもな」
「ヴェルフェディリオ・ラファ!」
ヴェルフェディリオの唇から、漏れ出るように現れた名前を聞いて、ジグムントが彼らしくなく鋭く叱責する。ジグムントがミドルネームまで呼ぶときは、苛立った時だとヴェルフェディリオは知っている。
「…へーへー、悪うございました。アイツは、もういない。そうでしたね」
ジグムントは、無言のまま俯いている。まだ見ぬ花嫁について記述された書類を、堅く、堅く、握りしめている。
思いつめている。おそらくは、考えなくていいようなことを。考えない方がいいようなことを。それでも、ヴェルフェディリオは止められなかった。ジグムントに背を向けて、彼から去っていく。
「…ま、無理すんなよ」
レクエラートがいたらよかった。もう一度、そう考えた。だって俺は、こんな役に立たない言葉しか与えてやれない。
「ユージェニー・セシル様。ガルディオス伯爵が左の騎士にしてホド奥義会が代表、ペールギュント・サダン・ナイマッハと申します。これから貴女様を、我らがホドへお連れ致します」
白髪の老騎士を筆頭として、十数人の騎士たちが膝をついて頭を垂れる。そのいずれも、蒼を基調とした礼服を纏っている。グランコクマの他の騎士たちとは違うそれは、おそらくはホド独特のものなのだろう。
18を迎えたばかりの少女の表情はヴェールに覆われ、一向に伺えない。老騎士が恭しく差し出した手のひらを、少女はゆっくりと手に取った。彼に助けられ、豪奢な装飾の施された竜車にまた乗せられた。これから少女は、竜車から出ることすらなくホドへ向かう。
カーテンの引かれた窓からは何も見えない。首都グランコクマを見られたのも、国境からずっと乗ってきた竜車から降りて、皇帝との謁見が終わるまでだ。少女は分厚いカーテンに触れる。開かれないカーテン。閉じられたそれ。
その色は、
「………深紅、」
「は?」隣に座ったペールギュントが、少女の呟きを拾い上げて聞き返す。少女は軽く首を横に振った。竜車が動き出す。このまま、連絡船に乗り込むのだ。
こうして、ホドに花嫁が訪れる。
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