「お、おはようございます、ヴェリオさま」
「…おはよ。それと、ヴェルフェディリオ、ね」
外で日課の剣舞を終えて戻って来たセクエンツィアは、はい、と返事をしてしゅんと肩を落とした。ガルディオス邸での出来事から、ずっとこんな調子が続いている。キッチンに消えたセクエンツィアがずずっと鼻をすすったのが聞こえる。あの子という奴は、変な所で守護騎士の矜持を持ち出してくるものだから、こんな時でもヴェルフェディリオには文句ひとつ言いやしない。
はあっとヴェルフェディリオは大きく息を吐いた。
「セツィ、ちょっとこっちおいで」
「え?あ、はい、ヴェリオさま」
ヴェルフェディリオ、だっての。初対面で緊張しすぎて名前の前後しか聞き取れず、結局そのまま定着してしまった渾名をいちいち訂正する。セクエンツィアが戻ってくるまでに、テーブルの隅に置いておいた包みを引き寄せる。一旦洗った手を拭き拭き、セクエンツィアが「何か、ごようですか?」と言ってやってきた。それに、ピンクのリボンつきの包みをずいと差し出した。「え?え?」戸惑いながらも、開けるように促されると、かすかに水気の残る指先でリボンを解く。
中身は、七天兵第4席の通称と同じ、アドニスの花のコサージュ。たわわな黄色い花びらは生花を特殊加工したもので、ホドの細工職人を方々尋ねてやっとのこと急ごしらえで作ってもらったものだ。
「お前ね、レヴァーテインの礼服で結婚式に出るつもりだったでしょ?あれ、地味だからね。これでも付けな」
それと。
「…ごめんな。俺、なんか焦ってるみたい」
と、ヴェルフェディリオが吐き出した謝罪と弱音を最後まで言わせずに、少女は「ヴェリオさまぁーっ!」と抱きついてきた。なんていうか、奇視感。今回は座ってたイスの前足がちょっとばかし浮いただけで済んだ。
このセクエンツィアという子は、不思議だ。あのカンタビレ家の直系のくせに、やたらと人間臭い。嬉しければよく笑うし、哀しければよく泣く。あんまり大げさにそうするものだから、こっちまでつられて笑ったり泣いたりしてしまいたくなる。ついさっきまでご機嫌斜めの主に邪険にされてたっていうのに、そんなこと忘れたってばかりにけろりと笑っている。
「ありがとうございます、ヴェリオさま!」
だからヴェルフェディリオも、目前に迫る嵐のことも忘れて笑ってしまった。
ND1985 キムラスカより純白の花嫁来たる
名を尊き乙女と称す
彼女はホドの王と婚姻を結び
以後ホドはさらなる繁栄を迎えるだろう
時はウンディーネデーカン・ローレライ・24の日、ホド神殿。
玉座の間の両端に、それぞれ花嫁と花婿の一団。
右は花婿。フェンデ家当主ヴェルフェディリオ・ラファ、その傘下たるレヴァーテイン。
左は花嫁。ナイマッハ家当主ペールギュント・サダン、その傘下たる奥義会。
花婿と花嫁は、静々と、中央の玉座に向かって歩みを進める。
玉座を挟んでふたりが向かい合ったとき、花嫁のヴェールが外された。
白ぶどう色の髪。
色づいた頬。
そして、藍色の瞳。
ホドの民の前に、はじめてユージェニー・セシルの顔が晒された。花婿たるジグムントさえ、ホドにおける正式な婚礼の規則により、婚礼の儀式が執り行われる今まで見ることの叶わぬ顔だった。
「きれい…」
ほぅっと、ため息をつくようにして言ったセクエンツィアを、率いるヴェルフェディリオが「セツィ、しっ!」と小声で制す。
歩み寄る花嫁と花婿。ジグムントは、花嫁のルージュの引かれた唇に口付けする。その瞬間に、キムラスカ・マルクト両国の各地から招かれた賓客が、ホド中から集まった観衆が、割れんばかりの拍手を送る。春を迎えたばかりのホドに、鮮やかな花びらが振りまかれる。やがて唇が離れると、ふたりは手に手を取って玉座の間を下りていく。左右の騎士率いる二団がその後を追った。こうして儀式は終了した。朗らかな善き春の日のことであった。
「セークーエーンーツィーアー!お前なー、絶対!喋るなって言ったろ!俺まで喋っちゃったじゃねーか!」
「はうぅうっごめんなさいごめんなさいぃー!」
「謝って済んだら蒼光騎士団はいりません!」
セクエンツィアは潤んだ瞳で平に謝罪の言葉を述べる。ぺこぺこ頭を下げてばっかりいるから、折角整えてやった髪が台無しだ。そして、その胸にはしっかりと、アドニスのコサージュ。
「そのくらいで許してお上げなさいな」とワイングラスを片手に苦笑するのは第5席のフィフュス。マトリカリアの実の妹である。セクエンツィアと同じ一族の出である第3席パルティータも笑いを堪え切れずに噴き出しそうだ。「セクエンツィアらしくは、あるけどねぇ」と笑う彼を、ヴェルフェディリオはじっとりと睨みつける。
「そりゃらしいと言えばらしいけどな。グレニールの双子を見てみろよ、10かそこらなのにお利口さんに黙ってたぜ!?」
「はうぅうっ!?それを言われると弱いですっ!!」
ずびしぃっ、とヴェルフェディリオの人差し指が指し示した先には、第6席ナリスサッガ・第7席エッダナルヴィナの兄弟。こちらがコントじみたやり取りを繰り広げているのも目にくれず、ふたりしてガルディオス家のメイドにジュースをねだっている。まだ年端もいかないのにオンオフ切り換えがしっかりできるというのは素晴らしい。どっかの少女騎士にも見習わせたいものだ。「それってわたしですよね!?」セクエンツィアの涙声に心動かすこともなく、支柱に背中を預けてつまらなさそうにしているのは第2席ブルネッロだ。ヴェルフェディリオの剣の師であり、根っからの剣士である彼女には、このような宴会の場は退屈なのだろう。
まだぎゃんぎゃん喚いているセクエンツィアの頭をこれ以上髪が乱れないように控え目に撫で回してやって、ヴェルフェディリオは披露宴の会場であるガルディオス伯爵邸のホールを眺める。ここに招かれたのは両国からの賓客やガルディオスの縁者たちであり、やはりマルクト側の人間が多いにしても、キムラスカ側の人間もいる。生まれてこの方元宗主国であるキムラスカ王国と激しい対立関係にあったマルクト帝国であるが、この婚礼はその二国を結ぶためのものだ。マルクト伯爵ジグムント・バザンとキムラスカ貴族令嬢ユージェニー・セシル。はじめはおずおずと、やがて宴会の雰囲気に乗せられて饒舌に両国の人間が語り合う様を見ると、ふたりの結婚は幸福なものになるに違いない、なんて根拠も無しに思えてくる。
ふとジグムントのほうに目をやると、挨拶回りも終わったのか、人混みから一旦離れて息をついているようだった。並居る貴族や貴族令嬢たちの間をひょいひょいと通り抜けて、「ジグムント様!」と名前を呼ぶ、その時に、ヴェルフェディリオは主君の表情が晴れの日とは思えないくらいに堅く引きつっているのに気付いた。緊張などではない。生まれてこの方ジグムントと付き合ってきたヴェルフェディリオだからこそ、よく分かる。
あれは、苦痛の表情だ。
「ジ…グ?」
さて、ホールが一瞬静まり返った。二階に続く大階段の上に現れたのは、花嫁ユージェニー・セシルである。婚礼の儀の時から色直しをした花嫁が、ガルディオス家のメイドたちに伴われ、ゆっくりと、一段一段階段を下りていく。
落ち着いて見てみると、セクエンツィアの言った通り透き通るように美しい。だが、何かが足りない気がした。セクエンツィアが人間らしい可愛らしさを持っているとしたら、ユージェニーは人形のような美しさだった。ホドの民よりずっと白い肌をした顔は、まるで仮面のように無機質な笑みを浮かべていた。何故だか、ぞわりと背中が泡立つ。ヴェルフェディリオは、そのままその場に立ち竦んでいた。
何故周りの人間はわからないのだろう?階段を降り立った花嫁の周りに、貴族連中が詰めかける。マルクトのも、キムラスカのも。祝福だとか、美辞麗句だとか、そういったものをいくつもいくつも手渡す。ユージェニー・セシルは、それに応えて微笑んだ。人形のように。
ヴェルフェディリオはふいと目を背けて、ジグムントを見る。ジグムントもまた、固まっていた。表情は堅く堅く、変わらない。ただ彼は、ユージェニー・セシル、彼の妻となる女を確かと見つめていた。
貴族連中から促されたのか、人の輪が開いて、ユージェニー・セシルが歩き始めた。ジグムントのもとへ。白藍色を基調としたドレスの下で、真紅のヒールがカツ、カツ、と鳴っている。ジグムントのもとへ。
…ダメだ
彼女はジグムントの手を取ろうとして、そして、
「…触るなッ!!!」
ジグムントは、その手を振り払った。
晴れやかなガルディオス爵邸・大ホールの雰囲気は一変した。何か異常事態が起こっているとは分かっても、出席者たちは動けなかった。それはホストであるホド側の人間も同じで、しかし何が起こっているのか理解すらできずに立ち竦んだ。
そして、我に返ったヴェルフェディリオが、ペールギュントが「ジグ!」「ジグムント様!」と制したその時、そのどちらもの声を掻き消すような大声で、ジグムントは叫んだ。
「祖国に帰れ…キムラスカの狗!」
ジグムントは踵を返し、ユージェニーが降りてきた大階段を足早に登って行く。その時になって漸くヴェルフェディリオの身体が動いた。「ジグ!おい、ジグッ!」主君を追ってこれ以上ない怒声を張り上げたヴェルフェディリオの声で、出席者たちがやっと動き出す。初めは小さなざわめきであったが、やがてどよめきが周囲に広がった。ペールギュントが「静粛に!ご静粛に!」と出席者たちに大声で促すが、止まらない。
「…部屋に、戻ります」
そう、平静に呟いたユージェニーに、はっとしたようにメイドたちは慌てて「こちらです」と彼女を先導した。花婿も、花嫁も姿を消した披露宴。何ということだ。破綻、崩壊、やはり無理だった。そんな声だどこからも、ここからも、聞こえてくる。
「…最悪、だ」
そう、誰かが呟いた。それよりこの状況を指す言葉に適したものはなかった。
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