ガルディオスが左の騎士、ナイマッハ家当主ペールギュント・サダンの息子であるアクゼルスト・テオラの帰還は、ユージェニーの来訪以来ふたたびホドを揺るがすこととなった。正確には11年前に行方を眩ませたアクゼルストは、その空白の時間に一体全体何をしていたのかと問えば、ずっとダアトにいたということ、そこでローレライ教団の詠師のひとりの元で譜業の研究をしていたということを何でもないことのように少年の頃と変わらないのほほんとした笑顔で懐かしい人々に話した。生きているのかどうかさえ知れなかったアクゼルストが不精髭を生やして「ご心配おかけしました」と眉を八の字にするのにホド島民はへなへなと脱力させられたが、彼がマトリカリアの伴侶となるためにホドへ舞い戻ったことは彼らをより驚かせた。
 11年前、マトリカリアとアクゼルストが淡い恋仲だったことは知られていたが、アクゼルストがホドを出奔して以来ふたりの繋がりは永遠に断たれた筈だった。外交官であるマトリカリアがダアトへ赴いた際に再会したということが知らされたが、子供までできているとは。おかげでホドは大騒ぎである。ガルディオス家の人間であるマトリカリアとナイマッハ家の人間であるアクゼルスト、ふたりの婚姻はなにやら複雑なものがあるらしく、ジグムントも奥義会とのやり取りに大忙しだ。愛する娘マリィベルの顔もまともに見られず、執務室でしょっちゅう泣きべそをかいているらしい。
 そんな職務に勤しむジグムントの邪魔をしないよう、ユージェニーは娘マリィベルを連れて出かけることにした。ホドに来てから1年、ユージェニーはひとりで出歩いても支障がないくらいにはなったが、まだまだ知らない土地は多かった。セクエンツィアにまた案内を頼もうかとも思ったが、一度気合十分な彼女に頼んで樹海めいた森の中に迷い込んだことがあった。セクエンツィアが絶望的に方向音痴であることを教えられたのは探しに来たヴェルフェディリオにふたりして怒られたあとのことで、自信ありげに迷うから性質が悪いんだと嘆息していた。
 それに、ユージェニーは新しくホドにやってきた、否、ホドに帰って来た人物である、アクゼルスト・テオラ・ナイマッハに興味があった。ホドに一日も早く馴染もうと努力していたころに、ジグムントを良く知る女性としてユージェニーを助けてくれたマトリカリアが選んだ男性。ジグムント、ヴェルフェディリオ、マトリカリアの過去を知るひと。そして、あのように朗らかに力を抜いて笑う人をユージェニーは知らなかった。

 だから、無意識の内にナイマッハ邸の前に足が向いたのかもしれない。

「はあっ!」

 ナイマッハ邸の正門の前を通りかかると、鋭く威勢のよい声が耳に飛び込んできた。マトリカリアの声だ。ひょい、と躊躇いがちに正門から中の様子を伺うと、中庭に敷かれた石畳の上で、ふたりが木刀を向け合っていた。マトリカリアと、アクゼルストだ。先程の声はマトリカリアが打ち込んだ際に発した声らしく、アクゼルストは木刀を防御の形に構えて、「いててっ」とマトリカリアの剣を受けた腕を痺れさせているようだった。笑んだマトリカリアが鳥のように跳躍し、「裂空斬!」と文字通り空を裂くように空中で回転した。アクゼルストが咄嗟に木刀を顔の前に持ってこなければ、顔面にマトリカリアの剣が直撃していたかもしれない。ユージェニーが手を引くマリィベルが、目の前で繰り広げられる立ち合いに心なしかきらきらと目を輝かせていた。
 アクゼルストは石畳に降り立つマトリカリアに先行して木刀を構え直し、見えるか見えないかというくらいの速さで無数の突きを繰り出した。「秋沙雨っ!」空中でそのモーションを見極めたのだろう、マトリカリアはアクゼルストを、それも顔を足場にして直角に後ろに飛んだ。いつものヒールではなくてやわらかい修練用の靴だったのが救いだ。マトリカリアの足に潰された顔から「ふみゅ」と音が出る。その時には石畳の上に着地したマトリカリアが木刀を構えていた。アクゼルストが技を中断して防御の体勢に入る。マトリカリアは構わず、苛烈なる踏み込みをもって木刀の一突きをお見舞いした。それを真正面から受け止めたアクゼルストが構えた木刀が軋む。ぺき。音が鳴った。ぺきぺきゃ。アクゼルストが唖然とする。とうとうアクゼルストの木刀は真っ二つに割れてしまった。

「わたくしの勝ちね」

 参りました、とアクゼルストは使い物にならなくなった木刀の端と端を両手で持ち上げて、降参の意を示した。ユージェニーが思わずぱちぱちと拍手をした。マリィベルもそれに倣った。

「あらまあ、ユージェニー様にマリィベル。ごきげんよう」

 先に反応を返したのはマトリカリアで、慌ててアクゼルストが「ユージェニー様、マリィベル様。おはようございます」と何度かぺこぺこ頭を下げてきた。息も切れ切れの彼とは対照的に、マトリカリアは汗ひとつかいていない。

「やっぱり、きみは強いな。全然かなわないや」
「何を情けないことを言ってらっしゃるの?貴方もそれ相応の働きはしてもらわなくては。ホドに戻ってくると決めたのですからね」

 「手厳しいなあ」、ほんわかとほほ笑んだアクゼルストから視線を巡らせて、マトリカリアはユージェニーに目をやった。「ユージェニー様、何かおありでしたか?」

「いえ、ジグムント様がお忙しいので、邪魔をせぬようにお出かけでもと…」
「あら、そうでしたの」

 マトリカリアは、木刀を腰に納めてユージェニーの手に引かれるマリィベルにおいで、と腕を広げた。マリィベルがとたとたと走り寄ってきて、マトリカリアに抱き上げられる。

「丁度いいわ。アル、あなた、ユージェニー様のお相手をしてお上げなさい」
「マ、マトリカリア?」
「いいよ、僕もユージェニー様とゆっくり話したかったしね」
「マリィベルは私が見ていますから、どうぞユージェニー様、お気遣いなく」
「あ、あのー?」

 どんどん話が進んで行ってしまう。ユージェニーは困ってマトリカリアに視線を投げた。すると、マトリカリアはマリィベルからこちらに視線を寄こして、こう言った。



「わたくしやジグムントたちからは、聞きにくいこともあるでしょう?」
 


 マトリカリアは、「では、行ってらっしゃいませ」と目礼した。アクゼルストが「じゃあ、行きましょうか」と手を差し出す。ユージェニーはその手を取った。するとアクゼルストは、ぽにゃりと顔を緩めて笑った。





「さて、どこへお連れしましょうか、ユージェニー様?」

 10年近くぶりに戻ったのだというのに、アクゼルストの足取りに迷いはなかった。まるで、はじめから決められたピースを嵌めこむように彼はホドの石畳を踏んだ。違和感ひとつなく、ホドは彼を受け入れていた。これが、ホドという島なのだ、とユージェニーはこの島で過ごしたまだ短い時間を経て思っていた。
 「創世暦時代の遺跡を巡ってみますか?それとも、野苺を摘みに行きましょうか」この季節になると母さんが野苺のパイを焼いてくれたものですよ、とアクゼルストは歩いているうちに時々振り返って語りかけた。アクゼルストの歩く速さは、ユージェニーに心地よかった。語りかける声はジグムントよりも低く、じんわりと身体の芯に染み渡った。出会ったばかりなのに、彼の存在はユージェニーの中にたやすく受け入れられた。それが彼の性質なのかもしれなかった。

 だから、マトリカリアの言った通りのことを聞いてしまったのかもしれない。



「アストラ、という女性を知っていますか?」



 アクゼルストが振り返った。少しの驚きがその顔に色を乗せていた。そして彼は、すぐにもう見慣れてしまったやわらかな笑顔を浮かべた。「知っていますよ」。アクゼルストは確かにそう言った。

「いいですよ。アストラのところへ、行きましょう」

 アクゼルストは、ユージェニーに背を向けて、明確な目的を得て歩き出した。しかしその足取りは、先程と同じように緩やかで、快かった。
 アクゼルストが足を向けたのは、島の北東部にある丘陵地帯だった。なだらかな坂道を登っていく途中、アクゼルストが「誰から聞いたんですか?アストラのこと」と聞いた。彼の声は背を向けていてもよく響く、と思った。

「ジグムントさまが、仰っていました。アストラ、という女性がいて…『ホドのみんなで、幸せになる』、という言葉を自分に教えたのだと」
「そうですか、ジグが」

 夫のことを愛称で呼んで、アクゼルストはくっくと笑った。「ジグは、アストラに懐いていましたから」、と懐かしげに言うアクゼルストは、きっとユージェニーの知らないことをたくさん知っている。それは、幼いジグムントだとか、彼の気の置けない幼馴染たちのことだとかだ。

「アストラ…アストラエア・ナイマッハは、僕の姉なんですよ」

 アクゼルストが言った言葉は、ユージェニーを驚かせた。彼の口ぶりからジグムントだけではなくて彼自身にも近しい存在であろうとは思っていたが、実の姉であったとは。

「…今、アストラはどこに?」

 しかし、今ホドにアストラはいなかった。アクゼルストはユージェニーの問いに答えを返しはしない。代わりに、彼は静かに口を開いた。

「アストラは、太陽のような女性でした。僕にとってもそうだし、ジグやベル…ああ、ヴェルフェディリオのことです、それからヴェルフェディリオの前の従者であるレクエラートにとってもそうだったと思います。僕らはいつだってアストラの元に集まってきました。彼女が笑えば、みんなが笑う。彼女が太陽だとするなら、僕らは彼女の周りをくるくる回っている、衛星でした」

 傾斜が少しきつくなった坂を登り切れば、開けた場所に出た。そこに、三つの墓石があった。そのひとつの前で、アクゼルストが立ち止まった。



「しかし、それも11年前までの話です」



 アクゼルストは、ユージェニーに向き直った。そして、背後の墓石を指し示して、「着きましたよ。彼女が、アストラです」。
 ユージェニーは跪いて、ホド特有の直方体の墓石に刻まれた文字をなぞった。アストラエア・ナイマッハ。ジグムントに今まで抱き続ける思いを託した女性は、ホドを見渡せる丘の上に眠っていた。

「どうして、彼女の最後の預言は訪れたのですか?」

 問いかけたユージェニーに、アクゼルストは答えなかった。最後の預言の訪れ、それはこの世界において死と同義だった。ジグムントのように、ホドに住まうすべての人々のようにホドを愛したはずの彼女がどうして亡くなったのか、ユージェニーは知りたかった。口を噤んだアクゼルストの傍らに、さあっと風が流れていった。その横顔は、彼の父と良く似ていた。



「ありません」



 アクゼルストが口を開く。



「ありません。アストラに、預言は詠まれませんでした」



 彼の言ったことがどういうことか、ユージェニーには分からなかった。この世界に生きるものに、預言の詠まれないものがある筈がない。

「ナイマッハ家にも、誕生日に預言士を呼んで一年の預言を呼んでもらう慣わしはありました。けれど、どうやってもアストラの預言が詠めた試しはありませんでした。彼女に、未来が示されたことは一度もなかった」

 そんなことが、有り得るのだろうか。未来が詠まれない。それは、最初から未来がないものと同じではないか。生まれているもいないも、同じではないか。
 アクゼルストは、ユージェニーの心の声を拾い上げる。「それでも、」鷹のような瞳がホドを眺望する。風が、噴いている。



「アストラは、彼女の生を全うしました。アストラが死んだことを受け入れたくなくて、僕はホドを去りました。けれど、こうして戻って来たのは、ここが、ホドが、僕の生きる場所だからです。アストラがそうであったように」



 彼は、ユージェニーを見つめる。碧空のごとき瞳がユージェニーを射抜く。



「だから、僕はナイマッハの騎士として、貴女を守ります。貴女の上にどんな預言が詠まれていようと。ホドは、一度自分が受け入れたものを見捨てはしないんです。ホドに生きる僕らもそうです。貴女がこれから何を選ぼうと、僕は貴女を、肯定する」



 そう、彼は言ってのけた。それから、格好つけすぎですね、といつもの調子でぽにゃりとやわらかく笑った。



「さて…帰りましょうか、ユージェニー様?」



 促すアクゼルストに従って、ユージェニーは頷いて歩き始めた。緑の丘が、遠ざかる。そこには、変わらず気持ちのいい風が吹いていた。



Dies irae V