「ND1965、フェンデが長子誕生す。名を枯らん声と称す」
父の背丈と丁度同じくらいの預石が、父の第七音素に反応して光る。父が詠み上げるものが何であるか俺には分かっていた。
それは、俺自身の預言だ。
既に記された、俺の歩む軌跡そのものだ。
「ND1990、枯らん声、自らを守るものを妻とする。名を終わりなき歌と称す」
父は淡々と口を動かす。今の自分とよく似ていた低音。光を放つ譜石と父の背中。それを後ろから見ているだけの俺は、親父の背中が光に包まれているように見えた。
「ND1991、ローレライの月。フェンデが長子誕生す。名を栄光を掴む者と称す。彼はフェンデを継ぐ最後の者である」
え、と幼いヴェルフェディリオは目を見開く。
父は何と言った。栄光を掴む者。顔も知らない俺の息子。そいつがフェンデ家の最後の後継者。
「彼は後に、自らが生まれた島を滅ぼすであろう」
父は確と、そう詠み上げた。
嘘だ、とヴェルフェディリオは震える声で口にした。俺の、俺の息子が、ホドを滅ぼす?そんなことは有り得ない。有り得る筈がない。嘘だ。そんなのは嘘に決まっている。
だが、それは預言だった。
始祖ユリアが示した未来だったのだ。
「うそだ…」
ヴェルフェディリオは頭を抱え込んでその場にくずおれた。嘘だと父に言って欲しかった。こんなのはお前の未来ではないと。だが父はそう言わなかった。ただ、「ヴェルフェディリオ」と息子の名を呼んだ。吃驚するくらいに心を安らがせる声だった。
父が振り向く。
無愛想な父が、俺に微笑む。
「ヴェルフェディリオ」
父が俺を呼んだ。
父の腕の一振りで打ち砕かれた俺の譜石。
その瞬間、父の身体が光に撃ち抜かれる。
「…預言を」
そこから先は聞こえなかった。
鮮血とともに父が崩れ落ちた。
定期船がホドに到着したことを知らせる汽笛がうるさいくらいに鳴っていても、ヴェルフェディリオは手すりに体重をかけて突っ伏しているままだった。甲板にいる彼にはその音は耳がどうにかなるくらいだったが、耳を塞ぎもしなかった。それどころか、何もヴェルフェディリオはしようとしなかった。まばらな乗客がホド島に上陸するのも、船員が何やら叫んでヴェルフェディリオに下船を促すのも、ヴェルフェディリオを動かせなかった。耳は彼の周りで発せられる音を確かに捉えていたが、それだけだ。彼の身体は外界に触れてはいるけれど、彼の内面に作用しない。ただ視界だけは、目の前の現実から目を背けるように手すりに突っ伏して閉ざしていた。
「…リオ…」
声が聞こえる。誰の声だろう。自分の名前が呼ばれているような気がしたけれど、気のせいだろう。ヴェルフェディリオは俯いたままだった。過去も現在も未来もが一緒になって、自分が今どこに立っているのかすら分からない。預言の下では全てが同じことだ。譜石に刻まれたことが全てなのだから。何も意味がない。セクエンツィアと結婚することが既に預言に詠まれていたことも、子供を産むことも、その子供が何者であるかということも、
「ヴェルフェディリオッ!!!!」
はっとして顔を上げる。耳朶を打った声はマトリカリア・クラン・ナイマッハのものだ。叱咤じみたそれに、一気に現実に引き戻される。眼下のホド港に声の主であるマトリカリアがいて、彼女らしくない焦燥が表情に浮かんでいた。「マトリカリア、」と呆けた声で彼女の名前を口にすると、彼女はいよいよ怒りを込めて叫んだ。
「一体何処へ行っていたの!?早く下りてきなさい!!」
「な、何かあったんです、か?」
「セクエンツィアが、」
「え、」
セクエンツィアが、倒れたのよ。
ヴェルフェディリオの世界がぴたりと静止する。次の瞬間、ヴェルフェディリオは甲板から飛び降りた。十数メルトル近い高さから第三音素の力を利用してひらりとマトリカリアの正面に着地する。音素の操作には何の問題もなかったのに身体が震えていた。マトリカリアの導くままにホド港を後にした。
「セツィっ!!」
トラディス医師の個人病院の病室に駆け込んだヴェルフェディリオは妻の名を呼んだ。聞いた途端、人懐っこい笑みを絶やさかったディーマが険しい顔つきで「お静かに!」と叱り飛ばす。はっとしたヴェルフェディリオは、港から走り続けて乱れた息を整えながら、冷静に辺りを見回した。ふいと目を手の中のカルテに戻したディーマ、現れたヴェルフェディリオに驚いた様子でびくりとしたぺルカ、涙に潤んだ瞳のユージェニー、彼女の腕の中で震えているマリィベル、戻って来たマトリカリアの肩を抱いたアクゼルスト、彼に抱かれたエルドルラルトと父に縋りつくメルトレム。小さな個人病院の二つ三つしかない病室の内のひとつであるその部屋は一杯だった。
その病室の奥に、ベッドに横たわるセクエンツィアがいた。
「セツィ、」
主治医の言葉を思い出して口元を覆う。それは手のひら越しに空気のような音を吐き出した。清潔なベッドに横たえられたセクエンツィアは、ぴったりと目を閉じていて、いつもばら色に色づく頬は青白く生気を失っていた。わずかに開いた唇からひゅーひゅーと酸素が取り入れられるものの、心なしかそれは苦しみを伴っていた。ホドを発つ前に見た姿とは全く違った、変わり果てたセクエンツィアの姿に、ヴェルフェディリオは驚いた。駆け寄ってその手を取ることすらできなかった。ヴェルフェディリオは動けなかった。
「フェンデさんに、お話があります。他の皆様はここで、奥様の様子を見ていて差し上げて下さい」
陰鬱な沈黙を破ったのは、産婦人科医のディーマだった。小太りの男が席を立ち、助手役の妻を伴って病室を出ていくのにヴェルフェディリオも従った。ユージェニーが、マトリカリアが、アクゼルストが、マリィベルが、メルトレムが、ヴェルフェディリオを見ていた。目を合わせていられなくて、足早に病室を後にした。
連れてこられた診療室で席についた途端、ヴェルフェディリオはすぐさま話を始めようとした。今まで体験したどんな時よりも、自分が焦っているのが分かった。がたりと椅子を鳴らしてディーマに噛み付いた。
「トラディス先生、あいつに…セツィに何があったんですか!早く教えて下さい!」
「落ち着いて下さい、フェンデさん」
「落ち着いていられるかよ、俺の妻の話なんだぞ!!!」
心臓が早鐘を打っている。まだ呼吸が収まらない。険しくも冷静な表情でヴェルフェディリオを見つめる中年医に、ヴェルフェディリオは大人しくがたんと椅子に座り直した。ディーマは頷いて口を開いた。
「奥様は、大変危険な状態です」
どくん。
と、胸が大きく鼓動する。
ヴェルフェディリオは、辛うじて「原因は、」と聞いた。すると、医師は言い辛そうにそれは、と一瞬口籠って、こう告げた。
「お子さんです」
ど、くん。
「初産には有りがちなことなのですが」と助手のぺルカが引き継いだ。「お腹の赤ちゃんがセクエンツィアさんの負担になっているんです。母親となる女性には誰もが強いられる負担ですが、彼女の場合はそれが重すぎるんです」。一児の母である彼女の口調は淡々としていながらも同じ母親となる女性への労わりの感情が滲んでいた。ぺルカはこう続けた。
「命を危険に晒す程に」
ディーマが深く、頷いた。ヴェルフェディリオの中でふたりの言葉ががんがん反響する。母親。赤ん坊。負担。重すぎる。
死。
セツィが、死ぬ。
「…腹の子のせいで、ってことですか」
俯いたヴェルフェディリオが零した言葉に、ディーマは一呼吸置いて、「覚悟はしておいて下さい」と言った。
「お子さんを諦めなければいけない事態も、有り得ます」
医師は、そう告げた。奥様とよく話し合うようにと彼は言って、カルテを診療机の上に置いた。
診療室に残ったふたりを背に一人病室に戻ると、ユージェニーら二家の人間はヴェルフェディリオを気にかけながらも病室を出て行った。ユージェニーに促されたマリィベルは、部屋を出る直前、ヴェルフェディリオに縋りついた。「ヴェリオ、セクエンツィア、死んじゃうの?」マリィベルの蒼い瞳が涙に濡れている。ヴェルフェディリオは、ヴェルフェディリオは、彼女の頭に手のひらを乗せて、撫でてやることしかできなかった。
「しなないよ」
そう言った自分の言葉に、反抗するものがいる。それは、自らの内から響く声だ。
例え死ななくても、お腹の子が生まれれば。
皆、
「マリィ、行くのよ、」と母に再度促され、マリィベルは部屋を出て行った。ヴェルフェディリオの言葉は彼女に何の安心ももたらさなかったようだった。傍にいておあげなさい、とマトリカリアが去り際に残した言葉のままに、いや、それに従ったと言うよりは自分から取り縋るようにして横たわるセクエンツィアの手を取った。その手は驚くほどに冷たかった。
この子の手はこんなに細くて頼りなかったか。ヴェルフェディリオには分からなかった。これまでヴェルフェディリオが手を取ればすぐに握り返してくれた愛しい握力はどこかに消えてしまった。この子を支えているふりをして、本当に支えられていたのは自分だったのだ。それに今さら気がついた。騎士として従者として妻として、セクエンツィアはヴェルフェディリオを支え続けてきたのだ。
それが、
いなくなる。
死んでしまう。
いや。違う。
例えセクエンツィアが無事にお腹の子を産んだとしても、その子は。
この島を、ホドを滅ぼす。
ホドが滅ぶ。ヴェルフェディリオを生み育んだこの島がなくなるということは、今ヴェルフェディリオが手にしている全てが跡形もなくなくなるということだ。ホドがなくなるということは、ホドに住まうあらゆる人々がいなくなるということだ。ジグムントも、ユージェニーも、マリィベルも、ペールギュントも、アクゼルストも、マトリカリアも、メルトレムも、エルドルラルトも、
セクエンツィアも、
『栄光を掴む者』自身も。
死ぬ。
「………」
ヴェルフェディリオは病室の床に膝をついていたが、ゆらりと火が点されたように立ち上がった。ヴェルフェディリオの右手に閃光が走る。超高密度の音素が収束し、ヂヂヂと本来人間には聞こえない超高音が鳴る。目を閉じたままのセクエンツィアの、彼女の孕んだ子の上で、光が満ちる。
預言の子さえ、居なければ。
振り上げた閃光の右手を、
ヴェルフェディリオは、振り下ろすことができなかった。
「あ、」
シュン、と風が凪いだような音を立てて、超高密度の音素が一瞬で離散する。ヴェルフェディリオは光の消えた手のひらを見た。『神の右手』と謳われる至高の手。ホドを守る誇り高き栄光の銃士の手。
この手は今、何をしようとした。
「あ、あ、あぁああああああぁあああ、」
ぶるぶると手が震えている。
この手は、この手は、
「うわぁああぁああああぁぁあああああっ!!!!????」
俺とセクエンツィアの子を、殺そうとしたのだ。
病院を飛び出してから、自分がどうしたか分からなかった。あても無く歩き回ったかもしれないし、船に乗ったかもしれないし、空を飛んだかもしれなかった。雨が降っていて、ヴェルフェディリオは頭からずぶ濡れだった。ごめん。ごめんな。ごめんよお。ぶつぶつとそればかりを繰り返した。このまま消えてしまいたかった。だがそんなことはできなかった。何故なら俺の死はまだ預言に詠まれていないからだ。
「…アナタ、ヴェルフェディリオ?」
驚きを孕んだ声がそう言った。呼ばれたのが自分の名前であることを、ヴェルフェディリオは辛うじて覚えていた。雨の帝都に、ブロンド・パーマネントの女が立っていた。彼女の見開かれた瞳に菫が咲いていた。
「カネル、」
ヴェルフェディリオが呟いた音が、彼女の名であった。彼女がレースの傘を差し出して、ヴェルフェディリオに降り注ぐ冷たい雨を遮った。招かれるままに彼は女の胸に己を預けた。
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