「お母さんは?」
女の子が、父親と思しき男に手を引かれている。薄ぼんやりとした父親の輪郭が、どんな感情を乗せているのかは伺えない。女の子は不安げに父親に語りかける。だが、父親は答えない。
小さな女の子。彼女はまだ知らないけれど、ガルディオスの金と、フェンデの青を持ち合わせた少女。ああ、あれは、あの子は、
わたしだ。
「ねえ、お母さんは?」
彼女の傍に母親はいない。自分と良く似た妹も、祖母も、誰もいない。いるのは応えぬ父親のみ。父が彼女の手を引く。少女は成す術もなく連れられて行く。
見渡す限りの白。
溢れだすような緑。
輝くばかりの青。
わたしは、ホドと出会った。
コクマチュンチュンが鳴いている。あらゆるものが朧気だった視界が晴れて、見慣れた白い天井が目に映る。ナイマッハ邸、寝室である。
夢。
マトリカリア・クラン・ナイマッハは仰向けのままふっと息をついた。昔は、あの夢を見た後は理由もなく泣き出したくなったものだった。その度にユリアナやジグムントを怯えさせて。泣かないですむようになったのはいつからだったろう。あの夢を見ても、不思議とホドで迎える夜明けのような澄んだ気持ちで目覚められるようになったのは。
「おはよう、マティ」
瞬間、マトリカリアの視界を覆ったのは、ぽんにゃりとした能天気な笑顔である。細められた目元から漏れ出す、碧空の如き瞳の光。窓から入る優しい日差しを受けて透ける白銀の髪。
今日はお寝坊さんだね。彼が目を細め、マトリカリアだけに与えられた碧空が見えなくなる。現れたのは、それ自体が太陽のような柔らかな微笑み。光を放つようにそれは輝いていた。マトリカリアは、くすりと笑ってそれに返した。
「おはよう、アル」
彼、アクゼルスト・テオラはまた笑う。そしてマトリカリアの唇に彼の唇が合わせられた。口付けが終わると、ふたりは秘め事をした子供同士のようにくすくすと笑った。
ナイマッハ邸の食卓には、既に朝食の用意が整っていた。「おはようございます、マトリカリア」とマトリカリアがナイマッハ家の籍に入ってから敬称をやめたペールギュント、「おはよう、お母さん!」と元気に長男メルトレム。今日はお寝坊さんだね。そう笑うメルトレムに呆れたように笑って、「あなた、お父さんと同じことを言うのね」と言うと、静々と下げた頭を持ち上げてぷっと吹き出したメイドのうちのひとりを、もうひとりがリリア、と咎めるように名前を呼ぶ。するとリリアと呼ばれた年若いメイドが慌てて居住いを正し、マトリカリアに宛がわれた椅子を引いた。マトリカリアが席につくと、家長アクゼルストの声で朝食が始まった。
メルトレムが待ちかねた様子で飛びついたのが、ほかほかと湯気をけむらせるスコーンである。甘いものがあるとすぐに手が伸びてしまうんだから、と呆れるマトリカリアはクルミ入りのパンをちぎって口元に持っていった。その顔があんまり嬉しそうだからと言って、それを咎めないところが親馬鹿という奴なのだろう、とは分かってはいるのだが。苦笑しながら見ているアクゼルストもペールギュントも、同じ穴のカモフリャーである。甘やかされ気味の長男はというとクリームに青紫のジャムをたっぷりつけたスコーンを口に放り込み、ご満悦。食卓に背を向けて、ナイマッハ邸の厨房を任せられたメイドに興奮した様子で話しかけた。
「カスミ!これ、おいしいよ。ブルーベリーのジャムがとっても合うね」
「ふふ、それはようございました。エンゲーブから入った質のよいクロテッドクリームですからね」
穏やかで品のよい笑みを浮かべるのは、ナイマッハ邸のメイドのうちのもうひとり、カスミである。リリアの母親である彼女はペールギュントの亡き妻と同郷の友人であった縁で、マトリカリアの嫁入り後ナイマッハ家に仕えるようになった。家庭的で心優しい老メイドにナイマッハ家の子供たちはよく懐いていて、彼女もまた子供たちを実の娘であるリリアと同様に可愛がっているのであった。
そうだ、とメルトレムが思いついたように言う。「エルダも一緒に食べようよ!」、そう言って目を向けたのは、カスミの腕の中。「お行儀が悪いよ、メイ」と父が言いつけるのも聞かずに、ぴょん、と飛び降りるように席を降りて、メルトレムはそれを覗き込む。
赤子である。真っ白な産着に包まれて、カスミの腕の中ですやすやと眠る赤子の名は、エルドルラルト・ラクス・ナイマッハ。レムデーカンの月に生まれたばかりの、ナイマッハの次男坊。父親譲りの白銀に透ける生え始めの髪、碧色の瞳。メルトレムは、生まれたばかりの弟をたからもののように扱うのだ。触れたくてたまらないくせに、触れるのに躊躇する。傷つけてやしまわないかと。そのくせ、一度抱き上げると離しやしないのだ。
メルトレムが覗きこみやすいように腰を下げてやるカスミは、メトロム様のお食事はまだエルドル様にはお早いですよ、とメルトレムに言う。そっか、と素直にメルトレムは頷いて、叱られる前に席に戻った。
「メイはエルダが大好きだねえ。エルダがお嫁に行くときは大変だ」
「エっ、エルダはお嫁になんて行かせないよ!どこの『うまのほね』とも分からないやつにエルダを渡すくらいなら…ぼくがっ!!!」
「アナタ達色々と間違っていてよ。まずエルダはお嫁じゃなくてお婿ですからね。それで、メイに馬の骨なんて言葉を覚えさせたのはアナタかしら、ペールギュント?」
「…す、済みませぬ…マトリカリア…様」
「ペールギュント、アナタ、興奮した時に口が悪くなるのは昔からの悪いクセよ。ジーク様やリュートおじ様に散々言われたでしょう」
ペールギュントは返す言葉もなくホド野菜のスープをすくったスプーンを手にしたまま項垂れた。ナイマッハ邸のメイドであったツバキを妻に迎えてからは落ち着いたものの、ペールギュント・サダンと言えばホドの番犬どころか狂犬と呼ばれて恐れられた不良騎士であった。それも、ホドの主である先代ガルディオス家当主ジークフレデリカは元より、無口な先代フェンデ家当主ブリュンヒルトにまで咎められる程の。息子であるアクゼルストや友人であるペールギュントの亡き妻を通じて長い付き合いであるカスミらは慣れたものであるが、若いリリアは怖がるし、何より子供たちの教育によくない。矯正必須である。
そう息をついてティーカップを空にしたところで、リリアがあっ、と間抜けた声を上げた。ぱたぱたと足音を立てて食卓から引っ込むと、すぐに戻ってくる。その手に握られていたもの。
「マトリ様に、お手紙が届いておりましたよ」
一通の、手紙である。
マトリカリアはああ、と何の気なく返事をして、差し出されるそれに手を伸ばした。見覚えのある字で差出人の名前が書かれたそれの端っこに指が触れる。
掴む。
その瞬間、ぞくりと背中が粟立った。
ふぇ、とエルドルラルトが声を上げる。目を覚ましたのだ。エルドルラルトはカスミの腕の中でふぇええん、とぐずり始めた。お腹が空いたのだろう。既に食事を終えたマトリカリアは皆より先に席を立ち、カスミから息子を受け取った。「あなたも、ご飯にしましょうね」。そう言った声が何故だか震えていたのに、きっと夫や義父は気付いただろう。マトリカリアはエルドルラルトを抱きとる。その右手には、受け取ったばかりの封筒がある。
妹からの手紙。
悪寒の理由を分からないふりをして、マトリカリアは息子を連れて食卓を後にした。
日が陰る。窓から入るそれ以外に光を放つもののない寝室が薄暗くなる。エルドルラルトが乳を吸う。木の葉のようなちっぽけな手が母の肌に触れる。
マトリカリアはサイドテーブルに、妹からの手紙を置いた。
エルドルラルトが満足してうとうとし始めても、マトリカリアは暫くそうしていた。素肌のまま触れていると、赤子の体温がよく感じられた。マトリカリアのものとは違う体温。とくとくとか弱くも確かな鼓動。
ようやく、マトリカリアが手にした、幸福そのもの。
「…マトリカリア」
寝室のドアが開いた。マトリカリアははっとして、胸元を整える。後ろ手に扉を閉めて、きゅ、きゅ、と絨毯を踏むアクゼルスト。マトリカリアは動かなかった。腕の中の息子でも、夫でもなく、どこか遠いところを見ながらマトリカリアは口を開いた。
「…フィフュスからよ、」
サイドテーブルに開いたまま置かれた手紙。妹らしくない震えた筆跡、ちぢこまった文脈。
アクゼルストは、マトリカリア、ともう一度呼んだ。マトリカリアは彼を見る。自分を妻として迎えた男。『捨石の座』を放棄させ、マトリカリアを解放した男。
マトリカリアが選んだ、ただひとりのひと。
彼は物言わずベッドに腰かけたマトリカリアを抱き寄せた。すやすやと寝息を立て始めた息子ごとそうするように。
マトリカリアは頭を彼の胸に埋められる。マトリカリアは何も言わなかったし、アクゼルストも何も言わなかった。ただ、ずっとそうしていた。互いに伝わる体温、離れ難き体温を惜しむようにして。
手紙は開け放たれたまま、そこにある。
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