ジグムントはごくりと息を呑んだ。その横顔は真剣そのものである。傍らのヴェルフェディリオも、セクエンツィアも、ホドの王に倣った。抜き身の刃のように研ぎ澄まされた静寂があった。ガルディオス伯爵夫人ユージェニー・セシルはこくんと頷くと、抱き上げていたものを地面に下ろす。
ガルディオスを象徴する、金髪蒼目の女児である。1歳にも達しない幼さではあるものの、その可憐さは将来きっとホドの至福の花となり得ることを彷彿とさせる。ホドの海と空の色をした蒼い瞳が、きょろきょろと辺りを見回す。真正面に自分と同じ蒼が待っていることに気付くと、よたよたと、頼りない足取りで歩きだした。一歩、二歩、三歩。小さな足がガルディオス邸庭園の芝生を踏むのを、一同は固唾を呑んで見守った。
そして、その時は訪れる。赤子は、自分と同じ蒼のもとに辿りついた。ホドに訪れるすべてを受け止めるように広げられたジグムントの両手に、彼女は辿りついた。腰を落としたジグムントに半ば倒れ込むようにして縋りつき、彼女は花のように笑った。
「ぱーぱ」
その瞬間、ジグムントは愛娘マリィベルを全身全霊をもって抱きしめた。
「よく頑張ったね、マリィぃいいいいっ!父上は、父上は嬉しくて涙が出てきそうだっ!!」
「ふふ、ジグムント様、鼻が垂れてらっしゃいますよ。ほら、チーン」
「チーン…ありがとうユージェニー。ねえ、なんでマリィはこんなにかわいいんだろう?」
「それはマリィがかわいい貴方様の娘だからですわ」
「いや、かわいいユージェニーの娘だからだ」
「ジグムント様…」
「ユージェニー…」
マリィベルごとユージェニーを抱きすくめたジグムント。とうとう3人の世界に行ってしまったガルディオス一家に、「だあああああああっ!!!!」とヴェルフェディリオは辛抱たまらず激昂した。
「あんたら、1年前の険悪な空気どこ行った!?所構わずイチャイチャしやがって、俺ら置いてけぼりだっての!なあ、セツィもそう思うだろ!?」
「え〜ジグさまとユーが仲良くしてるんだからいいじゃないですかぁ。あっ、ヴェリオさまったら羨ましいんですか?」
「ちっがう!羨ましいとかそんなんじゃないから!」
思わず騎士の身分も忘れて腐れ縁の幼馴染にするように声を上げたことに恥じつつ、ヴェルフェディリオは頭を抱えた。
ホド領主ジグムント・バザンとキムラスカ貴族令嬢ユージェニー・セシルの婚礼から1年が経った。当初はご破談かとマルクト・キムラスカを騒然とさせたふたりであるが、ホド島民らの尽力もあり現在のようなバカップルぶりを披露するまでになった。一人目のご子息・マリィベルも生まれ、まるっきり『幸せな結婚』を楽しむふたりなのであった。あんだけ俺が頭悩ませてたのに。あっさり夫婦として健全な関係を育みはじめたふたりはヴェルフェディリオの新しい頭痛の種になった。ジグムントは元々感情をストレートに表現する性質もあって人目も憚らず妻を抱きしめもするし、ユージェニーのほうもそれを大人しく受けるのだ。おまえら、ガルディオス伯爵夫妻としての自覚とか威厳をだなあ、なあんて言っても聞きやしない。頭も痛くなるってもんだ、セツィは結局ヴェリオ呼びが定着しちまったし。
「あらまあ、皆さん。ごきげんよう」
ヴェルフェディリオが顔を上げると、マトリカリア・クランがガルディオス伯爵邸の表門から入ってくるところだった。衛兵が敬礼をするのに右手を上げて返し、優雅にほほ笑む彼女には、本土帰りの疲れは感じられない。彼女はいつだってそうなのだ。
「姉さん!」とジグムントは慕わしげに彼女を呼んで、ようやっとユージェニーの背中に回した手を離した。一緒に解放されたマリィベルが、父に倣って「まと!」と不確かな発音で叔母ともいえるような人物を呼んだ。微笑む彼女は女教皇というより慈母の装いであり、抱っこするように求めてこちらに手を伸ばしたマリィベルを抱き上げた。ぺたぺたと木の葉のような手がマトリカリアの顔に押し付けられるのを苦笑して見ていた時、はたとヴェルフェディリオは気付いたのである。
「あれ?そういやマトリカリア様、イフリートデーカンの月まで本土に滞在するんじゃなかったんですか?」
そうなのである。ホドの外交官としてマルクト・キムラスカを飛び回るマトリカリアは両国の社交界に顔を見せるのもその役目のひとつであり、この時期そのようなパーティが断続的に続くこともあって、暫くグランコクマにある専用の第二邸に滞在することになっていた筈だった。
「そうそう、そのことですけれど」マトリカリアは姪をとすんと芝生の上に下ろした。待ちわびたかのようにセクエンツィアがマリィベルの前で跪き、こっちにいましょうねー、と膝の上に乗せるが、大好きな叔母から引き離されてご機嫌斜めなのかセクエンツィアの濃紅の髪をぐいーっと引っ張る。連動してセクエンツィアがううーっと獣の唸り声のような悲鳴を上げた。「大切なお話がありますのよ」。
「大切な、話?」
ユージェニーが聞き返すと、マトリカリアは頷いた。
そして、右の手のひらをそっと、自分の腹部に添える。
「できちゃったみたい」
その瞬間、ガルディオス伯爵邸が静まり返った。
顎を外したかのように口をあんぐりと開けたジグムント、ヴェルフェディリオが、静寂のままに顔を合わせる。先に声を上げたのはジグムントだった。
「ヴェルフェディリオ貴様ァアアアアアッ!!!」
「いやいやいやいやないないないない!!むしろお前だろこのシスコン!!!」
「貴様私とユージェニーとマリィとマティ姉さんとホド島民1万765人を侮辱するかっ!!!」
「何この子背負うもの多っ!!!」
ぎゃあぎゃあ喚いている幼馴染のふたりを、マトリカリアは口元を覆ってくすくすと笑った。それを聞いてとうとう取っ組み合いにでもなりそうだったジグムントとヴェルフェディリオが、マトリカリアに向き直る。
「できちゃったって…な、何ヶ月目なんだ?」
「5ヶ月目ですって」
「お腹全然大きくなってないんですけど!?てかいつも通り折れそうに細い腰ですけど!?」
「腹筋鍛えてると目に見えて大きくはならないんですってよ」
「鍛えすぎです!!」
ユージェニー、セクエンツィアが興味津津、といった様子でマトリカリアのお腹を覗きこむ。なるほど、妊娠5カ月とは思えない身体付きだ。ぶっちゃけ有り得ない、と男たちは頭を振った。いや、まだ大切なことを聞いていなかった。
「…で、誰の子なんです?」
ヴェルフェディリオが恐る恐る聞くのを、マトリカリアは「貴方たちも良く知っているひとよ」と微笑んだ。そろそろこちらにも顔を出す筈なのだけど。ジグムントとヴェルフェディリオが良く知っている男、マトリカリアと何らかの関連がある男。ふたりの脳裏に同じ人物が浮かんだ。まさか。
その時である。
「この…ぶぁあかもぉおおおおおん!!!!」
ホド島丸ごとを揺さぶるような怒声が響いた。その場の全員がその出所に目を向ける。ガルディオス伯爵邸に向かって左、それはガルディオスが誇る左の騎士の邸宅。
「あらまあ」
今まで聞いたこともないような、ペールギュントの怒鳴り声だった。
ペールギュントの激昂を耳にした一同は、ナイマッハ邸に向かった。ガルディオス伯爵邸からほど近い位置にあるナイマッハ邸は、その主ペールギュントと似て密やかにガルディオス伯爵邸の傍らに佇むこじんまりとした屋敷だが、今日ばかりはどこか騒然としていた。正門の前で仁王立ちするペールギュントは、冷ややかに戦場を俯瞰し確実に敵の喉元を掻き切る『白鷲』の名に相応しい様相であった。つまり、何ていうか、怖すぎた。なんか木刀持ってるし。
彼が猛禽類の目で睨みつける先に、見覚えのある人影。ホド・マーブルの石畳に手をついて、いてて、と情けなく打ち付けた腰を擦っている。ペールギュントと同じ白銀の髪を、ぼさぼさに伸ばして背中に垂らしている。
「これまでどこをほっつき歩いていたと思ったら、マトリカリア様を手籠にするとは開いた口も塞がらんわ!そもそも10年以上も音沙汰なしとはどういう了見だ、この、バカ息子がぁあああああ!!」
きーん、と石畳に倒れ込んだ男と、一同の耳の奥で金属音が鳴る。ペールギュントはふん、と彼らしくなく鼻息荒く男を睥睨してから、くるりと背を向けてナイマッハ邸の扉をばん、と閉めた。ペールギュントの気配が消えると、男は立ち上がってぱん、ぱん、と埃を払った。
「いやぁ〜…久し振りだったな、父さんの虎牙破斬。相変わらずきっついや」
聞き覚えのある声。緊迫した空気を断ち切るような、間の抜けた、のほほんとした声。
マトリカリアが歩き出す。優雅なステップで、石畳の上の男の傍らにやってくる。男が気付いて振り返った。そして、へんにゃりと笑った。
「やあ、久し振りだね。ジグ、ベル」
ナイマッハが長男、アクゼルスト・テオラ・ナイマッハがそこに立っていた。彼の腕を取って、彼が私の伴侶ですわ、とマトリカリアが微笑んだ。ホドの天地がひっくり返るかと思った。
|