フェンデ邸、表玄関。ドアを開ける前に、ふと思い直して頬に手を当てた。治癒の働きをもつ第七音素を込めた右手で、ジグムントに殴られた痕にさっと触れる。第七音素と体内音素が振動し合い、一時的に皮膚の再生能力を早める。ヴェルフェディリオの頬から殴打痕が消えた。よし、これでいい。
「セツィ、ただいま!」
ドアを開けて、努めて明るく言った。セクエンツィアの姿は見えない。留守だろうか?それとも、自室だろうか?まず足はセクエンツィアに与えた自室に向いた。セクエンツィアに伝えなきゃいけないことが、たくさんあった。まずは謝らなくてはいけない。約束を破ったことを。それから、それから。何を伝えようか。少年のように胸が高鳴った。はやく、セクエンツィアに会いたかった。
「セツィ!」
予想通りの場所に彼女はいた。床に座り込んで何やら手を動かしている。弾む声で彼女を呼んだのだけれど、セクエンツィアは振り向かなかった。ヴェルフェディリオは怪訝に思う。聞こえなかった筈はない。セクエンツィア、もう一度彼女を呼ぶ。振り返らない。彼女は、振り返らない。もう一度。もう一度、彼女を呼ぶ。
「セクエンツィア!」
辛抱溜まらず、少し強い声で彼女を呼んだ。すると彼女はようやく振り向く。その顔を、表情を見て、ヴェルフェディリオは驚いた。
セクエンツィアは、泣いていたのだ。
「セ…ツィ…?」
ふいっと、またセクエンツィアは顔を背けた。セクエンツィアは何をしているのか。覗きこむ。そこに、セクエンツィアの膝の上にあったのは、小さな旅行カバンだった。そこには、セクエンツィアの持つすべてと言ってもいいものが入っていた。わずかな衣服。ユージェニーからもらったキムラスカのからくり音機関。いつかのアドニスのコサージュ。と、カバンが閉められた。セクエンツィアは、レヴァーテインの礼服を羽織り、腰に剣を差した。
まるで、これから遠出をするような出立ちだった。
「おい、どこ行くんだよ、セツィ!?」
「ヴェリオさまには、関係ありません」
「関係ないってこたないだろうが、おい!」
「関係ありません!」
ヴェルフェディリオの脇を通り過ぎたセクエンツィアを追って、強い言葉で呼び止めようとする。セクエンツィアが何を考えているのか分からなかった。今までは分かりすぎるくらいに分かっていたのに。分からなかった。だから力任せに止めようとした。だが、セクエンツィアはそれを振り払った。
「わたしはあなたの騎士です、『ただの』騎士なんです!あなたがそう言いました!だったら、騎士としてじゃないときのわたしはあなたに指図される筋合いはありません!ほっといてくださいっ!!!」
セクエンツィアの瞳からぽろぽろ涙が零れ落ちた。こんなにセクエンツィアが泣いているのを、感情をむき出しにして泣いているのを見たのは、初めてだった。ヴェルフェディリオは何も言えなかった。セクエンツィアは、先程のやり取りを聞いていたのだ。セクエンツィアが言っていることは何も間違っていない。何故なら彼女の言うとおり、それはヴェルフェディリオ自身が口にした言葉だったのだ。
動けないヴェルフェディリオに、セクエンツィアは背を向けた。セクエンツィアの擦り減った靴が、ぺたんぺたんと鳴った。セクエンツィアは、おナベの中にカレーありますから、とだけ言ってフェンデ邸を出た。別れの言葉はそれだけだった。セクエンツィアのいなくなったその屋敷で、ヴェルフェディリオはふらふらと倒れ込むように席についた。そして、テーブルに突っ伏した。胸の奥の虚空が広がったような気がした。ヴェルフェディリオは今、ひとりだった。
セクエンツィアもまた、ひとりであるのだとは、まだ考えられなかった。
「酷い顔ですぞ、フェンデ殿」
その日の夕方、定期船で迎えにやって来たブーゲンビル・アルフェレス中将についてホドを出た。定期船の甲板で、ヴェルフェディリオは呆けた顔でぼんやり夕日の沈むコクマ海を眺めていた。グランコクマに着いたら、明日にはケテルブルク行きだ。甲板まで出てきた中将がそう告げた。
中将に言われるくらいだから、相当酷い顔してんだろうな俺。そう思ってはみるものの、道化てみせることもできなかった。何を見てもセクエンツィアを想った。オレンジの光に照らされた横顔。あの時無性に触れたくなったものが、今は遠すぎた。すぐに触れられるところにあった筈なのに。
ヴェルフェディリオは、昔に戻ったような気がした。父親と母親を失くして、世界で一人きりになったように感じていた自分に。それを埋めたのはジグムントだった。そして、レクエラートだった。レクエラートを失ってからは、あの子が、セクエンツィアが代わりにヴェルフェディリオの胸の虚空を埋めた。そのセクエンツィアが、今ここにはいない。
胸にぽっかりと穴が開いたような気分だった。そこに吹きこんでくる風は強すぎて、ヴェルフェディリオは泣きたくなる。声を上げて。みっともなく。
それが、さみしい、という感情だと、ヴェルフェディリオは気付かなかった。
「…む?」
中将の怪訝な声に、ヴェルフェディリオは顔を上げる。ぱたぱた、と羽音が聞こえた。反射的に空に手を掲げると、そこに一羽の鳩がとまった。純白の羽根、蒼い目をした鳩は、ホドの伝書鳩だった。足に括りつけられた文書を取り、開いてみる。ホドの機密文書は通常暗号で書かれているのだが、この文書は平時の文体で書かれていた。それもその筈、送り主はガルディオス伯爵夫人ユージェニー・セシルだった。ヴェルフェディリオは夕日に透かして文書を読み進めたが、そこに書かれていた言葉に目を疑った。
ヴェルフェディリオ・ラファ・フェンデ様
セクエンツィアが姿を消しました。
ジグムント様や騎士団の方々が捜索に当たっていたのですが、港で働いている方の話では、フェレス島行きの船に乗り込んだのを見たそうです。
セーを迎えに行ってあげてください。お願い致します。
ユージェニー・セシル・ガルディオス
ヴェルフェディリオは、何度も文書に書かれている字を目で追った。ぐっ、と手紙を握る手を強める。ヴェルフェディリオは静かに、隣の中将にペンを貸すように言った。黙って差し出されたペンを受け取って、文書の余白にそれを走らせる。
必ず連れ帰ります
文字にしたのは、それだけ。伝書鳩の足にそれを括りつけ、ホドに向かって放す。悠然と羽ばたいた彼を見つめるヴェルフェディリオの目は決意を宿していた。「中将さんよ、」とヴェルフェディリオは軍人を呼んで、ペンを返した。
「予定通り、明日にはグランコクマからケテルブルクに向かう船に乗る。それまでに戻ってくる。だから、今はフェレス島に行かせてくれ」
俺は、約束を破らない。
アルフェレス中将が、「バカな。寝言は寝て言え!」と鉄面備をかなぐり捨てて叫んだ。構わずヴェルフェディリオは柵に足をかける。第四音素の力を借りて、しかとその上に立った。オレンジ色の光がヴェルフェディリオを照らしていた。気持ちがいい。嘘みたいに、気持ちがいい。
「コクマ海は急流だ!いくらマルクト随一の譜術士たる貴公とはいえ、タダでは済まない!死ぬぞ!!」中将が聞いたこともない焦り声で叫んだその台詞を、ヴェルフェディリオは背中で聞いた。柵を蹴る。身体が宙に浮く。ヴェルフェディリオは落下する、オレンジに輝く海面へと猛スピードで落下する。「悪いな、中将さん」。だがヴェルフェディリオは笑っていた。楽しそうに、笑っていた。
死ぬ?
そりゃいい!
「死ぬのが怖くて、恋ができるかぁあああっ!!!!」
ヴェルフェディリオは、船のどてっ腹を蹴って海面を滑走した。レムが、シルフが、ウンディーネが、ホド最強の譜術士の元に集い、収束し、そして弾ける。ヴェルフェディリオは音になって空を駆けた。難破するかと思う位に盛大に揺れた甲板で、ブーゲンビル・アルフェレス中将があんぐりと大口を開けていた。
|