「おはようございます、ジグムント様」
「おはよう。ヴェルフェディリオ、セクエンツィア」

 ガルディオス伯爵邸の食卓に顔を出したヴェルフェディリオ、その従者セクエンツィアは、食事中のジグムントに向かって頭を垂れた。今朝のメニューはツナのフィッシュサンド、フルーツ盛り合わせ、そして彼の父親ジークフレデリカも好んで飲んだアラミス産のコーヒー。未使用のフレッシュと砂糖が見えて、またこいつは父親の真似をしてブラックで飲んでいるのだな、とヴェルフェディリオは思った。苦いのが苦手なお子様舌のくせに。
 そんないつも通りの朝の食卓についているのはたった一人。ジグムントだけである。面を上げたヴェルフェディリオは、僭越ながら、と前置きをしてから問うた。「ユージェニー様は、どちらに?」すると、ジグムントはふいと目を逸らした。後ろめたい、というのが一番適した表情だった。

「部屋で朝食を取る、と」
「…今日も、ですか」

 覚えず口走った言葉の通り、今日もユージェニーは食卓に現れなかったらしい。1週間。実に、婚礼の儀から1週間、こんな状態が続いている。あんな事件があれば当然でもあろうが、望ましい状況である筈はなかった。ジグムントも当然それは分かっているようで、室内に重苦しい空気が満ちる。ジグムントがサンドイッチを口に運ぶ手は空中で静止していて、手首から先の部分が僅かにゆらゆらと揺れていた。
 そんな雰囲気の中で、ヴェルフェディリオの背後でもぞもぞと、少女が不自然に肩を竦ませている。膠着した空間で、ジグムントは「セクエ、」と彼女を呼んでやった。愛称で呼ぶと、セクエンツィアは一層緊張から解き放たれた様子で弾かれたように面を上げた。「は、はい!」

「いいよ、セクエ。行っておいで」

 ジグムントがそう促すと、セクエンツィアは許可を求めるように主であるヴェルフェディリオにちらりと視線をやった。ヴェルフェディリオが行け、行けと顎で示せば、セクエンツィアはもう一度「はい!」と元気よく返事をして、そのまま食卓を出て駆け出した。ぱたぱたと忙しない足音が遠去かっていった。

「…すみませんね、ジグムント様。退室の挨拶も忘れちゃうような子で。ついつい目の前のことしか目に入らないんですよね」
「構わない。…それに、助かっている」
「そー、っスね。あいつ、いつの間にユージェニー様と仲良くなったんだか」

 はむ、とジグムントは漸くフィッシュサンドを口に運んだ。もぐもぐと口を動かしながら、今日作ったのはカヤか、と言った。ヴェルフェディリオが「何で分かるんで?」と聞けば、「味付けでわかる」と平然と返された。そういえば厨房担当のメイドであるカヤは、大陸でも地方の出身だったな。それにしても、サンドイッチの味ひとつで作った使用人が分かるジグムントという人間は、やはりホドの島民をよく見ていると思う。こんな一面を見せられるたびに、ホドの王はジグムントを置いて他にいないと、ヴェルフェディリオはしみじみと思わせられるのだ。
 セクエンツィアに話を戻そう。ヴェルフェディリオの守護騎士セクエンツィアが向かったのは、ユージェニーの自室である。なんと、セクエンツィアは件の事件の後ユージェニーと『仲良くなった』と言うのだ。あの仮面を被ったような顔の女性が、セクエンツィアと心を通わせるなんてことは誰も予想だにしなかったことだった。よって、ジグムントと顔を合わせることを拒んでか自室に閉じこもったユージェニーを足繁く通うセクエンツィアを皆が皆黙認しているのである。実際、頑ななジグムントに合わせて放っておける事態ではないのだ。かといって、簡単に踏み入ることができるわけでもない。セクエンツィアの行動がジグムントや彼に仕える者たちにとって気休めになっているのは事実だった。

 サンドイッチの皿が空になり、ジグムントがフルーツの盛り合わせに手を伸ばしかけたその時である。先程セクエンツィアが消えた扉が開いた。ジグムントも、ヴェルフェディリオも、顔を上げて目を見張る。

 現れたのは、セクエンツィア、そしてユージェニー・セシルであった。

「セツィ!お前、何を…っ!」
「きゃうっ!あのそのっ、わたし、ユージェニーさまを、お外にお連れしようって…!」

 セクエンツィアを諌めようとしたヴェルフェディリオであるが、それはジグムントの手で制された。緊迫した空間で、ジグムントは席を立ち、ふたりの前にやってくる。戸惑うセクエンツィアを横目に、今回の騒動のまさに渦中にいるユージェニーは、一歩歩み出た。実に1週間前の披露宴以来、初めて対峙したその夫婦のうち、先に口を開いたのはユージェニーだった。



「お早う御座います、ジグムント様。セクエンツィアが島を案内してくれるというので、参ります」



 ユージェニーの表情は、婚礼の儀の時とも披露宴の時とも同じ、無感情。夫婦となったふたりが見つめ合う。蒼と藍の瞳の間にはただ空虚な交差があるだけだ。
 やがてジグムントは、「分かった」と静かに了解の返事を返した。息が止まりそうな空白が終わって、ユージェニーの造りのいいフォルムが一礼をし、静々と去っていく。セクエンツィアがヴェルフェディリオにちらちら視線をやりながら後を追い、大広間へ続く扉を向かう。やがてそのドアがぱたん、と閉じたとき、ヴェルフェディリオは耐えかねてはあーっと大きく息を吐いた。

「どうなることかと思った…あの子って子はホントに、もう…」

 披露宴での衝撃の再来になりはしないかと危惧したものの、どうやら無事に回避されたようだ。席に戻るジグムントと同様、ヴェルフェディリオも食卓の椅子に腰を下ろした。
 まさか、セクエンツィアがユージェニーを連れて『お出かけ』までやろうとするとは思わなかった。表玄関を出るには当然ここを通らなければならないと、分かっていただろうに。いや、忘れていたのだろうか?セクエンツィアならばあり得ることだった。あの子はもう、本当に、肝心なところが抜けている。守護騎士としちゃ致命傷だ。
 だが、効果的ではあるのだろう。ホドの敵になりうるキムラスカより来たる花嫁ユージェニーを、衝動的に跳ね退けてしまったジグムントにとって、すぐに歩み寄ることは難しいに違いない。セクエンツィアが潤滑油となって、少しずつでもユージェニーがホドに馴染むことができたら、あるいは、とヴェルフェディリオは考えていた。それにしても、危ない橋ではあるが。
 ジグムントに視線をやれば、なにごとか考えているのか手が止まっている。「まあ、悩む前に食べちゃったらどうですかね」。促すと、ジグムントはフルーツの盛り合わせの皿に目を落として、そうだった、と本当に今思い出したとでも言うようにぼやく。こっちの方も本当に忘れていたらしい。頭が痛くなりそうだ、このガキども。セクエンツィアはまだしも、あんたはもう21でしょうが。フルーツに手を伸ばすジグムント、一番最初は大好きなホドオレンジ。切り分けられたそれを指で挟んで、口付けようとしたその時である。




「ごきげんよう、ジグムント」




 表玄関に続く扉が、開いた。今度は何だ、とジグムント、ヴェルフェディリオが振り向いたその時、ふたりが同時に口をあんぐりと開けて、固まった。



「…あ」
「…あ」



 ガルディオスの金、フェンデの青、そして唇に真っ赤なルージュ。



「…おかえりなさい、マティ姉さん」



 ジグムントの声が震えるくらいの、とびきりの笑顔の『レディ・バロック』、マトリカリア・クラン・ガルディオスが立っていた。

「あ、あの、マティねえさ、」
「お黙りなさいジグムント。聞きましたわよ、とんでもないことをしてくれやがりましたわね。おかげでわたくしマルクトにキムラスカにと飛び回ってお肌のお手入れをする暇もありませんわ、分かるかしらこのお肌の荒れ具合まるでキュビ半島。この1週間かけてやっとホドに帰れたのですわよ?」

 ずん、ずん、ずんと、ジグムントへ歩み寄るマトリカリアのあまりの勢いに、ジグムントは「ひゃいいいっ!?」と席を飛び上がって後ずさった。見たか、ホドの王が震えあがるこの光景を。彼女をホドの女教皇と名付けよう。怖すぎて椅子の上で固まっているヴェルフェディリオが、現実逃避とばかりにそんなことを考えた。
 貴族らしくなく相手と近い食事を好んでジグムントが備えさせた手狭な食卓では、すぐに後ろ手に壁が触れるところまで行ってしまう。行き場を無くし、それでも逃げ道を探してアウアウと壁に接しながらもがさがさ動く腕は、「しゃんとなさい!」との一言で停止する。感情の起伏が見えにくい顔には明らかな恐怖が浮かんでいて、見ている方が可哀想になってくる。が、割って入れる空気ではない。というか、入りたくない。ぜったい、入りたくない。そんなことをしたらどうなるか、答えは今のジグムントである。

「『幸せな結婚はできない』…でしたっけ?」
「!」
「そうね、幸せな結婚はできない。よぅく分かっているじゃない。その通りよ、ジグムント・バザン。あなたがガルディオスの血を受けて生まれた以上、そうやって生まれたあなたが悪いの。それがあなたの預言よ」

 ジグムントに吐息が触れるくらいに近く、マトリカリアが顔を寄せる。ルージュを引いた唇から紡がれるのは、残酷とも言えるような言葉の礫だ。その横顔もまた、残酷なくらいに美しいのだ。

「だからこそ、あなたは幸せにならなければいけない。『ならなければいけない』の。それがあなたの義務なのよ。己がそうでないものが、己が民を幸せにできると思って?あなたはやっているのはただの甘え。そんなものは肥え溜めにでも捨てなさい」

 従姉に向かって何も言い返せないジグムント。その頬に、マトリカリアは今度はその名の通り慈母のように優しく両の手を添えた。

「…尻拭いは、すべてわたくしやペールギュント様にお任せなさい。あなたはホドの王。あなたは、あなたがやるべき事をおやりなさい。よろしくて?」
「…」
「返事は!」
「は、はい!」
「よろしい」

 すっと雅やかにジグムントの頬からマトリカリアの両の手が離れていった。「また、すぐにホドを出ますわ。ヴェルフェディリオ?」「はいぃいっ!」矛先を向けられたヴェルフェディリオは、飛び上がりたくなる気持ちを押さえて椅子の背をぎゅっと抱く。「ジグムントのこと、頼みましたわよ」。お叱りが飛ばなかっただけ良かった。こくこくこくと高速で首肯すると、マトリカリアは花のように微笑んだ。見惚れる暇もなく、彼女は踵を返した。表玄関へのドアをくぐるその時、こう言葉を残した。



「ジグムント。アストラエアの言ったことを、思い出しなさい」



 彼女は「ごきげんよう」と言って去っていった。ジグムントとヴェルフェディリオは、顔を見合わせる。そして、ふたりしてへなへなとその場に崩れ落ちてしまった。



Kyrie X