五月の女王が去りつつあるガルディオス伯爵邸の庭園で、ふたりの子供が小ぶりの木刀を構えている。ひとりは幼いながらも見目美しい、金髪蒼目の少女である。むぅっと寄せられた眉が、ひたむきな懸命さをありありと感じさせる。もうひとりは彼女よりはいくらか気弱そうな黒髪碧眼の少年だった。木刀を握る手は徒に力がこもるばかりで、基本の型も覚束なかった。
ふたりが対峙する先には、ひとりの女が立っていた。少女と同じ輝くばかりの金髪を肩でふんわりとカールさせた、妙齢の女性である。その手に握られているのは木刀ではなく、今さっき其処で拾いました、といった風情の木の枝。握り込める程度に太さはあるものの、自然に枯れ落ちたそれの中身はすかすかで、得物にするには頼りなさすぎる。おまけに、申し訳程度に葉っぱが一枚ばかりついている。
しかし、女の表情は優雅そのものである。パステルカラーのルージュを引いたその女は、美しい曲線を描く唇を開いて、「いらっしゃい」と囁いた。最初に動いたのは、ふたりのうち少女の方だった。「はぁあっ!」と気迫のこもった高音を発して、少女が踏み込んだ。少年の方がそれに触発され、弾かれたように自分も地面を蹴る。先に自分の元まで辿りついた勇ましい少女を、女はひらりと身を翻してかわした。続いて向かってくる少年も同じようにいなしてみせる。女は元から立っている場所から一歩と動いていなかった。それに気付いた少女は、かっとなって追撃に入る。まっすぐ打ち込んだ木刀に、そっと添えるようにして木の枝を差し出した。するとどうだろう。ほんの、触れただけのように見えた木の枝が、的確に木刀の軌道をずらす。少女は打ち込んだ勢いのままに芝生に突っ込んだ。
「きゃっ!」という少女の短い悲鳴と、どたっと芝生の上に倒れ込んだ音を背後にして、女はすかすかの木の枝を少年にまっすぐ向けた。少年の表情がひく、と固まる。青と碧が見つめ合い、次の瞬間少年は「でやぁあああっ!!」と鳴り振り構わずに突っ込んできた。とん、と後ろにステップをひとつ。懐まで少年を招き入れた女は、木刀の切っ先が女の胸に届こうとしたその時、枯れ枝が少年の木刀を握る手の甲を打った。「っ!」痛みに声を上げたときには、少年の手は木刀を手放していた。ぽとん、と芝生の上に木刀が落ちる。そして、
「まだまだね、メルトレム?」
と、女がにっこり笑って少年の脇を打った。ただの木の枝が、彼女の手の中では剣に変わっていた。少年は「ぷわっ!」と情けない悲鳴を上げて芝生に転がった。勢いの余りごろごろと回転して、芝生まみれになって自分の傍らまでやって来た少年、メルトレム・イコンを見て、倒れ込んだ体を起こした少女は思わず噴き出した。
「もう、おばさまったら手加減なしなんだから!」
少女、マリィベル・ラダンは正確には父の従姉である女性、マトリカリア・クランに言った。マトリカリアはというと「当然よ、剣の稽古に手は抜きませんからね」と木の枝をクルッと手の中で回して微笑んだ。
「か、母さん…ひどいや…」
髪の毛に芝を散らしてむっくりと起き上がったのは、マトリカリアの実の息子であるメルトレムである。4歳を迎えたばかりの彼の、父譲りの碧眼に涙が滲んでいるのを見て、マリィベルはメルトレムの髪についた芝を摘み取ってやる。
「ほら、しっかりしてよメイ。あなた、わたしの騎士なんだよ?」
「ぼ、ぼく、騎士になんてなれないよぅ…」
「まあ、よくそんなことが言えるもの!」
5歳にして既に口達者なマリィベルは、未来の左の騎士たるメルトレムにお叱りを飛ばす。メルトレムといえばおろおろとするばかりで、マリィベルを呆れさせた。元々口下手で気弱なメルトレムは「うぅ〜…」と呻いてマリィベルのお叱りを黙って聞いていることしかできない。
どっかで見た光景だな、ヴェルフェディリオは頭を捻る。思い出した。ジグムントとその姉、ユリアナだ。ユリアナは幼馴染の中で唯一、マトリカリアと太刀打ちができる少女だった。ジグムントは次期ガルディオス家当主にも関わらず剣術が不得手で、よくユリアナにどやされていたっけ。
と、屋敷からジグムント、ユージェニーのガルディオス夫妻が出てきた。ジグムントの手にはユージェニーが用意したのだろう、お茶会の準備を整えたプレート。ジグムントの奴が自分が持つ、と言い張ったのだろう。ユージェニーが、「お茶にしましょうか」と言うと、子供たちがわっと言って駆け寄ってきた。マリィベルが目元の赤くなったメルトレムの手をしっかりと引いて。微笑ましい。
ガルディオス伯爵邸の庭園、ホド・マーブルの石畳に設置されたテーブルで、お茶会が始まった。出席者はジグムントとユージェニーのガルディオス伯爵夫妻、マトリカリアとアクゼルストのナイマッハ夫妻とその子どもたち。そしてヴェルフェディリオとその従者セクエンツィアである。
今日のおやつはユージェニーお手製のチーズケーキである。いい焼き色の表面に、ちょこんと乗っているのは採れたばかりのホド野苺。取り合いになる前に、自然とユージェニーがマリィベルとメルトレムの皿にそれをひとつずつ乗せてやる。几帳面に等分に切り分けられたチーズケーキが全員に行き渡ると、いただきます、というジグムントの号令で、全員がいただきます、と手を合わせた。
はじめ、ユージェニーが「お菓子の作り方を学びたい」と言いだしたときは、ガルディオス家の厨房勤めの人間が例外なく唖然としたものだ。わざわざガルディオス伯爵夫人が手を煩わせなくとも、ガルディオス家には帝都の一流店で腕を振るっていたようなパティシエもいる。しかしユージェニーは頑として譲らなかった。夫であるジグムントや娘マリィベル、それにフェンデやナイマッハの人間の笑顔を見たいというのがその理由だった。最初は厨房勤めの使用人がヒヤヒヤするような手つきだった腕前も、そこで自明となったユージェニーの頑固さと勤勉さも手伝って、今となっては立派なものである。時折ホドの島民たちを招いて披露することもあり、そのせいもあってか、島民たちから食材を差し入れてくれることも度々あった。
ユージェニーの料理の腕がまだ未熟だったころの夫ジグムントに次いでの一番の味見係であり、食いしん坊のセクエンツィアはひょいとチーズケーキを持ち上げて、口に放り込む。むぐむぐ、と動く口は、ややあって、「おいしい!」と声を上げた。笑窪を作った頬にケーキの欠片がついているのを、やれやれとヴェルフェディリオが取ってやる。照れたのか、思わず俯いたセクエンツィアに、マリィベルがくすくす笑った。
「セクエンツィアは、剣のお稽古をしてるときと普段が別人みたいね」
「そ、そうですか?」
「そうよ。ねえ、メイ?」
メルトレムに視線をやる。ふいに名前を呼ばれたメルトレムが、驚いてケーキを喉に詰まらせてしまった。けほ、けほ、と咳き込むメルトレムの背を父アクゼルストがゆっくり擦ってやる。母マトリカリアが苦笑して、また目元に滲み始めた涙を拭ってやった。
「メルトレム、しゃんとなさいな。あなたの弟か妹に笑われてしまうわよ?」
そうだった。ヴェルフェディリオは肝心なことを思い出す。マトリカリアは、ふたりめの子供を授かっていたのだった。まだ2ヶ月ちょっとだというが、平常と変わらず子供たちの稽古の相手をしてやるものだから忘れていた。メルトレムがお腹にいたときも、8、9ヶ月目まで蒼天騎士団として戦場を外交官として世界を駆け回っていたと聞いて、産婦人科医が仰天していた。さすがはホドの女教皇、という話ではない。
メルトレムはというと、自分で涙を拭って、はい、と健気に言ってみせた。泣き虫のこの少年も、自分に弟か妹かができるのが楽しみで堪らないらしく、父親譲りの碧眼に元気な光が戻った。マリィベルもその例外ではなく、しょっちゅうマトリカリアのお腹に耳を当てて、ナイマッハの次男か長女かの鼓動を聞こうとするのだった。新しい生命の誕生、それはこの子供たちにとって、新しい友達が増えるという幸せそのものだった。
「ねえ、ヴェルフェディリオのうちにはいつ赤ちゃんが来るの?」
だから、いつかこんな質問も来るだろうなとヴェルフェディリオはぼんやり予感していた。くるり、とヴェルフェディリオの方を向いた子供たちの2対の瞳に、さてどう答えようかとヴェルフェディリオは一瞬迷う。
子供。
子供、か。
目の前に実際にいるような存在が、自分にもできる。それがどういうことか、ヴェルフェディリオにはよく分からなかった。というより、分かろうとしなかった。ガルディオス、ナイマッハでの後継ぎの誕生を受けて、ヴェルフェディリオもその存在を考えさせられなかったわけではない。しかし、ヴェルフェディリオの思考はいつでもそこで止まってしまった。ま、その内な、とぽいっと放り出してしまうのだ。それは、逃げに似ていた。
「…そっスね、こいつがその気になったら何時でも?」
そう言って、セクエンツィアの肩を抱く。だからこうやって道化てしまうのだ、何時だって。そうしたら、セクエンツィアに慌ててばっと腕を払いのけられて、何してるんですか、なーんてぽこぽこ怒られて、周りがヴェルフェディリオは冗談ばっかり、とか何とか言って、それで話が終わるのだ。
その筈だった。
「………っ!」
セクエンツィアが、びくりと震えた。ヴェルフェディリオが驚いて、ひく、と喉を鳴らすくらいだった。マズイ、とヴェルフェディリオは思った。セクエンツィアの細い腕が、やんわりと主の腕を追い払った。そして、セクエンツィアは俯いたまま立ち上がった。
「…さき、かえります」
感情を押し殺したような、セクエンツィアが絶対にしないような声だった。セクエンツィアは踵を返し、脱兎のように駆けだした。すぐにセクエンツィアの赤色毛玉の頭は見えなくなった。ぽかん、としたヴェルフェディリオだけがそこに残された。
あれ、
おかしいな。セツィ、あれくらいで怒ったっけ。
答えを求めるように、振り返る。その時ヴェルフェディリオは、自分が尋問部屋に入り込んだような気がした。あらゆる瞳がじっとりと暗くこちらを見つめていた。子供たちも、あーあ、とでも言いたげな失望の目をしていた。最初に口を開いたのはジグムントだった。
「鈍感」
「無神経」
「女心が分かってない」
「えーっと…いくらなんでも、セーがかわいそうです」
セクエンツィアを溺愛するが故に射殺す勢いで睨みをきかせるジグムント、平然と紅茶を啜るアクゼルスト、超絶笑顔のマトリカリアに、躊躇いがちなユージェニーまで続いて、突き刺すようにぐさぐさとヴェルフェディリオを糾弾した。それが突き刺さるたび、ヴェルフェディリオは耐え切れず頭をテーブルに突っ伏せた。ホド最強の譜術士は既に白旗を掲げていたが、栄えある栄光の銃士たちは攻撃の手を緩めなかった。
「ユージェニーの言う通りだ、貴様セクエを何だと思ってる?レイから預かっている大切な娘だぞ」
「うっ」
「あの子が傍にいるのが当たり前だと思って甘えてるのが見え見えなんだよねぇ」
「ううっ」
「アナタ、女好きのくせにそんなだとその内刺されますわよ?ホドの名に泥を塗るのはおやめになって」
「うううっ!」
セクエンツィアだって、もう大人の女性なんだから。
そう言ったのは誰だったか。ヴェルフェディリオは、はっとなって顔を上げた。幼馴染らが少し驚いて、ヴェルフェディリオを見つめる。ヴェルフェディリオは、そう、ぽろりと零すように言った。
「…そうだった。セツィって、女の子だった」
幼馴染らが、何の打ち合わせもなしに一斉に手刀をヴェルフェディリオの頭に打ち込んだ。ふたたび頭を伏せてテーブルに顔をめり込ませたヴェルフェディリオの上で、ユージェニーの乾いた苦笑が聞こえていた。
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