「少しは落ち着いた?」

 女がそう言って、ヴェルフェディリオに質素な陶器のマグカップを差し出した。湯気を放つホットミルクの入ったそれを、ヴェルフェディリオは両手で包みこむ。彼女、カネルが働く娼館で一夜を明かしたヴェルフェディリオは、彼女に合わせる顔が無くて俯いていた。薄く膜の張ったホットミルクの表面を見つめて、「ああ」とだけ短い返事をした。

「聞かないのか」

 俺が何をしたか。ヴェルフェディリオがそう言うと、カネルがクスリと笑って、「聞かない」と言った。カネルはかちゃかちゃとケトルを洗いながら続けた。

「アナタにだって、逃げ場は必要でしょ」

 小雨の降る音がしとしとと聞こえる。もうすぐ雨は止むだろうか。ヴェルフェディリオは彼の手に温度を奪われていくらかぬるくなったホットミルクを一気に飲み干した。身体の中からカネルが与えたそれが染み渡り、じんわりとヴェルフェディリオを温める。カネル、とヴェルフェディリオは女を呼んだ。水仕事を中断した彼女は、なあにと振り返って穏やかに笑んだ。
 ヴェルフェディリオは立ち上がる。脱ぎ捨てた半袖のワイシャツをさっと羽織って、彼女のもとへ歩み寄る。そしてヴェルフェディリオはカネルを抱きしめた。彼女に触れることなく過ごした一夜で彼女に抱いたのと同じ気持ちがヴェルフェディリオの中に灯っていた。



「ありがとな。あんた、いい女だよ」



 ヴェルフェディリオは心から、そう言った。カネルはクスクスと密やかに笑う。「あら、嬉しい」。カネルのふくよかな身体がヴェルフェディリオと重なる。彼女はいとおしむようにヴェルフェディリオの頭を抱き寄せた。そうされていると、信じられないくらいに安心した。温かくて、気持ちが良かった。




 …母さん。




 ヴェルフェディリオは無意識にそう心の内で呟いた。抱き寄せられた女の温度が、どうしようもなく愛おしかった。





「突然押し掛けて悪かったな、カネル」
「いいのよ。私が好きでしたことだから」
「ハハッ、そうかよ。…ありがとう、カネル。この恩は、必ず返す」

 昼下がりのグランコクマ、美しい水上計画都市に組み込まれた、一目見てもそうとは分からない高級娼館の入り口で、ヴェルフェディリオはカネルと言葉を返す。今からここを出ればホドへの定期便の昼の出港に間に合うだろう。
 カネルには頭が上がらなかった。ずぶ濡れになった服を工面してくれたことも、宿を貸してくれたことも、ホドもフェンデも知る由もない彼女がヴェルフェディリオに寄り添ってくれたことも。

「それじゃ、今度はアナタの好きな人と一緒に御出でなさいな。アナタとその人の子供も一緒にね」
「…ああ、必ず」

 ヴェルフェディリオは、感謝を込めてカネルの閉じた瞼の上にキスを落とした。

「またな、カネル」

 ヴェルフェディリオの唇が離れていくと、カネルは密やかに微笑んだ。「またね」。ブロンド・パーマネントと、ヴェルフェディリオの愛しい人と同じ色の菫の瞳をもったひとりの愛おしい女と、ヴェルフェディリオはしばしの別れを告げる。



「………」



 しかし、
 その二人を目撃した、ひとりの男がいた。



「…ヴェルフェディリオ・ラファ」



 ぴたり、とヴェルフェディリオの動きが停止した。聞き覚えのありすぎる声がした、気がした。いやいやないないないない、ぜったいない。ここにあいつがいる筈がない。娼館から女と一緒に出てきたそんなベタな浮気現場を目撃するような奴がいる筈がない、しかもそれが俺の幼馴染で親友でしかも俺の主だなんてことがある筈がない。





「ヴェルフェディリオ・ラファ・フェンデぇええええっ!!!!!」





 帝都の中心で、ガルディオス伯爵ことジグムント・バザンが咆哮した。
 全力で逃げたかった。





「ジ、ジグっ、はなっ、話聞けって!耳!耳引っ張んなぁあああっ!?」

 ヴェルフェディリオは主に引き摺られながら悲鳴を上げた。ジグムントは一言も口を聞かないまま、ヴェルフェディリオを連れて定期便に乗り込んだ。成す術なく連れて行かれるヴェルフェディリオをカネルは諦めなさいとでも言いたげにひらひら手のひらを振って見送った。分かってんのかおい、ここ帝都だぞ。しかも日中。人の往来が最も活発な時間帯に醜態を晒すヴェルフェディリオに気を遣いもせず、ジグムントは黙して進んだ。明らかに人に見られてたぞ。軍の人間がいたらどうすんだ。それもジグムントは気にもしなかった。ただただヴェルフェディリオを顧みることなく歩き続けた。
 ジグムントが立ち止まったのは、ホドへ向かう定期便の一等客室である。扉からして一般の客室から一線を画すその部屋を使うのを、貴族や軍の連中に促されたとて、数刻のことと避けるジグムントは船に乗り込んだ途端船員に言いつけて急遽手配したのだった。ホド島領主である彼の命で船員は直ちにその一等客室の鍵を差し出した。船員から受け取ったそれを手に扉を開くと、耳を解放された途端座り込んでしまったヴェルフェディリオの背中を蹴った。「ひぇえっ!?」高級船室の柔らかな深紅の絨毯に頭から倒れ込んだヴェルフェディリオ。彼はむぎゅ、とその規則正しく並んだ毛束を顔面で感じて、すぐさまそこから身体を反転させて、ジグムントに向き直った。「何すんだよっ、ジ」グ、そういきり立つ声は、途中で止まってしまう。
 床に尻もちをついたヴェルフェディリオを見下ろす、仁王立ちのジグムントを見て。
 取るに足らない鼠ども、つまりはホドの民の頂点に立つ、ということを皮肉ってマルクト内外で『鼠の王』だか何だかと呼ばれているその男は鼠風情には見えず、途轍もない威圧感を放っていた。侮蔑さえ含まれた二対の蒼の奥で燃えるものは、怒りそのもの。ホドを束ねる王の最大の憤怒がそこにあった。あの時、セクエンツィアとの約束を破ってホド港でぶん殴られたときよりもずっとジグムントが恐ろしく思えた。それは、あの時とは異なり、今はヴェルフェディリオが明確に罪の意識を抱いているからかもしれなかった。



「セクエンツィアが、」



 ジグムントはユージェニーが出した鳩の届けた手紙の内容を既に知っているのだろう。セクエンツィアが妊娠したこと、そしておそらくは、セクエンツィアが危篤状態にあること。
 ジグムントはあの時のように怒号を飛ばしたりはしなかった。あまりにも大きすぎる怒りが、逆に彼を冷徹にさせた。静かに彼は口を開く。弾劾の言葉を、ヴェルフェディリオに投げつける。



「セクエンツィアが世界の誰よりも苦しんでいるときに、お前は一体何をしているんだ?」



 分かっている。



「お前は、セクエンツィアや生まれてくる子供が愛しくはないのか?」



 分かっているんだ。



「お前は、お前の子供に会いたくはないのか?」



 分かっているんだよ、ジグ。



 ヴェルフェディリオは、ふっと身体の力を抜いた。ジグムントの怒気に押されて後ずさってでもいたのか、すぐ背後に客室の壁が迫っていた。壁紙が隙間なく張られたそこに、ヴェルフェディリオは背を預ける。ジグムントがこちらを見ている。蒼穹がヴェルフェディリオを撃ち抜くように睨みつける。

 ジグムント・バザン・ガルディオス。
 誰よりもホドを愛し、ホドに愛される男。



「…お前のホドの預言を詠んでやろうか」



 そう、ヴェルフェディリオが唇から零れ落とすように言った。ジグムントは口を閉ざしたまま、ヴェルフェディリオを睨めつける。



ND1985 キムラスカより純白の花嫁来たる
    名を尊き乙女と称す
    彼女はホドの王と婚姻を結び
    以後ホドはさらなる繁栄を迎えるだろう」



ND1986 シグムントとアルバートに連なる乙女、婚姻を結ぶ
 名を母なる鼓動と称す
 乙女のための祝宴は三日三晩続き
 栄光の大地は花びらで満ちるだろう」



ND1990、枯らん声、自らを守るものを妻とする
 名を終わりなき歌と称す」



 ヴェルフェディリオが、預言を詠み上げる。すると、ジグムントとヴェルフェディリオの間に光とともに譜石が浮かび上がる。
 ヴェルフェディリオが詠んだのは、既に遂行された預言だ。ガルディオス、ナイマッハ、フェンデの婚礼。
 そして、これから詠まれるのは、未来である。始祖ユリアが、父ブリュンヒルトが、そしてヴェルフェディリオが視た未来。必ずや訪れる絶対の未来。

 愛するホドが滅ぶという、未来。



ND1991、ローレライの月。フェンデが長子誕生す
 名を栄光を掴む者と称す
 彼はフェンデを継ぐ最後の者である
 彼は後に、」




 だんッ、と
 耳元で鳴った轟音に、ヴェルフェディリオは口を噤んだ。途端、浮かび上がった譜石が光を失ってぽろぽろ絨毯の上に落下していく。

 ヴェルフェディリオの眼前に、ジグムントがいた。
 ヴェルフェディリオの頭のすぐ横にある壁に拳を叩きつけて、彼はヴェルフェディリオの預言を中断させた。




「預言だとか、何とかいう御託はどうでもいい」




 何を言っているんだ、ジグムント。預言だぞ。俺たちに必ず訪れる未来の託宣なんだぞ。それを御託呼ばわりしていいと思ってんのか、おい。


「お前だ」


 ジグムントは止まらなかった。
 目の前の、現在のヴェルフェディリオだけが彼の蒼穹の捉えるものであった。


「お前が、お前の子に会いたいかどうかを聞いているんだ」


 自分の目が見開かれているのをヴェルフェディリオは自覚した。揺らぐ青を貫く蒼。父が死んだ後、自宅に閉じ籠ったヴェルフェディリオを引き摺りだしたあの少年と、ひとつも変わらない目をした男。
 ジグムントの目は、あの頃と変わらず眩しい程の蒼い光を放ち、目の前の今だけを命を掛けて見据えているのだ。





「ヴェルフェディリオ、お前はずっと、お前の家族が欲しかったんじゃないのか?」





 その瞳が、いつだってヴェルフェディリオの今を切り開いてきた。




「…会いたい」




 視界がぼやける。搾り出した声が震えている。ぽた、ぽた、と両目から溢れるものがフェンデの服を濡らしていく。




「…会いたいよ、」




 泣いている。
 泣いているのだ、俺は。





「俺は、俺の子供に会いたい。抱き寄せて、頬ずりして、たくさんキスをして、愛してるって言いたい。俺とセツィのところに生まれてきてくれてありがとうって、言いたい」





 俺は、





「俺とセツィの子に…会いたいよっ…!」





 涙が、溢れて、溢れて、止まらなかった。
 涙が止まらないくらいに、生まれてくる子が愛おしかった。涙が止まらないくらいに、生まれてくる子に会いたかった。

 今やっと、気付いた。
 俺はずっと、俺の家族が欲しかったんだ。






 「栄光を掴む者」よ、これから生まれてくる俺の息子よ

 俺はお前を殺そうとした。ホドを滅ぼすであろうお前を
 俺はフェンデの人間だ。俺が預言を違えることは有り得ない
 だから俺は、この生をお前を、お前たちを守るために費やそう
 それが、俺のせめてもの償いだ

 「栄光を掴む者」

 俺の、息子よ。



Rex tremendae Y