「おはよう、ユー!」 衣を脱ぎ捨てるように、従騎士としてではなく友人に語りかけるように、セクエンツィアが挨拶をする。部屋の主は、窓際のホド・マーブル製のテーブルに肘をつき、外を眺めていた。木漏れ日に睫毛を透かすように、秘された瞳がやがてセクエンツィアを捕える。白ぶどうの髪、藍色の目、遥かキムラスカよりホドへ来たる少女は、朗らかに微笑んだ。 「おはよう、セー」 ユージェニー・セシルは、たおやかな手つきでセクエンツィアに席につくよう促した。セクエンツィアは、いそいそとユージェニーに向き合う形でホド・マーブルの椅子に座る。すると、ユージェニーはあらかじめガルディオス伯爵邸のメイドにより持ち込まれたトレイから、お茶会の準備をはじめた。オールドラント広しと言えども、主が嬉々として従騎士にお茶を注いでやるなんて光景はここでしか拝めまい。ヴェルフェディリオに知られればひっくり返りそうなことだが、それでもひょいひょいとユージェニーへの面会に訪れるくらいには、セクエンツィアはこの時間が気に入っていた。 披露宴での事件の後、ユージェニー・セシルとセクエンツィアの仲は急速に深まっていった。今では、セクエンツィアは、どうして屋敷の人間がユージェニーとの接触を尻込みしているのか分からなくなるくらいに、彼女のことを知った。キムラスカ貴族令嬢として洗練された物腰、それでいて人懐っこく、とっつきやすい人柄。また、セクエンツィアが目を丸くするくらいにユージェニーは博識だった。テーブルの上に置かれた、フェレスの意匠の花瓶に挿された花の名を、すらすらと謡いあげる様は、セクエンツィアを驚かせた。そのくせ、本で読んだだけよ、と謙遜する彼女には、嫌味なところはひとつもなかった。 「ねえ、ユー。今日も、お部屋でいるの?」 だからこそ、セクエンツィアには分からなかった。そんなユージェニーが、外に出ることを恐れている訳が。勿論、ジグムントの辛辣な言葉がユージェニーに与えた衝撃は計り知れない。だが、ユージェニーという女性は、そんな言葉を跳ね返すくらいに、ホドに受け入れられるべき良さがある筈だった。だが、ユージェニーは、逡巡ののち、小さく首を横に振る。 いつもなら、セクエンツィアはそこで引き下がる筈だった。だが、その日のセクエンツィアは違った。セクエンツィアには、ユージェニーを外に連れ出そうという、明確な意思があった。ユージェニーという女性を、ホドはもっと知るべきなのだ。だから、セクエンツィアは言った。 「ユー。私と一緒に、お外に出よう」 そのためには、ユージェニーもホドを知ってほしい。 「ホドには大きな図書館があってね。わたしはあんまり分からないけど、きっと、ユーの大好きな本がいっぱいあるよ。それにね、もう春だから、もうすぐホド中でお花が咲くの。とっても、きれいなの。見に行きたいんだ。ユーと、一緒に」 それは、一種の賭けであったかもしれない。セクエンツィアは必死になって口を動かした。ユージェニーが、ホドを知ろうとしているか。ホドを、知りたいと思っているか。そうでなければ、彼女はセクエンツィアに応えないだろう。だが、彼女は。 彼女は、こくりと、頷いた。「連れて行ってくれる、セー?」と呟いた。セクエンツィアは、飛び上がりたくなるくらいに嬉しかった。嬉しくて、本当に椅子から腰を浮かしてしまった。「行こう、ユー、一緒に行こう」。ユージェニーの手を取る。ユージェニーが、恥ずかしげに頬を染めながら、はにかんで笑う。 大丈夫だ、と思った。きっと、大丈夫。ホドは彼女を受け入れる。彼女はセクエンツィアの家族になれる。次の瞬間には、セクエンツィアは、ユージェニーの手を取って席を立っていた。ユージェニーが、半ば椅子から転げるようにして、それに付いてきた。 「はーぁ…ど、どうなることかと思ったぁ…」 やがて、セクエンツィアは主がそうしたようにはあーっと大きく息を吐いてそう言うことになる。食卓の間のジグムントと、ユージェニーが対面した直後のことであった。食卓の間を出たユージェニーとセクエンツィアは、並んでガルディオス伯爵邸の廊下を歩いていた。ホド最高潮のぴりりとした緊張感の中から抜け出したセクエンツィアは、空気が抜けたようにぷしゅんとその場に座り込んででもしまいたかったが、ユージェニーの手前、そんな真似はできない。代わりに、ぽてぽてと、最初の勢いはどこへ行ったのか、という風情で威勢なく歩いて行く。 「ジグさまったら、見たことないくらい怖い顔してるんだもん…ジグさまの前であんなに緊張しちゃったの、久しぶりだな」 と嘆息すると、ユージェニーはぽかんとして、聞いてくる。 「あの方は、こわいかたではないの?」 それは、少女のような純粋な問いだった。セクエンツィアは、ぶんぶん、と手を振って、否定する。 「ジグさまは、怖いひとじゃないよ!それは、私だってホドに来たばっかりのころはジグ様の前に立つとき緊張したけど…ジグさまは、私に普通に話しかけてくれたもん。故郷の島から出たことのなかったわたしを、たくさん気遣ってくれたもん」 セクエンツィアの脳裏に浮かぶ、ホドに来たばかりのころの自分。主ヴェルフェディリオと暮らし始めたセクエンツィアを、兄姉がそうするように助けてくれた、ジグムント。 その時ジグムントが自分に言った言葉は、今もセクエンツィアの胸の中で光を放っている。 「今、ジグ様がユーに見せてる表情だけが、ジグさまの全部じゃないんだよ。だから、ユーもホドの皆にほんとのユーを見せてあげたらいいの。そうしたら…」 だがセクエンツィアは、ユージェニーが立ち止まったのに気付かなかった。 「…ユー?」 セクエンツィアは、歩みを止める。振り返れば、5、6歩後ろにユージェニーがいた。その顔を覗き込もうとした時、セクエンツィアの背にゾクリとした悪寒が走る。 「あなたの見ている私が、本当の私でないとしたら」 俯いたユージェニー。その瞳の色は、セクエンツィアには伺えない。いや、できなかった、と言うべきだろう。セクエンツィアは恐ろしかった。その瞳の色を目にすることを、恐れた。 「今の私が、本当の私でないとしたら」 どうするの、セー? 次の瞬間、顔を上げたユージェニーは、セクエンツィアの知るユージェニーだった。恥ずかしげに、小さな花のようにはにかんで笑うユージェニー。ユージェニーは、遅れた分の数歩を取り戻すように大きくステップを踏んだ。セクエンツィアは、一瞬だけ、それに取り残される。目の前を通り過ぎた女性が、途方もなく遠いもののように感じられる。抱いた疑惑を振り払うように、彼女に追いつくように、セクエンツィアはまた歩き出した。 ユージェニーとセクエンツィアは、ガルディオス伯爵邸の表門に辿り着いた。そこにはふたりの近衛兵が立っていて、伯爵邸の入り口を守っている。先に、セクエンツィアが「こんにちは!」と元気よく挨拶をした。近衛兵は、しょっちゅう主と一緒にガルディオス伯爵邸に出入りするあどけない少女騎士に、「ああ、こんにちは」と朗らかに返した。次に、ユージェニーがふたりの間を通り過ぎる。そのすがら、ユージェニーが「いってきます」とぺこり、頭を下げた。ふたりの兵は、呆気にとられながらも、「い、いってらっしゃいませ!」とガルディオス伯爵夫人の背に敬礼する。 「…今の、ユージェニー様だよな?」 ひとりの騎士が、相方の騎士に問いを投げる。相方は、ああ、と茫然とした声で返した。いってきます、だなんて言うのは、伯爵様と同じだな、と騎士は言った。 ホドの白畳を、ふたりが歩いて行く。セクエンツィアは、右手でユージェニーの手を引き、左手であちこちを指さしながら歩いた。ガルディオス伯爵邸の右は、フェンデ家のお屋敷。それで、左は、ナイマッハ家のお屋敷。それから、あっちの大きい建物は、封印図書館っていって、ホドにひとつしかない立派な図書館で…。 言葉を噛んだり、どもったりしながらも、必死に話を続けるセクエンツィアに連れられてユージェニーがやってきたのは、ホドの中心部にある広場だった。白畳でできた円形の広場の中央に、女性の彫像の噴水がある。これは、ガルディオス家の先祖で、ホド解放の功績からマルクト帝国に伯爵位を頂いた女性で、ここはその女性の名にちなんで、聖ホリィの噴水広場と言うのだとセクエンツィアが教えた。そう言われれば、あのジグムントと言う男に似ているような気がしないでもない、かな?とユージェニーはぼんやり思う。 そんなことを考えるくらいに、ユージェニーは浮かれていた。そう、信じられないことに、楽しかったのだ。セクエンツィアとの『お出かけ』は。ホドは、美しい街だった。どこまでも広がるような白畳、降り注ぐぽかぽかとした柔らかい日光、澄み切った空気。朝を迎えたホドは、ユージェニーをもあたたかく迎え入れた。セクエンツィアの言葉と右手が、ユージェニーを導いた。 本当だ、 こわくない。と、ユージェニーは胸の中で、呟く。 噴水広場に入ると、向こうから喧騒が聞こえてくる。「あれは何?」とユージェニーが聞くと、セクエンツィアはすぐに答えてくれる。 「ユリア大通り。ホドで一番大きな通りだよ。港まで続いてて、商店街でもあるから、ホド中の人が集まってくる。今はちょうど、店開きの時間だね」 セクエンツィアの言葉のように、通りは賑々しく、ホドの住民が忙しなく行き交っている。ユージェニーは、初めてまじまじと目にする民の生活する様子に、興味深げに自分から大通りに足を踏み入れた。きょろきょろとしきりに辺りを見回すユージェニーはなんとも微笑ましく、セクエンツィアはくすっと笑った。 やがて、ホドの住民たちもふたりに気付いたようだった。俄かにざわめきが生まれ、大通りを行くふたりを包み込む。それを気取ったユージェニー、セクエンツィアは、自然と歩みを止めた。ふたりと見つめる無数の視線、そこに込められた感情は… 「ユージェニーさま!」 その時、ユージェニーを呼ぶ声があった。立ち止まったふたりに向かって歩いてくるのは、5、6歳のあどけない少年だった。母親の言うことなんて聞かなさそうな、生意気盛りの元気な少年。その子が、ユージェニーの名を呼んだのを、ユージェニーの元へ歩み来るのを、ユージェニーは聞き、見ていた。ユージェニーは、自然とその腕を広げていた。その子供を受け入れるために。少年がやってくる。あと、1メルトルのところまで。 だが、その時彼を阻む腕があった。 「リュウ、やめなさい!!」 少年を後ろから抱きすくめたのは、おそらくは彼の母親だった。若い母親は、無理やり息子の頭をユージェニーに向かって下げさせる。そして、叫ぶ。 「お許し下さい、ユージェニー様!子どものやったことで御座います、どうかお見逃し下さい。この子にもよく言い聞かせておきますので…!どうか、お許しください!!」 母親は、半狂乱だった。泣き叫ぶように、そう罪を詫びた。 ざわざわ、と、ざわめきが生まれる。ユージェニーは、住民の中から生まれ出たそれにすっぽりと包み込まれた。少年へと腕を伸ばしたまま。受け入れるものを無くした腕を伸ばしたまま。 次の瞬間には、ユージェニーは、駆け出していた。「ユー!」と呼びながら、セクエンツィアはその背中を追った。 「待ってよ、ユー!!」 ガルディオス伯爵邸の前までやってきて、やっとセクエンツィアはユージェニーに追いついた。セクエンツィアは、ユージェニーの手首を掴んで今にも駆け出してしまいそうなユージェニーをそこに留める。 「今回は…今回は、うまく行かなかったけど、次はきっと大丈夫だよ。だから、また外に出よう。わたしと一緒に、お出かけしよう。ホドには、もっとたくさん、すてきな場所があるんだよ。だから…」 セクエンツィアは、ユージェニーにどんな言葉をかければいいか分からなかった。俯いたユージェニーの表情は、セクエンツィアに見えない。「だから、」とセクエンツィアは口を動かした。次の言葉を紡ぐ前に、ユージェニーが顔を上げた。 「私は」 ユージェニーは、泣いていた。 「ホドの人間じゃ、ないものね」 だから、仕方ないのよね。 セクエンツィアは、自分の手がユージェニーの手首から滑り落ちるのを止められなかった。ユージェニーは踵を返し、屋敷の中に消えていった。茫然としたセクエンツィアだけがそこに残された。 ぶん殴りたかった。 無力な自分を、ぶん殴ってやりたい気分だった。 涙が出そうだった。が、それを零すことはできなかった。もっと、もっと、つらい思いをしているひとがいることを、セクエンツィアは知りすぎていた。セクエンツィアは、今にも泣き出しそうな表情でその場に立ち尽くしていた。 |
Kyrie Y