セクエンツィア・アドニス・カンタビレ=ダアトは、実に6年ぶりにフェレス島に降り立った。生まれてから13年間、カンタビレの屋敷の中だけで育ってきたセクエンツィアにとって、フェレス島の街並みは馴染みが無さすぎた。むしろホドのほうが、とそこまで考えて、ぶんぶん首を横に振る。決心したのに、すぐにホドのことを考えてしまう。そこで出会った慕わしい人たちのことを。
 かぶりを振って、セクエンツィアは生家の門をくぐった。門をくぐる前と後では、まるで辺りの雰囲気が違った。観光地化して活気にあふれるフェレス島の街並みから、たった一歩の境界を越えたそこには、不気味なほどに静かな空間があった。人がいないわけではない。人が生きている気配がしないのだ。この空間で、13年間何の違和感も抱かずに生きてきたのだと思うと、信じられない。物心つく前から剣を取り、父に兄に跳ね飛ばされた中庭を抜けると、屋敷の内部へ続くばかでかい扉は既に開かれていた。
 カンタビレ邸の薄暗い廊下をしばらく歩くと、謁見の間に辿りつく。『七天兵』総括者である『総主』、セクエンツィアの父にあたる人間が座るはずの王座には誰もいなかった。しかし、セクエンツィアは気配を感じていた。すうと息を吸う。声を張り上げる。



「レクエラート兄様!いらっしゃるんでしょう!?」



 しん、と静寂が落ちた。セクエンツィアは動かない。王座を睨む目線を動かさない。



「…お前を召還した覚えはないぞ、第4席セクエンツィア」



 ややあって、声が振ってきた。聞き違える筈はない。兄、レクエラートである。どこから喋っているのか分からないが、声はセクエンツィアを足元から振るわせるような低さを纏っていた。だが、セクエンツィアは怯まなかった。「その通りです」とセクエンツィアは言った。

「今日は、兄様にお願いがあって参りました」

 兄は、押し黙った。やがて、兄は「言ってみよ」と声を降らせた。セクエンツィアはぐっと唇を噛み締めた。痛みに耐えるように。
 だが、既にセクエンツィアの心は決まっていた。



「わたしを」

 セクエンツィアは、凛として告げた。

「わたしを、第4(アドニス)から外してほしいんです」



 少しの静寂があった。兄は、動揺した素振りも見せなかった。謁見の間に陳列された、燭台の火がゆらりと揺れるのに、今さらながらにセクエンツィアの胸が騒いだ。ざわざわ、ざわざわ、騒がしい胸が、何と言う感情に湧き立っているのか探ろうとはしなかった。セクエンツィアは兄の言葉を待った。
 レクエラートは、「何ゆえに?」と問うた。ぐっ、とセクエンツィアは息を呑んだ。口を開く。そこから、零れ落とすようにして、想いを音にする。

「…わたしはもう、ヴェリオさまの騎士でいられません」

 そう、言葉にすると、溢れそうだった。胸の奥に沈殿したあらゆるものが、洪水のように、流れ出すようだった。ダメだ。兄様の前なんだ。でも止まらない。止まらない。止まらない!




「わたし、もう『ただの』騎士でいたくない!騎士としてじゃなくて、従者としてでもなくて、ヴェリオさまに必要とされたい!ヴェリオさまの傍にいたい!ヴェリオさまがいないと、イヤなんです!!」




 そんなわたしは、第4席として失格だ。
 アドニスであることを拒み、セクエンツィアとして共に生きたいというのだから。




「だから、わたしは…」
「…それ、告白として受け取ってオッケー?」




 ぶんっ、と音が鳴るくらいに勢いをつけて振り向く。それは、聞き慣れすぎた声。大好きな声。ここに居る筈のないひとの、声だ。





「ヴェリオ、さま…」





 夢じゃない。
 ヴェルフェディリオ・ラファ・フェンデが、そこにいた。



 ヴェルフェディリオが歩み寄る。セクエンツィアの隣に立つ。いつもと同じように。「ど、どうして、ここに?」ヴェルフェディリオは答えなかった。ヴェルフェディリオからは、ふわっと潮の香りがした。ヴェルフェディリオが、声を張り上げた。



「レクエラート、いるんだろ?出てこいよ!」



 静まり返った玉座の間。そこに、ひとりの男が姿を現した。全身、白装束の男である。白銀の髪が顔の左半分を覆い、右目にはモノクル。レンズの向こうに見える瞳の色は、セクエンツィアと同じ紫紺。
 セクエンツィアの実の兄にして、カンタビレ=ダアト当主。レクエラート・クローカス・カンタビレ=ダアトである。



「よお、レイ。久し振りだな」



 ヴェルフェディリオが右手を上げたのに、レクエラートは応えない。氷のように心を凍てつかせた男は、「貴方までもが、何用か」と淡々と問うた。ひんやりと冷たい刃を首筋に突きつけられるような感覚だった。しかし、ヴェルフェディリオは堂々としていた。

「俺も、お前に伝えたいことがあってな。長かったぜ、コクマ海。途中足場を見つけては譜術を練り直してもっかい滑空しなおしたんだけど、足場と思ったらリヴァイアサンで捕食されそうになったり、ウッカリ海賊船に着地して喧嘩売られたから売り返したり」

 ウッ、とヴェルフェディリオは今度の苦難を思い出して唸った。セクエンツィアとレクエラートのカンタビレ=ダアト兄妹は何がなにやら、首を捻るしかない。
 「だが」、ヴェルフェディリオは向き直った。「それも全て、お前にこう言うためだ」。ヴェルフェディリオは、レクエラートへ深々と頭を下げた。セクエンツィアが「ヴェリオさま!」と制そうとするのに構わず、ヴェルフェディリオはこう言った。





「レクエラートお義兄さん。妹さんを、俺に下さいッ!!!!」





 カンタビレ邸が、揺さぶられた気がした。セクエンツィアは、主の言ったことが理解できなかった。1フレーズずつ、噛み砕くように繰り返す。

 お義兄さん。
 妹さんを、
 俺に下さい。




「ふ…ふぇえええええええっ!!??」
「俺もこいつと同じだ!騎士としてじゃない、従者としてでもない!セツィ以外の誰でもダメだ!セツィがいい!セツィがいないとダメなんだ!それは、セツィが俺の騎士だからじゃない。俺が、」




 ヴェルフェディリオは、





「俺が、セツィのことを好きだからだッ!!!!」





 カンタビレの中心で、そう叫んだ。




 レクエラートは、ヴェルフェディリオの告白を黙って聞いていた。口を開く。「それは、セクエンツィアを伴侶として迎えたい、という言葉と受け取って構いませんな」。ヴェルフェディリオは頷く。「その通りだ」。レクエラートは思案するように、目を伏せた。そして次に、セクエンツィアに視線をやった。



「セクエンツィア。お前の意志を聞こう」
「…わ、わたし、ですか?」



 どきり、とセクエンツィアの胸が一際強く鼓動する。わたしは。燭台の火が揺れている。揺らぎそうになる足。だが、隣にはヴェルフェディリオがいた。いつだって。今だって。  彼が隣にいるなら、セクエンツィアは怖いものなんてない。「…わたしも、」だって、それだけでセクエンツィアの中で勇気が湧いてくるのだ。





「…わたしも、ヴェリオさまが、大好きです」






 目の前の薄闇が切り払われるようだった。「お願いします!」セクエンツィアもまた、頭を下げる。兄に向かって。
 レクエラートの、片方だけ残された菫色がふたりを見ていた。そして、幾つもの目がそれを見ていた。闇に蠢くひかりが、幾つも、幾つものひかりが、レクエラートの答えを待っていた。
 レクエラートは右目を閉じる。銀の睫毛が震えて、彼は目を開いた。そして、彼は踵を返す。彼は一言だけ、口にした。それは、了承であった。




「好きにしろ」




 ふたりは面を上げる。顔を見合わせて、そしてまた頭を下げて、何度も頭を下げて、ありがとう、と言った。既に姿を消したレクエラートには、届いているかさえ分からなかった。そして、ヴェルフェディリオはセクエンツィアを抱きしめた。これまで触れられなかった宝物に、ようやく彼は触れることができたのだ。



「…愛してるよ、セクエンツィア」



 苦しいくらいの抱擁に包まれて、セクエンツィアは自分もヴェルフェディリオの背中に腕を回した。わたしもです。そう溢れるように零した言葉は、どちらともない口付けに吸い込まれた。





「レクエ兄様、泣いてもよかったのよ?」

 謁見の間を後にしたレクエラートに、静かに声が振った。振り向いた先に、ひとりの女が立っていた。妹と同じ美しいウェーブを描く金糸の髪、そして菫色の瞳。「見ていたのか、キリエ」とばつが悪そうにレクエラートが零した。「ええ」、キリエと呼ばれた美しい女は、とろけるような笑顔を浮かべた。

「昔から、セクエのことを可愛がっていたものね。カンタビレの毒に染まり切ってしまわないよう、いつだって守ってくれていた」
「そんなことは、していない」
「嘘ばっかり。だったら私に母様の代わりなんてさせてくれなかったわ」

 セクエンツィアの実姉にしてレクエラートの双子の妹、キリエはくすくす笑った。セクエンツィアを生んで亡くなった母の代わりに、妹の世話をキリエに任せたのはレクエラートだった。彼は、生まれつき身体が弱く、『七天兵』にもレヴァーテインにも足りない、カンタビレの失敗作とでも呼ぶべき身であったキリエを救い、カンタビレ以外の何者になる筈もなかったセクエンツィアに情愛を与えたのであった。それは、カンタビレの檻から出ることの叶わぬ自分とキリエの代わりに末妹を人間として育ててやりたいという意志の表れかもしれなかった。自分は既にカンタビレに染まり切ったが故に、キリエはままならぬ身体のために。
 キリエは、決まり悪くそっぽを向いたレクエラートの頬に手を当てた。「怒らないで、兄様?」レクエラートは、「怒ってない」、と口を尖らせた。キリエは兄に微笑んだ。水面のように澄んだ微笑みであった。



「…幸せに、なれるといいわね。セクエ」



 キリエが、囁くようにそう言った。レクエラートは、そうだな、と短く言った。彼は頬に寄せられた妹の手を取り、やんわりと握った。妹もまた、それを握り返した。
 一対と片目だけの紫紺が、道の先を見据えていた。そこには、薄暗い廊下がどこまでも続いているだけだった。末妹の見た海と空は、見えなかった。




Tuba mirum
Z