ホドの女教皇が悠然と立ち去ってから、ジグムントとヴェルフェディリオのふたりがその余韻より解き放たれるまでにはしばしの時間を要した。壁に張り付いたまま床に崩れ落ちたジグムントは、頼りない足取りでふらふらと自分の席についた。「…ヴェルフェディリオ・ラファ」と海の底から響くような声でミドルネームまでを呼ばれたのを聞いて、ヴェルフェディリオは母親にするように椅子の背に抱きつかせた腕をやわやわと放し、ジグムントを向く。

「…何すか?」
「あの言葉、姉さんに言ったのはお前か?」
「へ?あ、『幸せな結婚はできない』?…や、ペールのおっさんに愚痴りはしたけど、もしかしたらそこからマトリカリア様に話が言ったのかもしれません」
「減給」
「ヒドイ!」

 ジグムントが、子供のするようにふくれっ面をして食べさしのホドオレンジに手を伸ばした、その時である。
 玄関から続く扉が、開いた。
 マトリカリアの帰還というショックを受けたばかりのふたりは思わず身構える。が、しかし目の前に現れた人物を見てふたりは目を見開いた。

 ホドに生らぬ、白ぶどうの髪を綺麗に結い上げた少女。
 その藍色の瞳は涙に濡れていて、ふたりが知っている彼女よりもずっと幼く見えた。
 いや、この姿こそ彼女の本来の姿なのかもしれなかった。



「ユージェニー…?」



 ジグムントは、涙を浮かべる少女の名前を唇から零れ落とすかのように呟いた。彼が、彼の妻となった彼女の名前を呼んだのは、これが初めてかもしれなかった。先刻での邂逅とはまったく違った時が流れていた。蒼と藍のひかりが交わされ合って、そしてユージェニーは耐えかねたように「失礼します」と哀れなくらいに震えた声で言って、部屋を通り抜けて言った。ばたん、と音を立てて閉まった扉を、ジグムントは彼女の足音が聞こえなくなってもずっと見つめていた。

「…今の、見たか?」

 
 ジグムントは少女が去っていった扉から視線を外さないまま、「見た」と返した。ヴェルフェディリオも驚きを隠せなかった。ユージェニー、人形のような女、彼から言わせれば可愛げのない女。彼女に抱いていたイメージの全てが互解していくようだった。まるでただの少女のようだった。

「何かあったんですかね。セツィの奴、連れ出したんなら最後まで責任持てよな…って、あいつに任せることしかできなかった俺らも悪いですよね」
「………」
「それにしても、あの人があんな顔をするとは思いませんでしたよ。失礼ながら、人形か何かのようだと思ってました。でも、やっぱり18歳の女の子なんスよねぇ…」
「………」
「ジグ?」

 一向に答えを返さないジグムントを怪訝に思って、ヴェルフェディリオは席を立った。かつかつと靴音を鳴らして上座のジグムントのところまでやってきて、少し大きな声で主君を呼ぶ。「ジグムント様ぁ?」そこまでやっと、ジグムントはヴェルフェディリオの存在を思い出したようだった。はっとした表情でヴェルフェディリオに向き直った。

「何ですか、ぼーっとして。もしかして、ユージェニー様に見惚れちゃいました?」

 ユージェニーの思わぬ表情を見ていくらか動揺している自分をも落ち着かせようと、少しばかりからかいを含んだ声で聞いてやる。すると、ジグムントはむっとした顔をして即座に言い返した。



「当たり前だろう!私だって男だぞ、あんな可愛らしい女性が泣いているのを見たら見惚れもする!」



 …ん?



「ジグ…お前、もしかしてユージェニー様のこと、ふっつーに女性としては好ましく思ってたりする?」
「…何かおかしいか?」
「や、ぜーんぜん。全然可笑しくないです。ははっ、なーんだ、それなら何も心配することねーじゃん…アホみてー、一目惚れかよ」

 くくくっと笑いを噛み殺すヴェルフェディリオ、そして不可解だと膨れたジグムントがようやくホドオレンジの一片を口に放り込もうとした、その時である。

 三度、扉が開いた。


「今度は誰…って、セツィ?」


 ヴェルフェディリオの言葉通り、そこにいたのはセツィだった。それを視認した瞬間、マズイ、とヴェルフェディリオは本能的に感じた。

 なんでか怒ってる。
 すっごく怒ってる。

 グランコクマの接待で気に入ったおんなのことお楽しみしてることが初めてバレた時とおんなじだ、とヴェルフェディリオは冷や汗を流した。あん時はカンタビレ家秘伝の秘奥義喰らったっけ。あいつ動物並に鼻がいいから、おんなのこの香水の匂い残ってたんでバレたんだよなあ。嫁さんでもないのに、そこらへん潔癖症なんだよなあ。そんな余所事を考えてでもいないとそのオーラに耐えられなかった。何故かは分からんがこんなにセクエンツィアが怒ってるのを見たことがないジグムントは、妹のように可愛がっている少女がオーガの気を纏うのを見て覚えずホドオレンジをぽとっと落とした。ヴェルフェディリオが反射的に落下する果実の一片を手のひらで受け止めてやった。



「ユーは?」



 ユー、それがユージェニー・セシルのことを指すと分かると、ヴェルフェディリオはすぐさま「へ、部屋にお戻りになったよ!」」と悲鳴のように叫んだ。怖い。大量発生したオタオタをバッサバッサと切り捨てる時よりも怖い。「ジグムントさまは、泣いてたユーのこと見ても何もしなかったんですか!」ジグムントは返せなかった。セクエンツィアの怒りへの恐怖、そしておそらくは傷ついたあの少女を黙って見送った後ろめたさから。
 沈黙をセクエンツィアは肯定と受け取った。そして、ずん、ずん、ずんとでも効果音が付きそうな衒いでジグムントに歩み寄った。ジグムントは動けもしない。セクエンツィアは、ジグムントの傍らで直立不動の姿勢を取り、そして叫んだ。




「ジグムントさまは、ひどすぎます!」




 手狭な食卓の間が震えるくらいの大声だった。鼓膜の奥の方がきーんと鳴っていた。成年を迎えた男ふたりを相手しているというのに、その14歳の少女は怯みもしなかった。それを越える怒りが彼女の紫紺の瞳の奥にちらついた。



「ユーがホドを好きになろうってあんなに頑張ってくれてるのに、ジグムントさまはなんですか!あんなひどいことを言って、自分はホドの人間じゃないからって泣いてたのに気にかけもしないで!
 …ジグムントさまだけが悪いんじゃないって分かってます。ユーの力になれないわたしだって悪いんです。でも…でも、ジグさま言ってたじゃないですか。ホドに来たばかりのころのわたしに、教えてくれたじゃないですか!」

 セクエンツィアの怒りはジグムントに向けたものだけではなかった。敵国からやってきた、ホドに害をなすかもしれない少女。たったそれだけで受け入れてやれないホドに怒っていた。ユージェニーを泣かせてしまった自分に、怒っていた。




「『ホドにやってくるすべてが、私の家族だ』って。『ホドのみんなで幸せになろう』って!」




 なのに、どうしてユーを受け止めてあげられないんですか。

 最後のほうの言葉は、涙で滲んで聞こえずらかった。しかし、一語一句漏らさずジグムントは受け止めた。しゃっくり声で、ユーがかわいそう、と呟いたセクエンツィアの肩をジグムントが抱いた。そして小さく、ごめん、と言った。
 ジグムントは踵を返して屋敷の居住空間に続く扉に向かう。そしてその奥に消えた。食卓にはいつまでもしゃっくり上げるセクエンツィアと、オレンジを手のひらに受け止めた体勢のままのヴェルフェディリオが残された。結局、フルーツの盛り合わせはほとんど手がつけられないまま下げられてしまうことになりそうだ。
 セクエンツィアの泣き声が次第に小さくなってきたところで、ヴェルフェディリオは救出したオレンジを皿に戻してセクエンツィアに向き直った。鼻をぐすぐす言わせている従者に、ヴェルフェディリオは、ハァと嘆息して口を開いた。

「…セクエンツィア…俺お前の主君なの、そんでもってあのホドバカは俺の主君なの、ホドで一番偉いの!お願いだからああいうことするの止めて、ホント止めて。給料削られるから。あいつ本気だから」
「でも!」
「でもじゃありません!」

 セクエンツィアは子犬のようにしゅん、と小さくなってしまった。さっきのオーガどこ行った、と突っ込みたくなったが、少し考えてセクエンツィアの頭に手を乗せてやった。そのまま豪快にわしゃわしゃと掻き撫でると、「ぷ、ぷわっ」とおかしな効果音が口から出てきた。

「…俺がおふたりの様子を見てくるから、お前はいい子で待ってなさい。大丈夫、きっといい方向に向かうから」
「…ホントです?」
「ホントだ」

 ぐりぐり小さい頭を撫でてやっていると、やがてセクエンツィアは泣き止んだ。根拠も何もない慰めを、しかしどんな不安をも拭い去るヴェルフェディリオの笑顔をセクエンツィアは信じた。「けど、後でユー様勝手に連れ出したのと一方的にジグを叱ったのでお仕置きな。デコピンで済むと思うなよ?」にししと笑って言ってやると、「はややっお仕置きヤですぅううう!」と伝令兵も真っ青のスピードで食卓を走り出た。屋敷の中は走るなよと何回言えば。ヴェルフェディリオは再びため息をついたが、食卓を後にする彼の足取りは軽かった。



Kyrie Z