「おめでとうございます」
小太りの中年医は診断書の紙束をぱさ、と机に置いて言った。にこにこと言い表すのがふさわしい人好きのする笑顔を浮かべた彼の言葉に、彼と向かい合う位置の丸椅子に腰かけたセクエンツィア、その傍らで妻の肩を抱くヴェルフェディリオは身を固くする。ふたりを安心させるよう、医師はホドの春の日差しのように穏やかにこう言った。
「懐妊なさっておりますよ」
にこにこ笑う産婦人科医ディーマ・トラディスの言ったことを、フェンデ夫妻の妻のほう、セクエンツィアは一瞬ぴくっと肩を跳ねさせて、それから受け取った。彼女の中で医師のことばが色づいていくにつれて、セクエンツィアの表情は花弁が次第に開いていくようにぱあっ、と明るくなった。自分が母親になったことを知った少女の表情を見、ディーマも、その傍らでひっそりと佇む妻ぺルカも微笑ましく笑顔を浮かべた。セクエンツィアはぶんっと勢いをつけて主であり夫である人に頭を向けた。「ヴェリオさま!」彼女は声を手毬のように弾ませる。彼の名前を、呼ぶ。
しかし彼の、ヴェルフェディリオ・ラファ・フェンデの横顔は表情を形作るのをやめていた。
「…ヴェリオさま?」
セクエンツィアが、今度は疑念を抱いた声で彼を呼ぶ。その時ようやっとヴェルフェディリオは自分を動かし始めた。ヴェルフェディリオの、横顔が、動く。青の両目を見開いて、すぅっと息を吸い、彼は何ごとかを言おうとした。それは言の葉とはならずに無意味な音になってかすかに空気を揺らした。
それは、とてつもなく大きな歓喜に打ち震えているようでもあった。けれど、今にも泣き出しそうな表情でもあった、とセクエンツィアは思った。
「セツィ、」
吐息のような声で彼はセクエンツィアを呼んだ。そして、ヴェルフェディリオはセクエンツィアに顔を向けた。迷子のような表情がそこにあった。次の瞬間にはもう、ヴェルフェディリオはセクエンツィアのよく知るヴェルフェディリオとして彼女をがばりと抱きすくめたのだった。
「では、フェンデ家の後継ぎの誕生を祝して」
かんぱーい!と一斉に掲げたグラスがチン、と鳴って、ガルディオス邸の中庭に集まった面々が酒杯をあおった。まだ誕生してねっつの、と突っ込みたくなったのを我慢してヴェルフェディリオは本土から輸入したばかりのブラン・フォン・ブランの発泡性のある辛口の味わいが喉元を通り過ぎ、身体の中から粟立つ感覚を覚える。哀れグランコクマに参内中のジグムントを除くホド御三家の人間が揃い踏み、おまけに蒼天騎士団をはじめとするガルディオス家の使用人まで参加して真昼間から酒盛りである。この島ホントに大丈夫か、と呆れたヴェルフェディリオも酒精にかかればそんなことはどうでもよくなってしまった。この祝宴を催したのが他ならぬ主ジグムントの妻であるユージェニーであることもそれを促した。ガルディオス伯爵夫人ユージェニー・セシルは友として心通わせるセクエンツィアの懐妊を聞いた途端屋敷の人間に言いつけて酒盛りの用意を整えさせたのである。日中からテーブルを囲んで酒杯を傾けるのはホド御三家の中ではありふれた催しであるが、それをガルディオス家の使用人まで巻き込んでやってのけたものだからその朗報は大いに広められることとなり、ガルディオス家に仕える人間はおろか一般の島民までやってきて飲めや歌えやする始末である。フェンデ家当主夫人の懐妊、お祭り好きのホド島民にしてみれば格好の名目だ。ホストのユージェニーはといえば、ブラン・フォン・ブランをくいと一杯、島民たちと親しげに言葉を交わすのである。そういえばユージェニーは意外と酒類もいける口なのだ。ちなみに、ガルディオスとナイマッハの子供たちはメイド長のフライヤと午睡中である。
「皆ずるいっ、お酒なんて飲んじゃって!」
一人ぷりぷり怒っているのはセクエンツィアである。妊娠していることが分かった以上お酒は厳禁、と乾杯が済んだ途端酒杯を取り上げられたのである。20歳を迎えたばかりのセクエンツィアがはじめて酒に口付けたときの記憶がくっきり残っているヴェルフェディリオとしてはほっと胸を撫で下ろしでもしたいところである。量は飲める癖、酔っ払うと誰にでもごろにゃんと抱きつくなんて酔い方は心臓に悪い。それこそ誰にでも、ヴェルフェディリオにもジグムントにもユージェニーにもマトリカリアにもアクゼルストにもペールギュントにも、である。終いには酒の肴を運んでくる使用人にもそうするのだから。本人は酒の味を気に入って飲みたがっているのが始末が悪い。
誰もが浮かれていた。ホド御三家の中でも最後に婚礼を迎えたフェンデ家の夫婦の間に訪れた幸福を、誰もが喜んていた。拗ねたセクエンツィアを宥めようとホドの住人らが彼女を囲んで、ノン・アルコールのアップルソーダが並々と注がれた杯を差し出す。セクエンツィアがそれを受け取り口付け、お子様舌のセクエンツィアはすぐさま笑顔になった。すると周りの人間たちにもぱあっと笑顔が広がって、ガルディオス伯爵邸の庭園に見渡すばかりの笑顔の花が咲き誇るのであった。
ヴェルフェディリオは、それを少し離れたところから見ていたが、やがてそれから背を向けた。まがりなりとも宴の主賓である彼が宴の中心から遠ざかるのを顔なじみたちは案じたが、ちょいと酔っ払っちまったら、と笑みを作って返す。酔いに惑わされぬ足取りで落ち着いたのは創世暦の時代からホド島で作られ続けている花壇の白煉瓦である。庭師によって整えられた色とりどりの花、そこにはガルディオス伯爵令嬢であるマリィベルの名の由来となった花も咲いていて、健気に咲き誇るそれらはヴェルフェディリオをいつまでも俯かせてはくれない。仕方なくヴェルフェディリオは顔を上げて、遠くの騒がしさに目を向けようとした。すると、漸くヴェルフェディリオはこちらに向かってくる人影に気付いたのである。
アクゼルスト・テオラ・ナイマッハであった。酒精のせいか心なしか常よりへんにゃりした、いやこの男は常からそうだったか、笑みを浮かべて、飲みかけのブラン・フォン・ブランをゆらゆらさせてやって来たその幼馴染は「や、ベル」と空いた左手を掲げて、あっさりヴェルフェディリオの隣に腰かけた。う、と一瞬厭そうに顔を歪めたのをきっと彼はちゃんと分かっているだろうに、アクゼルストは能天気な笑顔のままグラスを揺らしているのだった。
「改めて、おめでとう、ベル。ジグムントもきっと喜ぶ」
「ベルやめろっつの。はは、奥方様が鳩を飛ばしたって言うから、あいつ悔しがってるだろうな。本当は一番にセツィを祝ってやりたいだろうに」
「それにしちゃ、君はひどい顔をしているけれど」
アクゼルストはのんびりとした声のままでそう言った。ヴェルフェディリオの手の中で、ブラン・フォン・ブランの水面が揺らいだ。見透かされたような気がして表情が固まる。うまく動かなくなったそれを、無意識に空いた左手で触れていた。
「俺、ひどい顔か?」
「ああ、世界一幸福な男だとは思えないくらい」
「世界一、幸福な男?」
「そうさ。『父親』っていうね」
アクゼルストは、碧空を狭めて笑う。
父親。
アクゼルストが言った言葉を反芻する。ヴェルフェディリオは、自分とセクエンツィアの間に子供が生まれるのだと分かってもうまく実感が持てなかった。ジグムントとユージェニーの、アクゼルストとマトリカリアのもっているような存在を己も持つことになるのだ。それをセクエンツィアは喜び、周囲も喜んでいる。なのに、自分はどうだ。騒ぎから遠ざかりこんな所で座り込んでいる。自分は一体、何をしているのだろう。
「…父親」
ヴェルフェディリオは、今度は声に出してそう言った。アクゼルストがグラスを揺らしている。ブラン・フォン・ブランの水面が揺らぐ。ゆうらり、と、揺れる。
ヴェルフェディリオはほぼ無意識に、口を開いた。
「アクゼルスト」
お前さ、
「世界と、自分の子供を天秤に掛けるなら、どっちを取る?」
しん、と、騒ぎから切り離された静寂が落ちた。それは一瞬だったかもしれないし、もっと長かったかもしれない。アクゼルストは笑った。笑って、こう答えた。
「子供」
ヴェルフェディリオは、くっ、と口元を歪めた。「即答かよ」。そう笑えば、「当然さ」とアクゼルストが返した。
「君だって、分かるだろう?父親になったんだから」
「…分かんねーよ、まだ父親になってねえし。妊娠したって分かっただけなんだぜ?」
「それは違うな」
アクゼルストは杯をあおった。ごきゅ、と喉仏が上下して、白の発泡ワインが彼の中に流し込まれる。そして彼は唇からグラスを離し、ぷはぁと吐息を漏らした。
「君とセクエンツィアの息子か娘は、既にセクエンツィアのお腹の中で息づいてる。君は、それをまだ『いないことにできる』と言うのかな?」
グラスに浮き上がる気泡のように、アクゼルストがぽつ、ぽつと口にした。ヴェルフェディリオは、目を上げていられなくて俯いた。
だから、アクゼルストの表情から笑みが消えたのに気付かなかった。
「…もし、世界が僕の子供たちの生きることを許さないとしたら」
その眼差しは、鷹の如く世界を睨め付ける。
「僕は、世界に刃を向ける」
例え、どんな預言がその上にあったとしても。
ヴェルフェディリオは、ゆっくり頭を持ち上げた。自分の肩に凭れかからせるように首を傾げて、アクゼルストを見る。「怖い男だな」。アクゼルストはへんにゃりとした笑顔だけを返した。
「…だから僕は、彼女を否定しない。彼女の選択を、受け入れる。だから…」
アクゼルストがそう、呟いたのを、ヴェルフェディリオは聞こえなかった。
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