「ジグ!ジグムント!待ちやがれっ!!」

 従順な騎士のふりをかなぐり捨ててジグムントに怒声を投げつける。3階の執務室前の廊下までやって来て、そこでやっとジグムントは足を止めた。ヴェルフェディリオもまたそこで立ち止まる。足元に視線を落としたジグムントの胸倉を掴んで、無理矢理こちらを向かせる。

「…やりやがったな。自分が何をしたか、分かってんのか?」
「…お前こそ、誰に何をしているんだ」
「おお、てめえの結婚式を台無しにしたバカ野郎に喧嘩売ってんだよ、俺ァよ」

 ヴェルフェディリオの青と、ジグムントの蒼が対峙する。ホドの空の蒼と称されるその瞳は、暗く濁っていて、今にも雨が降り出しそうな空の色をしていた。だが、ヴェルフェディリオは止まらない。

「それだけじゃない。お前とユージェニー・セシルの結婚は、マルクトとキムラスカの和平の証だ。1500年もの戦乱の歴史を終わらせる、待望された唯一の架け橋だ。お前がやったことは、それをハナからぶっ壊すようなことなんだよ。
 …お前の言ったこと、理解できんでもないよ。俺が言ったようなことは、所詮綺麗事だ。これは政略結婚なんだからな。ユージェニー・セシルがホドを、マルクトを監視する役割を負わされてるのは間違いない。彼女が本当に間者だとしたら、我らがホドにとっちゃ命取りになる。両国の関係が悪化したら、一番に殺さなきゃならん女だ。そうだろう?ホドを愛し愛されるお前だから、ホドを脅かす可能性のある彼女を拒絶した!そうだろうが!?」

 ジグムントは俯いている。堅く口を引き結んで。「何とか言ったらどうだ!」そう叫んでジグムントの身体ごと執務室のドアに打ちつける。がっ、と、後頭部を強く打ったに違いないジグムントが悲鳴を上げて、手を離すと、そのままずるずると崩れ落ちた。ガルディオスの右の騎士にあるまじき所業だが、構うもんか。主を見下ろす。ジグムントは口を開いて、ぽつりと、こう呟いた。




「…幸せな結婚なんて、やっぱり、存在しないんだな」




 そう、寂しそうに。

 ジグ、とヴェルフェディリオは茫然として名前を呼んだ。ジグ、お前。
 ジグムントは答えなかった。ドアに凭れるようにして立ち上がって、ドアノブを捻る。「下がれ」とだけ言って、そのまま執務室に消えた。もはや、ドアが開くことはなかった。ヴェルフェディリオは成す術もなくそれを見送った。





「ヴェリオさま!」

 大ホールに戻ったヴェルフェディリオは、騒然とした披露宴会場を見て大きく溜め息をついた。奥義会も、レヴァーテインも、招待客への対応で大わらわだ。主のいない今、最高責任者であるペールギュントなどは、あっちへ行ったりこっちへ行ったりと今にも倒れてしまいそうな疲労感を表情に滲ませながらも方々を走り回っている。
 その中でも、体良く幼いグレニールの双子のお守を任せられていたセクエンツィアは、戻って来たヴェルフェディリオに気付いて大きく手を振った。ホールの端、支柱の影にグレニール兄弟を連れたセクエンツィアがいた。

「セクエンツィア!今、どうなってる?」
「あれから大騒ぎですよ。破談だ、なんだってお客様たちが騒ぎ立てて。どうにかこうにかホドの皆で説得して回ってます。とりあえず、このことは口外しないようにって」
「…お粗末な対応だな。ま、想定外も想定外だ。それぐらいしかやりようがないか…ったく、あのバカ野郎が」

 額に手をやって、そう悪態をついたヴェルフェディリオに、セクエンツィアは遠慮がちに尋ねる。

「…ジグさまは?」
「あのバカは…今ごろ執務室だよ。…少し、頭冷やさせる」

 それで済む問題じゃあないが。これはもっと根本的な問題だと、ヴェルフェディリオも分かっていた。

 幸せな結婚。
 幸せな結婚なんて、存在しない。

 そう、あんな寂しそうな顔をして言ったのは、ただのジグムントだった。ヴェルフェディリオの親友の。それが、ジグムントの胸に突き刺さった決定的な棘だったのだ。
 どうして気付いてやれなかった。いくらでも、機会はあっただろうに。それとも、ヴェルフェディリオ自身も追い詰められていたのだろうか?アストラエアも、アクゼルストも、ユリアナも、そしてレクエラートもいないホドで生きることに。ホドの行く先を担う者として。

「ヴェリオさま、サッガとエッダを見ていてくれますか?」
「は?え、何する気よ」

 思考に沈みこんだヴェルフェディリオは、セクエンツィアの申し出に慌てて顔を上げた。セクエンツィアの表情はいつもの14歳の少女のものではなくて、カンタビレ家の人間として成熟した決意の顔だった。こういう顔をしているときは、何か仕出かすときなのだ。



「ユージェニーさまの様子を、見てきたいんです」



 ほら、来た。



「何言ってんの!今の状況分かってるか?下手に手ぇ出すな、めんどくせー事になるのは分かり切ってる」
「でも!」

 セクエンツィアを引きとめようと、ヴェルフェディリオは強い言葉で彼女を諌めた。ユージェニー・セシル、敵国からやって来た女、狗呼ばわりされても表情ひとつ崩さなかった女。もしかしたらヴェルフェディリオは、彼女に恐怖を感じているのかもしれなかった。彼女をしっかりと瞳に捉えたあのとき、ぞわりと粟立った背中が忘れられなかった。ユージェニー・セシル、仮面を被ったような女。
 セクエンツィアとて弱冠14歳なれども、カンタビレ家の教育を受けた一級品の戦士だ。彼女の得体の知れなさを感じなかった訳ではないだろう。だが、セクエンツィアは引き下がらなかった。呆れたヴェルフェディリオが、「何であの女がそんなに気になるのよ?」と聞く。すると、「…わかりません」とセクエンツィアは言葉を濁す。「でも、」



「なんだか、あの方…さみしそう、でした」



 ごめんなさいヴェリオさま、とセクエンツィアは主の静止を振りきって駆け出した。残されたのはヴェルフェディリオ、それから押し付けられたグレニールの双子である。ぐったりと肩を落としたヴェルフェディリオを中心にして、ちみっこい子供ふたりがぐるぐると追いかけっこし始めた。我慢だ俺。こんなちみっこいの2人にイライラをぶつけようとするなんて最低だ。





 ガルディオス伯爵邸の中で、花嫁のためにひとまず用意された部屋が第2階に用意されているのをセクエンツィアは知っていた。ジグムントさまの奥方さまがお使いになるよう整えた部屋だから、勝手に入り込んじゃダメですよ、とメイド長のフライヤにきつく言われていた。セクエンツィアはヴェルフェディリオ専属の守護騎士でありながら、ジグムントやマトリカリア、大勢の使用人やメイド、ガルディオス伯爵の私兵である蒼光騎士団員が住まうこの屋敷が大好きで、屋敷の中ならば行ったことのない部屋なんてないくらいに歩き回っていた。だから、ユージェニーの戻っているであろう一室にも、すぐに辿りついた。

「い、勢いで来ちゃったけど…はぅ、やっぱり後で怒られちゃいそう…」

 はぅ。
 今さらながらに、ヴェルフェディリオの制止の声が甦る。今起こっていることは外交問題に発展する恐れがあるほどのことなのだ。ホドとマルクト帝国の、マルクト帝国とキムラスカ王国の関係が一気に悪化することも有り得る。それを、ホドに来て間もない自分がほいほい首を突っ込んでいいものか。よくないに決まっている。
 だが、ホドのことを想ってであってもあんなに酷いことを言ったジグムントに対して、花嫁ユージェニーは顔色ひとつ変えなかった。人形のように美しい彼女は、驚くほど気丈に振舞って見せた。「さみしそう」、そう自分が言った言葉を思い出す。どうして彼女を見てそう思ったのだったか、わからない。だが、放っておくわけにはいかない。それだけは、確かなのだ。

 セクエンツィアは、意を決してノックをした。2つ、コンコンとドアを叩いて、「ユージェニーさま」と呼ぶが、返事はない。いないのだろうか、いやそんな筈はない。ホドに来たばかりの彼女が、他に行く場所なんてないはずだ。もう一度ノックをして、「ユージェニーさま、入ってもいいですか?」。やはり、返事はない。ええい、と思って、一気にドアノブを捻った。



「失礼します、ユージェニーさ…ま?」



 ばん、と開け放ったドアの向こうに、彼女のために用意された部屋があった。異国からやってくる花嫁に安らいでもらおうと、帝都風におしゃれに整えられた調度品。窓際には、朝摘んできたばかりなのだろう、ホド自慢の色とりどりの花々。花瓶の下の敷き物は、ちょっとしたアクセントにと、ホド製のレース細工。すてきな部屋だった。話に聞く王都バチカルのお屋敷から来た人だってきっと一目で気に入るような、思いやりの込められた部屋だった。
 セクエンツィアが言葉尻を持ち上げたのは、その部屋の中でも一番にすてきな、皇女殿下が使ってでもいそうな天蓋付きのベッドに目的の人物を見つけたからだった。どうやら、セクエンツィアがノックをして呼びかけたのが聞こえなかったらしい。止むを得ず許可を待たずに入室したセクエンツィアが挨拶をしたのでやっと気付いて、レースの縁取りつきのふかふかクッションに顔を埋めていたのを離したのであった。その目元はかわいそうなくらいに赤く腫れていた。
 彼女はベッドにうつ伏せに寝そべって、クッションに顔を埋めて泣いていたのだ。セクエンツィアをとらえ、見開かれた瞳。その色は、


「え…」




 ―――深紅?




「ど、どなたですか?」



 いや、見間違いだったらしい。もう涙を溢れさせてはいなかったが、十分に潤んだ藍色の瞳がこちらを見ている。不安げでおどおどした声も表情も、先程見た彼女とは別人のようだった。ぜんぜん人形のようじゃなくて、セクエンツィアといくつも変わらない少女のように見えた。
 「しっ、失礼いたしましたっ!」とセクエンツィアは慌てて跪いた。ジグムントさまの奥さまとなられる方、いや、奥さまである方になんて無礼なことをしてるんだろう。頭を下げたまま、説明を試みる。

「わたしは、ガルディオス伯爵が右の騎士ヴェルフェディリオ・ラファ・フェンデさまの守護を仰せつかるレヴァーテインが第4席、セクエンツィアと申します。
 え…えーっと、要するに、奥さまの旦那さまの、騎士の、そのまた騎士ってことです」

 レヴァーテインの礼服のせいか背筋がぴんっと伸びて、ちゃんと言い切ることができた。最後のほうはぐだぐだだったけど。だが、分かってもらえたのだろう、ユージェニーは警戒を少しだけ解いて、起き上がってベッドの脇に腰かけた。

「そう、ですか。では、騎士さまがどんなご用で?セクエンツィア様」
「セ、セクエンツィア『さま』ぁ!?」

 つっかえつっかえ、ゆっくりと口を動かしたユージェニーの発言に、セクエンツィアはその場でひっくりかえってしまいそうだった。様付けで呼ばれたのなんて初めてだ。素っ頓狂な声を上げたセクエンツィアに、ユージェニーがくいっと首を傾げた。

「どうか、いたしましたか?セクエンツィア様」
「はぅあっ!様付けなんて恐れ多すぎですよぅ、ユージェニーさま!」
「ですが、貴女様も私をユージェニー様、とお呼びですよね?」
「それはぁーわたしのご主人さまのご主人さまの奥さまなんですから当然です!だから、わたしがユージェニーさまってお呼びするのはおかしくないんですっ!だから、さま付けはやめて下さいっ!」

 初めての体験に混乱し、子供そのものの仕草でばたばた両手を振って主張するセクエンツィアを見ても、ユージェニーは何がおかしいのか分からないようだった。すると、思いついた、と言うようにぱん、と手を合わせてこう言った。

「分かりました!じゃあ、貴女様も私のことを、様付けをしないで下さいな」
「へ!?」
「様付けされるのがお嫌なのでしょう?私も貴女のことを呼び捨てで呼ぶようにしますから、貴女もそうしてください。それで、おあいこですね。あ、折角ですから、愛称で呼んでくれたら、うれしいです」

 セクエンツィアの頭の中で、身分の違いだとか敬いだとかしきたりだとか、そんなものがぐるぐると回って酔ってしまいそうだった。キムラスカからはるばるやって来たお方がどんな方なのか、興味津々だったのだけど、キムラスカの人ってみんなこうなのだろうか。それとも、彼女だけが変わっているのだろうか。貴族令嬢なら当然心得ているであろうふたりの関係のことをあと小一時間かけて説明したって、彼女には納得してもらえそうにないなと思った。うーん、ううーん、と頭を抱えて唸って、ヴェリオさまに怒られそう、だとか場違いなことを考える。
 でも、婚礼の儀や披露宴の時とは別人のように、楽しそうにそう言う彼女を見ていると、仲良くなれそうだな、と、頭のどこかでぴんっとライトが光った。
 数分かけて考えた挙句、セクエンツィアは頭を抱え込んだまま、こう呟いた。



「…ユー?」



 恐る恐る、頭を上げる。ユージェニーは、笑っていた。少女らしい、花のような笑みだった。

「すてき!では貴女のことは、セー、と呼ばせて下さいな」

 何だかお揃い、みたいですね。
 そう微笑みかけられると、セクエンツィアも「…はい!」と満面の笑みを浮かべてしまった。彼女と同じように、セクエンツィアも嬉しかった。この人はホドの敵じゃないと、そう思った。



Kyrie W