追い払われるようにしてガルディオス伯爵邸を後にしてからも、足はまっすぐフェンデ邸には向かなかった。どこに向かうでもなしに町をぶらついていると、いつの間にか日が傾いていた。帰らなきゃな。観念して、家路につくことにする。なんか、俺、カッコ悪いな。ため息を、また一つ。
セクエンツィアだって、もう大人の女性なんだから―――
言われるまで気付かなかった。セクエンツィアが兄レクエラートに代わってホドにやって来たのが13歳の時、それから6年が経って、今は19歳。いや、セクエンツィアはイフリートデーカン生まれだから、もう三月もすれば20歳。
指折り数えてみれば、随分長い時間を彼女と共に過ごしてきたのだと驚く。あんな言い方すりゃ、怒るのも当然か。何もかもあいつらの言う通りだ。アホか俺は。
そこで、はたと気付く。
今までセクエンツィアを女性として見てなかったのなら、俺はあいつのことを何だと思ってたんだろう。
セクエンツィアは、カンタビレ家の出のレヴァーテイン、第4席。負傷した兄の代わりとして、フェンデ当主であるヴェルフェディリオに付き従う騎士だ。ただの、騎士、として俺はあいつを見てきたのか。いや、違う。それなら俺はあいつをこんなに近くに置かない。ヴェルフェディリオという人間は、軽薄に見えてあらゆる規則を順守することを至上する男だった。だから、彼は己を守護するレヴァーテインにさえ心を許さない。勇猛なる女戦士ブルネッロ・トロメアにも、カンタビレの佼人パルティータ・カンタビレ=ジュエにも、姉と似た王女然とした美しさのフィフュス・アエルにも、グレニールの無邪気な双子ナリスサッガ・グレニールとエッダナルヴィナ・グレニールにも。
彼女だけ。
セクエンツィア・カンタビレ=ダアトだけだ。
ふ、と浮かんだそのフレーズが、頭蓋骨の中をバウンドする。脳内を駆け巡る。セツィだけ。短いそれが跳ねまわる軌道がヴェルフェディリオを縛り、いつしかヴェルフェディリオの中にそれが溢れた。溢れて、溢れて、溺れそうになる所で、はっとヴェルフェディリオはフェンデ邸の玄関に立っていたことに気付いた。危ない危ない、閉まったままのドアに頭をぶつけるところだった。どんだけ呆けてんだ。嘆息して、扉を開く。
いつも通りの居間がヴェルフェディリオを出迎えた。精々3、4人しか座れないようなこじんまりとしたテーブルに、彼女が、セクエンツィアが肘をついていた。
ぼうっとしているのか、まだヴェルフェディリオに気付いていない。窓からオレンジの日が差し込んでいた。それがセクエンツィアの横顔を照らしていた。セクエンツィアの全てをオレンジに染めていた。
それを、
キレイだ、と思った。
待て待て待て待て。セクエンツィアってこんなにかわいかったっけ。睫毛がびっくりするくらい長くて、下手な化粧なんていらないくらい目元がくっきりしていて、瞳は可憐な菫色。ちょこんと小さな鼻の傾斜の下に、花びらを二枚合わせたような、ぷっくりとしたピンク色の唇があった。髪を上げているために、顎から首筋を通って鎖骨までが露わになっているラインは、どうしようもなく扇情的だった。清潔な白いワンピースの下に収まっている胸はやはり少女のものでなく、大人の女性のものだった。誰がそれに触れたことがあるだろう。いや、ない。それだけは俺でさえも。
それを、
触れたい
と、思った。
「…ヴェリオさま?」
セクエンツィアが、ヴェルフェディリオを呼ぶ。菫色の瞳がこちらを向いている。今まで気付かなかったことを恥じるように頬を染めて。ヴェルフェディリオは、自分がいつも通りの道化の顔をしているかどうかだけが気がかりだった。そして、それはどうやら成功していたらしい。セクエンツィアはいつもの通りに笑って、お帰りなさいと言った。
いつもの通り。
いつもの通り、ヴェルフェディリオは只今、と言う。それに、セクエンツィアはとびっきりの笑顔を返してくれた。彼女が生まれた季節に咲くような、向日葵のような笑顔だった。オレンジの光を受けて輝くそれが、ヴェルフェディリオの世界のすべてであるような気がしていた。夕食にしようか、と言った声は、幸運なことに震えてはいなかった。
その日の夜は散々だった。妙に胸がどきどきして寝付けなかった。一つ屋根の下に彼女が眠っているんだと考えると止まらなかった。アホか俺は、そんなの6年前からずぅっとだ。そんなことは分かっていた。なのに止まらなかった。オレンジ色の光に照らされていた、世界のすべてに祝福されたようなあの子が、すぐ隣の部屋にいる。すやすやと眠っている。彼女は寝付きがいいから、ベッドに入るとすぐに眠ってしまうのだ。そうだ、ホドに来たばかりのころのセクエンツィアは、カンタビレの屋敷ではいつも姉と一緒に眠っていたらしく、一人で眠ることができずにいた。だから、しばらくは俺が一緒に寝てやったのだった。20の俺と、13のセクエンツィアが。6年前の自分は一体何をしてたんだ。拒否しろよ。第二次性徴期まっさかりの女の子だぞ。でも「一緒に寝てください」なーんて涙目で言われたら断れる筈ねーだろ。あのころはぺったんこだったのに今は立派なもんだよなあ、って俺は何を考えてるんだ!しかしあいつ、胸だけは発育良すぎだよなあ。黙れ、ゲスが!ヴェルフェディリオの中で理性と本能の国境紛争が勃発し、断続的に続いていた。おかげで寝不足気味のまま、翌朝セクエンツィアと顔を合わせることになった。
「ヴェリオさま、おはようございます!顔色、悪いです?眠れませんでした?」
「や、大丈夫大丈夫…朝メシ何?」
「たまご丼とお吸い物ですよ。さ、ヴェリオさま、召し上がれ!」
両手を合わせ、ふたりで合わせて「いただきます」。たまご丼とは、これまた懐かしいメニューだ。彼女の兄レクエラートは自分の身分をよくよく弁えて、ヴェルフェディリオの見ていないところでを自分の食事を取っていたが、レクエラートの予期しない負傷によってレヴァーテイン・第4席になったセクエンツィアは、本来第4席がやるべきフェンデ当主の身の回りの世話に必要な知識を何も持っていなかった。掃除洗濯はもちろん、料理だって最初はひどいものだった。カンタビレ家の食生活は意外と質素なものらしく、ただ一つセクエンツィアが知っているレシピというのがたまご丼だったのだ。おかげでセクエンツィアがホドに来てからというもの、2週間朝昼晩毎食たまご丼が続いたのだった。そこまで来てやっとヴェルフェディリオがストップをかけるまで、セクエンツィアはそんな食生活に疑問を感じていなかったらしい。カンタビレ家、恐るべし。
そんなセクエンツィアに、今のような人並みの家事レベルを身につけさせるのにどれだけかかったか。そんな苦難の歴史を、このたまご丼はヴェルフェディリオに思い出させるのだった。ほろりと滲みそうになる涙を誤魔化そうと、少々行儀悪くたまご丼を口にかっ込んだ。流し込むようにお吸い物も。うまい。染み渡るように全身に行き渡るぬくみ。上達したもんだなあ。「お行儀が悪いですよ」。くすくす笑うセクエンツィア。前までこんなに大人っぽかったっけ。子供のようにぽこぽこ怒って頬を膨らませてはいなかったっけ。
「これから、予定通り帝都まで出るから。明日の朝の便には乗れるだろ」
「分かりました。じゃあ、こっちに帰ってくるのは明日のお昼ですね」
食事を終えて、フェンデ伝統の厚手のコートを羽織る。ちょいとぶ厚いが、中をタンクトップにして調整済み。「おう。いい子にしてろよ?」と意地悪っぽく言ってやれば、セクエンツィアはぷくっと頬を膨らませて「もう子供じゃありません!」と声を荒げた。なんだか、妙に安心しているのを自分で感じた。頬が緩んで、わかったよ、と言った。
「じゃあ…留守は頼んだぜ、セツィ?」
「はい、任せてください!」
セクエンツィアの笑みを背にして、フェンデ邸を出た。自分でも思う位に、いい気分だった。
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