フェンデ夫妻の懐妊を祝う酒宴から一夜明けた昼過ぎのこと、ナイマッハ邸で働くメイドのうちのひとり、リリアはナイマッハ当主夫妻の寝室へやってきた。母であるカスミが夕食の買い出しに行っている間に掃除を済ませてしまわなければならない。5年前、母に連れられてホド島を訪れたときからのリリアの日課である。
 今日は、酒宴に交じれなかったナイマッハとガルディオスの子供たちのためのお茶会で、ナイマッハ家の人間はみんな留守にしていた。ナイマッハにガルディオス、フェンデの人間はみな高貴な身分をもつ選ばれた人間だが、驚くほど平民に気安い。きっとナイマッハとガルディオスの子供たちだけではなくて島民の子供たちをも招いた楽しい集まりになっているのだろうと思うと、まだ年若いリリアは少しだけ羨ましい。いけないいけない、とリリアはぶんぶん首を横に振った。早く掃除を片付けてしまわないと。夫婦の寝室は幼いエルドルラルトのベビーベッドも置かれているから、一層気を遣わないといけない。さあ、手を動かさなければ。
 と、ベッドメイキングに取りかかろうとしたリリアの目が捉えたものがあった。それは、夫妻のベッドとサイドテーブルの隙間に落ちていた。きっとサイドテーブルに乗せられていたものだ。何だろう、と思ってリリアはそれを拾い上げた。

「これ…手紙だわ」

 それは、一通の手紙だった。開け放たれたまま、サイドテーブルから滑り落ちたのだろうそれに、リリアは見覚えがあった。あのときの、昨朝届いた封筒と同じ紙だ。そこにはマトリカリアと良く似た字で何ごとかが綴られていた。

「ああ、ダメ…!」

 いけない、見てはいけない。早くそれをサイドテーブルの上に戻さなければ。リリアの中で警鐘が鳴った。だが、リリアはそれを拾い上げてしまった。リリアのオレンジがかった茶色の瞳が震えた筆跡を追ってしまった。まるでなにものかに導かれているようだと彼女は思った。
 そして、彼女はそこに書かれていた事実に目を見開いた。





「ヴェリオさま」

 セクエンツィアが、主であり夫である人を呼んだ。彼女の手を引くヴェルフェディリオは、「ん?」と返事をして視線を落とした。太陽が傾きはじめた頃、ふたりは一足早くガルディオス伯爵邸のお茶会から暇を乞うたのであった。セクエンツィアは妊娠が分かったばかりで安静が必要だと医師に言われていたし、二日続いた祝宴でふたりは少しばかり疲労していた。心地の良い疲労感はふたりの足取りを緩やかにした。ガルディオス伯爵邸からフェンデ邸までの道を、ふたりはいつもより少しだけ遠回りをして、いつもより少しだけゆっくりと歩いた。セクエンツィアは鈴を鳴らすような声で言った。

「わたしに、隠しごとしてますか?」

 セクエンツィアの菫色の瞳が、ヴェルフェディリオを見ていた。見つめ合うふたりの間で、短い静寂があって、それからヴェルフェディリオは笑って「してないよ」と言った。するとセクエンツィアは、空いた左手を持ち上げて主を夫の鼻のてっぺんをつん、と人差し指で小突いた。



「嘘」



 りん、とちいさな鈴が鳴ったようだった。ヴェルフェディリオは口を閉ざして、先程とはどこか違う静寂を纏った。まるでホドにふたりきりでいるようだった。それから、ヴェルフェディリオは口元を歪めた。ごめんな。そう、哀しそうに、ヴェルフェディリオは微笑んだ。セクエンツィアは、しばらくそれを見つめていたけれど、ふっと視線を外す。それからふたりは物言うことなく歩いた。ふたりの上で譜石帯がいつものようにホドの空に浮かんでいた。





 ふたりがナイマッハ邸の前を通りかかったとき、ヴェルフェディリオが視界に捉えたものがあった。それは、窓の向こうのナイマッハ邸の居間にいた薄桃色の髪の少女だった。あれは、確かナイマッハ邸で働くメイドの内のひとりで、名はリリア。キムラスカはラーデシア大陸のホドと由縁ある集落から、マトリカリアとアクゼルストの結婚後まもなくやってきた母子の、娘のほうだ。窓から覗いた彼女の様子は常ならず、おろおろとどうしていいか分からない様子で室内を行ったり来たりしていた。「リリアだ」とヴェルフェディリオが言ったときようやくセクエンツィアがヴェルフェディリオの見ているものに気付き、ほんとう、と漏らした。「どうしたんでしょう」。セクエンツィアと同じく、疑問を抱いたヴェルフェディリオは、軽い気持ちでナイマッハ邸の門をくぐってその扉を叩いた。
 しばらくすると、キィと音を立てて扉が開かれた。リリアである。「フェンデ様!」、大人しげな印象だったその少女の表情は、短い眉を寄せて不安げに歪んでいた。どこかおどおどとして、何かを恐れているようだった。ヴェルフェディリオは年若いメイドに問いかけた。

「リリア、だっけ。どうした。何があった」
「あ、あの、私…っ」

 リリアの声は震えていた。その時、ヴェルフェディリオは彼女の右手が一枚の紙を掴んでいることに気付く。

「何だそれ…手紙、か?」

 はっとしてそれを背後に隠したリリア。ヴェルフェディリオは常ならぬものを感じて、セクエンツィアの手を離してリリアの背後に回り込んだ。「ああっ」、と少女メイドが短い悲鳴を上げる。見せて、とヴェルフェディリオが言ったのを、少女は逆らわなかった。震える手でヴェルフェディリオの掌に手紙を置いた。
 ヴェルフェディリオは両手でそれを広げる。自分も目を通そうとこちらに来ようとしたセクエンツィアを、ヴェルフェディリオは直感的に制した。



「妹様の…フィフュス様からマトリカリア様に宛てられた手紙で…っわ、私、マトリカリア様のお部屋で見つけてしまって…っ!」



 レヴァーテインが第5席(アルクメネー)、フィフュスの筆跡で綴られた手紙を目で追いながら、ヴェルフェディリオは少女の震える声を聞いていた。ヴェルフェディリオは手紙を読み、目を見開いた。大きく揺れる青の瞳で、初めから終わりまで何度も目を通した。何度も何度も、目を通した。そこに書かれる事実は変わらずそこにあった。




「…嘘、だろ」




 ヴェルフェディリオは、手の中のちっぽけな紙切れを握り潰さないようにするのに必死だった。皺をつかせないよう、戸惑うメイドにそれを手渡した。踵を返す。「ヴェ、ヴェリオさま?」セクエンツィアがヴェルフェディリオを呼んだ。ヴェルフェディリオは、先に帰っているように、とだけ言った。ヴェルフェディリオはナイマッハ邸を後にする。
 自分を動かしているのが何であるか彼は分からなかった。
 ただ燃えたぎるどす黒い炎が彼を逸らせた。
 ヴェルフェディリオは港へ向かった。

 行先は、フェレス島である。





 嵐の予感がする空だった。フェレス島に到着するとすぐさまヴェルフェディリオはカンタビレ邸に足を向けた。カンタビレ邸の荘厳なる門をくぐれば、不気味なほど静かな空間がそこにあった。屋敷全体から発せられるように思える、ざわざわ、と虫が這いずるような不快なざわめきを、ヴェルフェディリオは物ともせず歩いていく。ヴェルフェディリオは、来訪者を拒む屋敷の内部へ続くばかでかい扉の前で立ち止まった。程なくして、ぎぎ、と耳障りな音とともに誰ともなく扉が開かれた。ヴェルフェディリオは疑問すら抱かずに歩みを再開した。  カンタビレ邸の薄暗い廊下を歩く。譜業灯はなく、廊下の両脇に規則的に設置された燭台だけが屋敷の内部を照らしていた。相変わらず、悪趣味な館だ。反吐が出る。ヴェルフェディリオは足早に廊下を通り抜けた。
 辿りついたのは、謁見の間である。その日は丁度、七天兵の定例会議が開かれる日であった。奥義会と異なり、七天兵の定例会議は盟主であるフェンデ家当主は出席しない。それは総括者であるカンタビレ家の『エルレ・アルハ』こそが七天兵の主であるとも言いたげな習わしだった。

「…よお、『七天兵』」

 玉座に座る『エルレ・アルハ』、セクエンツィアの父に当たる男のその姿こそ、それを如実に示していた。ヴェルフェディリオの声に、謁見の間に集う七天兵の面々が一斉に彼のほうを向いた。驚愕を浮かべた顔も、無表情の顔もあったし、嘲るような暗い笑みを浮かべた顔もあった。ヴェルフェディリオの中でどす黒い炎がめらめら燃えていた。彼は玉座の『エルレ・アルハ』を見据えて言った。

「…どういうことだ」

 ヴェルフェディリオの声は、混沌の奥底から響くような声をしていた。聞いたことのないようなその声。
 彼は、これ以上ない程に怒りに身を震わせていた。





「レクエラートとキリエの…あの兄妹の間に子供が生まれた、だと!?」





 それは、咆哮であった。びりびりと、カンタビレ邸を怒れるヴェルフェディリオの咆哮が揺らした。居並ぶ『七天兵』の面々の中で、ひとりが堪え切れず俯いた。老齢のアエル家当主の名代として出席する、フィフュス・アエルである。
 フィフュスからマトリカリアへ宛てられた手紙。そこに書かれていたのは、マトリカリアが定期的に義弟であるレクエラートに送っていた手紙の、返事が来ない理由だった。

 レクエラートとキリエが、預言に従って結婚した。
 そして、ふたりの間に子供が生まれた。
 出産後間もなく、生まれつき身体の弱かったキリエは死に、レクエラートだけが残された。彼は絶望の淵にあり、手紙を書ける状態ではないのだ、という次第が書かれていた。

 そして、もう一つ。

「…てめえらが次にイケニエにしようとしてるのは、」



 マトリカリア・クラン・ナイマッハ。



 フェンデ傍流であるアエル家のもつフェンデの血と、先代ガルディオス家当主ジークフレデリカの実兄であるアレイスターのガルディオスの血を受け継ぐ彼女を、カンタビレ家がレクエラートの後妻として手にしようとしている、ということだった。



「…始祖ユリアの子孫でありてめえらの盟主たるこの俺に黙って、よくもこんなことを仕出かしてくれたな、『七天兵』さんよぉっ!?」



 静寂が、謁見の間に落ちる。ヴェルフェディリオの激昂が引き裂いたそれが、忍び寄るように再び訪れる。ここにいないレクエラートに、この気が触れるような屋敷のどこかにいる筈のレクエラートに、この言葉が届くとはどうしても思えなかった。静寂にそれを肯定された気がした。言い表しようのない感情がヴェルフェディリオを揺るがしていた。ただヴェルフェディリオは立ち尽くしていた。
 そのとき、静寂の中で、くすくす、と笑い声が聞こえた。くすくす。くすくす。誰が笑っているのか、ヴェルフェディリオには分からなかった。薄暗い笑みを顔に張り付けたカンタビレ=ジュエ家当主パルティータかもしれなかったし、ニタニタと不快な笑みを浮かべているマッドサイエンティストのクラックス家当主ゼノビアかもしれなかった。それとも、グレニール家当主である姉の名代としてやってきたナリスサッガにエッダナルヴィナの双子の美少年らか。固く口を引き結んだフランシア家当主の豪傑メタトロウン、ブルネッロ家当主の超剣士ブルネッロか。ヴェルフェディリオは動けなくなる。笑い声は止まなかった。密やかに、囁くように、嘲りを込めて。



「貴公はひとつ、勘違いをしておられる」



 玉座の『エルレ・アルハ』が口を開いた。恐ろしい程若く美しいその男の声は老爺のようにしわがれ、嫌という程違和感を抱かせられる。七天兵が総括者、『エルレ・アルハ』は荘厳さを纏って言った。

「我ら『七天兵』が使命は、我らが崇拝する始祖ユリアの遺産―――即ち、我らが崇拝する始祖ユリアの血、記憶、預言を永劫守り続けることなり」

 それそのものが預言のような、『エルレ・アルハ』の言葉に、居並ぶ『七天兵』のメンバーが、是、と頷く。カンタビレ=ジュエも、フランシアも、トロメアも、クラックスも、アエルも、グレニールも。ここにいないカンタビレ=ダアト以外の全員が、皆。

「我らが主は貴公ではない。貴公の中に流れる、我らが崇拝する始祖ユリアの血。それこそが我らが守るべきもの。貴公である必然性はないのだよ、ヴェルフェディリオ・ラファ」
「て、めえ」
「若し貴公が我らが崇拝する始祖ユリアの至宝の遺産たる預言を歪めることがあれば、仮令(たとい)フェンデ家当主たろうとも死は免れない」



 『エルレ・アルハ』は、歪んだ笑みを浮かべた。




「それは、貴公がよぅく御存知であろう?」




 ヴェルフェディリオは目を見開いた。
 かちかちと、奥歯が合わさって音を立てる。ああ、俺は、震えているのだと彼は思った。ぶるぶると全身が震えて、どうにかなりそうだった。いや、もうどうにかなっているのかもしれなかった。その場に膝をついてしまいたかったけれど、彼のひとかけらの矜持がそれを許さなかった。




 貴公が、よぅく御存知であろう―――




 ヴェルフェディリオの脳裏に、甦る風景。フェンデ家の秘められた地下空間。永遠に続くかと思われる長い階段。フェンデ家と七天兵にだけ、立ち入ることを許された場所。七番目の預言と共に安置された幾星霜の譜石。人間ひとり分の大きさの譜石。俺の人生全てがそこに記されていた。父の後ろ姿。ヴェルフェディリオの譜石を読み上げて、それを砕いた父。不器用で、口下手な親父の微笑みに驚いた。次の瞬間、親父の身体を光が撃ち抜いた。砕かれた譜石の欠片がぱらぱらと宙を舞って、それがやたらと綺麗で、光弾を放ったノクトゥノーンの手のひらが震えていた―――



「ノクトゥノーン」



 ヴェルフェディリオの声はこもり切って、うまくがらんどうの屋敷で反響を生まなかった。痛みを堪えるように身体をくの字に曲げたヴェルフェディリオは、玉座に座る『エルレ・アルハ』を、父の第4席であったころの名前で呼んだ。



「俺とセクエンツィアの結婚を許したのも」

「レクエラートとキリエを望まない形で番わせたのも」

「セクエンツィアでもフィフュスでもブルネッロでもなく、マトリカリアをレクエラートの後妻に選ぶのも」

 全て、預言の通りか。

 項垂れたヴェルフェディリオの上で、ノクトゥノーン・カンタビレ=ダアトは、いや、『エルレ・アルハ』は、その通りだと言った。



「疾く、去られよ。フェンデ家当主ヴェルフェディリオ・ラファ。此処はカンタビレの領域であるぞ」



 それが『エルレ・アルハ』の告げた最後の言葉だった。




 どうやってカンタビレ邸から出たのか分からない。気付いた時にはホド行きの定期船に乗っていた。ヴェルフェディリオはただぼんやりと甲板に立っている。薄暗い空と海には美しい青や蒼や碧なんて見つけられなかった。そんなもの、何処にもなかった。



「…預言」



 ヴェルフェディリオの唇が、そう動いた。
 それは、ほんの少し声帯を震わせただけの音だったけれど、確かに音となって発現した。
 そのとき、ヴェルフェディリオの中でひとつの箍(たが)が外れた。




「預言預言預言預言預言預言預言預言預言ッ!!!!」




 だんッ、とヴェルフェディリオは甲板の手すりに拳を叩きつける。


「…畜生ぉっ…」


 項垂れたヴェルフェディリオは、絞り出すような声でそう言った。上空の譜石帯は変わらずヴェルフェディリオの上にあった。



Rex tremendae W