ホド港。
 グランコクマからの定期船が朝夕と12回やってくる、ホド唯一の港。
 セクエンツィアは待っていた。
 船が来るのを、待っていた。
 一度目の船がやって来た。ぱあっとセクエンツィアの表情が明るくなって、目的の人を探す。菫色の瞳をくりくりさせて、あの人を探す。
 見つからない。
 彼女は肩を落とした。朝からずっと座っていた、青いベンチに腰かけた。色んな人が通り過ぎた。あの人は、いなかった。
 それでも、セクエンツィアは待っていた。
 ずぅっと、待っていた。





「ふにゃ…」

 ヴェルフェディリオは目を覚ます。ちょっとばかり寝すぎたようで、頭ががんがん痛む。「あら、目が覚めた?」上から降ってくる、そう、カネルの声。「…おはよ。今、何時…?」痛む頭を押さえて起き上がる。どんだけ寝てたんだ。カネルも起きたばかりなのか、欠伸をひとつしながら、言った。

「おはよう…って言うには、ちょっと遅すぎるかしらね」

 一気に目が覚める。
 体内音素を活性化、高速移動。カーテンの閉まった窓へと駆け寄り、勢いのままにカーテンを一気に引っ張る。譜力の多大なる無駄遣いの結果、その間約1秒。
 太陽は、既に頂点にあった。



「だああああああっ!!!寝坊だ寝坊大寝坊ぉっ!!!」



 カネルが唖然としている間に上着を羽織る。別れを告げる余裕もなく部屋を駆け出た。マルクト軍御用達の高級娼館の廊下で、ブーゲンビル・アルフェレス中将とすれ違って「フェンデ殿、まだ帝都にいらっしゃったのか。明日ホドにお出迎えに上がる予定だったのだが」とか何とか聞こえたが無視。ホド最強の譜術士の名に恥じない譜術によって底上げされた超身体能力が、朝寝坊という情けない理由で行使される。向かうのはグランコクマ港である。定期円に乗らなければいけない。朝の便はもう望みがない。だからせめて昼の便に乗らなければ、今日中にホドに着けない。

 約束した。
 約束したんだ!



「…嘘だろ…」



 定期便は、既に出港していた。
 これで、今日の便は終了だ。
 ぼおお、と、遠く汽笛が鳴っていた。ヴェルフェディリオは力尽きたように、その場に崩れ落ちた。誰かレイズデッド頼むわ。





 結局、定期便に乗ったのは次の朝だった。娼館にトンボ帰りして、カネルに頭を下げてもう一晩宿を貸してもらった。彼女には頭が上がらない。今度ばかりは寝過ごしたりしなかった。朝一番の定期船に乗り、船に揺られて2時間、やっとホドに到着した。予定より丸一日遅れの帰還である。
 船客たちに交じって下船したヴェルフェディリオの表情は浮かなかった。これまで、ヴェルフェディリオがセクエンツィアに告げた約束を違えたことは一度としてなかった。あったとしても、必ず連絡を入れていた。譜学研究所の連中に引き留められてる、イエティが多すぎたから1週間帰りが遅れる、等々。たったの一日だ。鳩を飛ばすこともないでしょうとアルフェレス中将に笑われた。だが、たったの一日は、一日も、かもしれない。心配性で、俺のことが心配で泣いてしまうようなあの子の。
 ヴェルフェディリオは辺りを見回さずにはいられなかった。居る筈がない、と分かっていても、そうしなければやり切れなかった。船客が散っていく中で、ヴェルフェディリオと目が合った人物がいた。

 まさか。
 ヴェルフェディリオの、一瞬浮かれた顔がそっくりそのまま停止する。
 いや、それは。

 ジグムント・バザン・ガルディオス、その人であった。




「…この、馬鹿者がぁああああああっ!!!」




 ジグムントの右がヴェルフェディリオの頬に、完全に決まる。吹き飛ぶヴェルフェディリオ。こいつ、実は譜力上乗せしなきゃ俺より力あるんだよな。そんなことを思いながら、ホド・マーブルの石畳の上に倒れ込んだ。頬が痛い。ちょー痛い。絶対痣できる。
 痛みに耐えて身体を起こすと、ヴェルフェディリオの眼前にジグムントが立っていた。ホドの王たる風格十分の、威風堂々たる姿であった。彼は鬼のような形相をして怒号を放った。



「セクエがどれだけ待ってたと思っている!?昨日の朝、帰ると言ったんだろう?あの子はお前を待っていたんだぞ、朝から晩まで、ずっと!私や姉さんがいくら言っても、お前が今日帰ると言った、と言って聞かなかった!お前のためだ!お前のために、あの子はずっと待っていたんだよ!!」



 ホド港のど真ん中で、ジグムントの怒りがヴェルフェディリオを打ちのめした。島民たちが遠巻きに見ている。心配そうに。ヴェルフェディリオは立てない。立ち上がれない。どうしても。
 虚空のようなヴェルフェディリオの胸に湧いたのは、どす黒い炎のような激情だった。それは、ずっとヴェルフェディリオの胸に巣食ってきた闇だった。オリを開けろと暴れる闇をヴェルフェディリオは何の躊躇もなく解放した。ヴェルフェディリオは出したこともないくらいの大声で、叫んだ。




「…何で、そんなにムキになるんだよ。あいつは、ただの俺の騎士だろうが!!!!」




 びりびりと、ホドが震えたような気がした。何年も、何十年も秘め続けた獣の一吠えだった。俺は主だ。あいつは騎士だ。その関係を越えることは許されない。越えることなど、ある筈がない。
 それが、理ということなのだから。
 ジグムントは、呆けた顔をしていた。何か言い返すかと思ったが、そうしなかった。束の間の静寂があって、やがて心底、呆れたとでも言うようにジグムントが静かに口を開いた。




「…何を言っている。あの子を騎士扱いしていないのは、お前だろう?」





 …え?




 ジグムントが、踵を返す。早く帰ってやれ。ジグムントが言ったのは、もうそれだけだった。情けなく石畳に尻もちをついたヴェルフェディリオだけが残された。ジグムントの言ったことが頭で鐘のように鳴り響いていた。俺はセクエンツィアを、ただの騎士として見ていない。なら、俺にとってセクエンツィアは何だ?騎士でも従者でもなくて、それなら、何なんだ。答えろ、ヴェルフェディリオ・ラファ・フェンデ!



 ―――あんたの目、俺の好きなやつと似てる



 それは、自分自身が言った言葉だった。それが真実だった。騎士でもなく、従者でもなく。ただひとつの、真実。やっと、辿りついた。




「俺は…セクエンツィアが、好きだ」




 ヴェルフェディリオがぽつりと呟いた。その言葉は、走り去ったひとりの少女には聞こえなかった。主が放ったけものが彼女の心を食い荒らした。瞳に涙を光らせて、少女はひた走った。



Tuba mirum X