「セツィ、」
場所はトラディス個人病院。意識を取り戻し、ベッドに腰かけるセクエンツィア。その表情は口を一文字に引き結んで、ご立腹の様子。彼女がじとりとした目で見つめる先には、病室の床に跪く夫ヴェルフェディリオがいた。傍らには共にホドに帰還したホド島領主ジグムントが腕組みをして立っている。
「お前が倒れた時、傍にいてやれなくてごめん。そんで、お前から逃げてグランコクマまで飛んでってごめん。そんで、」
ヴェルフェディリオは、騎士であり従者であり妻であるセクエンツィアに向かって、頭を下げた。
「浮気しました!ごめんなさいっ!!!」
帝都にいるであろう彼女との関係は簡単に男女の関係と切って捨てられるようなことはないが、妊娠した妻をほっぽって他の女のところに行く、というのは立派な裏切りだろう。これに関しては申し開きするつもりはない。セクエンツィアは怒り悲しむに違いないが、自分からすべてを白状して頭を下げることしかヴェルフェディリオにはできなかった。
ヴェリオさま、とセクエンツィアが呼ぶ。ヴェルフェディリオはかすかな希望を抱いて顔を上げた。
その瞬間、ヴェルフェディリオの顎に襲いかかる、高速アッパー・パンチ。
「ふごぉおおっ!?」と悲鳴を上げて宙に浮かぶヴェルフェディリオ。あれ、俺の奥さんってついさっきまで危篤状態じゃなかったっけ。受け身も取れずに床にだんっと叩きつけられる。痛い。すっごく痛い。顎はもちろん、打ち付けたせいか体中が痛い。
「ゆるします。すなおに言ってくれたから」
ぷるぷる震えながら起き上がった夫に、セクエンツィアは言った。「でも、」とうるうる目を潤ませて続ける。
「お腹の赤ちゃんが可哀想だから、もうしちゃダメですよ」
セツィ、とヴェルフェディリオは妻を呼んで、ベッドに腰掛ける彼女に擦り寄った。「ごめんよぉ〜、二度とこんなことしねーから、無事に俺の子供産んでくれなぁ〜…」「ヴェ、ヴェリオさま、泣いてます!?」あたふたと慌てるセクエンツィアの背後でジグムントがぽきぽき拳を鳴らす。「セクエを泣かせたな、ヴェルフェディリオっ!」ジグムントの激昂にばっと振り向くと、病室の入り口にはユージェニーにアクゼルスト、マトリカリア、ペールギュントに子供たち。微笑む彼らに微笑み返そうとした瞬間ジグムントの拳がヴェルフェディリオに迫った。マジ勘弁してくれ、と思いながら、ヴェルフェディリオは本日二回目となる空中遊泳をする羽目になったのであった。
深夜、自室のドアを叩くものがあった。今日は予定していた客が何故か一斉にキャンセルになったというので、早めに床に入ろうと思っていた。ベッドに寝転がるブロンド・パーマネントの女は緩慢な仕草で起き上がり、こんな時間に、と疑問を抱きながらもだんだんといくらか乱暴な手つきでノックする何者かのために扉に手をかけた。その時ふと、視界の端に移ったものがあった。床にぽつんと落ちている、ボタン。それが今朝友人か何かに連れられてここを去った男のコートに付いていたものだと女は思いだした。こんなところに落としていって、不具合はないだろうか。あの男は立派な大人のくせに子供じみたところがあるから…
女の手で扉が開けられたその瞬間、扉の向こうにいた影が力ずくで扉を開け放った。
それに跳ね飛ばされるようにして女が「きゃっ!」と悲鳴を上げて後ずさる。
上から下まで、影のような黒装束。顔さえ見えないそれが、2、3人で立っていた。本能的に危機を感じた女であるが、しかし彼女は動けなかった。戦を知らない彼女の身体、ナイフのようにその身に突きつけられた殺意だけで硬直してしまうしかなかった。
「カネル・フラットだな」
二人の黒装束を引き連れるように立つ黒装束のリーダーらしき男が彼女の、カネルの名を呼ぶ。響いた声から男だというのが辛うじて分かった。表情も何も見えなかったが、明かりを落とした薄暗いカネルの部屋で高らかに響き渡る歌のような美しい声だった。動けない唇を男は了承と受け取ったようだった。はっとして、カネルは口を開いた。震える声がどうか収まるように願っていた。
「アナタたち、何者なの?私をどうするつもり?」
その瞬間、
リーダー格の男が掲げた刃が、カネルを貫いた。
カネルは声にならない悲鳴を上げた。左肩から下半身まで袈裟がけに走った刀傷から鮮血が噴き出す。カネルは自分を襲う圧倒的な熱を前にしてその場に倒れた。
―――ヴェルフェディリオ!
最後に、己が左胸を男が貫くのを、カネルは見た。
「…なぁンだ」
カンタビレ=ジュエ家当主にしてレヴァーテインが『第3席』、パルティータは血に塗れ事切れた女のからだを覗きこむ。
「中に誰もいませんよ」
パルティータはつまらなさげに立ち上がり、窮屈な黒づくめのフードを脱いだ。パルティータの恐ろしいほど長く美しい黒髪がサアッと広がり、その場を後にする。残されたふたりの黒装束が、後始末をし始めた。数刻ののち、カネル・フラットの預言に詠まれぬ子を孕んでいたやも知れぬ身体は持ち去られ、すべてが歴史の闇に葬られた。
ND1991、ローレライデーカン・ローレライ・53の日。
52から53の日が切り替わるころ、セクエンツィアは男児を出産した。
命を失うことまで懸念されたお産であったが、幸運にも母子無事にその日を迎えることができた。
父となったヴェルフェディリオがつけた名前は、『栄光を掴む者』。
いい名前だ。きっと、将来栄えあるホドの栄光の銃士として父と並んで活躍することになるだろう。
「…エルダ?」
エルドルラルト、『栄光の世界』と名づけた我が子が、お腹をすかせているだろうに乳を吸うのをやめたのを、マトリカリアは驚いた。間もなく生後1年となる今年のレムデーカンの月にまれたエルドルラルトは、こちらから押し付けても一向に乳を吸おうとしない。マトリカリアは「そう」、と呟いた。「もう、要らないのね。エルダ」。
マトリカリアは居住いを正し、我が子をベビーベッドに寝かせた。碧空の如き両の目を優しく閉じさせると、エルドルラルトはすぐに寝息を立て始めた。マトリカリアは、生え揃った金色がかった白髪を撫でた。気持ち良さげに眠るエルドルラルトが笑う。愛おしい子どもから、マトリカリアの指先が、すっと離れていった。
「アクゼルスト」
振り返ったそこに、夫である人が立っていた。マトリカリアは、彼女そのものが光を放つように輝いていた。彼女は凛と告げた。
「わたくし、フェレスに行きます。」
「行くのですな」
もう床につく時間だと言うのに、居住いを正したペールギュントが居間に立っていた。「はい」と返したマトリカリアの声に迷いはなかった。ただ、ひとかけらの悔いがそこにあった。だが、ペールギュントはそれを振り払った。
「マトリカリア。わずかの刻であっても貴女の義父となれたこと、誇りに思いますぞ」
「ペール…お義父様、」
行きなされ。そう告げたペールギュントに一礼した。栄光の銃士として長きを共にし、そしてナイマッハの花嫁となったマトリカリアを温かく迎え入れてくれた老爺への感謝であった。
「母さん?」
その時である。
ペールギュントの後ろから、居間に入って来た少年。もうひとりの我が子、メルトレムが、うとうとした碧眼を擦って母を呼ぶ。
「母さん、どこに行くの?」
瞬間、マトリカリアの中であらゆる感情が甦る。父と結婚しながらも、ノクトゥノーンの妻になることを預言に詠まれてフェレスに去った母。絶望し、自分を『捨石の座』としてガルディオスに差し出した父。置いて行かれた自分を家族として迎え入れてくれたガルディオス家の弟妹たち。共にホドを駆け抜けた幼馴染たち、そして、自分を受け入れてくれたアクゼルスト。
彼女は望むべくもなかった全てを手に入れた。
そして今マトリカリアは全てを、我が子すらも手放して、母と同じことをする。
我が子に、自分と同じ想いをするのを強要する。
「…メルトレム」
マトリカリアは跪き、息子メルトレムの頬に手のひらを寄せた。メルトレムがくすぐったそうに身をよじる。その様子が愛おしくて仕方がなかった。今すぐ抱き寄せたかった。
想いを巡らせば、見えるようだ。メルトレムの、エルドルラルトの、我が子らの未来が。マトリカリアに預言を詠む能力はないが、この子らの未来ならば容易くこの目に浮かぶ。マトリカリアと同じくらいの背丈になったメルトレムが、エルドルラルトが、支え合って生きる未来。そこではふたりが笑っているのだ。父とよく似た笑顔で、マトリカリアの一番大好きな笑顔で。
「いい、メルトレム」
エルダを、守るのよ。
エルダがあなたをそうするのと同じように。
メルトレムは碧空のような瞳を見開いて、母の言葉を聞いていた。マトリカリアが立ち上がる。「さあ、メイ」と息子を寝室に戻るよう促すペールギュント。そして、マトリカリアは歩き出す。アクゼルストの隣を通り抜けて、歩き出す。アクゼルストはもう付いて来なかった。マトリカリアの靴音だけがナイマッハ邸に響いていた。
一度だけ、振り返ったそこに、アクゼルストが微笑んでいた。へんにゃりとして能天気な、世界で一番、愛おしい笑顔。マトリカリアはその笑顔に、暫しの別れを告げる。
とても、いい夜だった。ホドの上で三日月型の月が輝き、譜石帯に寄り添っている。譜業灯の少ないホドは星がよく見える。幼いころはよくアストラに連れられて皆で星を見に行ったものだ。今はアストラエア自身が眠る丘で。マトリカリアはステップを踏むように歩いた。マトリカリア以外に立つ者のない道を、踊るように進んでいく。足取りは驚くほどに軽かった。ホド・マーブルの石畳の上を跳ねるように歩いた。その足が向かう先に、人影があった。
ユリア大通りに続く噴水広場に、ジグムント・バザン・ガルディオスが立っている。蒼い瞳の青年がマトリカリアを見つめている。マトリカリアはステップを踏んで噴水広場に入り込み、噴水の麓に立つ彼の横を通り過ぎた。ジグムントとマトリカリアの先祖である聖ホリィの噴水の水音だけが響くそこで、マトリカリアが背にしたジグムントは口を開く。
「行かせたくない」
ぴたり、とマトリカリアの歩みが止まる。「貴方なら、そう言うと思った」。ジグムントは堪え切れず首を横に振った。ジグムントの二対の蒼から涙の粒が飛び去った。
「行って欲しくない…っ!」
噴水から生じる小波の音混じ入るように、ジグムントが泣く。零れ落ちるそれを拭いもせず、ジグムントは泣いている。姉に泣かないでと言って欲しかった。ガルディオスの跡取りが簡単に泣いてはいけません、と、涙を拭って欲しかった。
だが、マトリカリアにはできなかった。
彼女はホドを離れていくのだから。ホドにいない人間が、ジグムントの涙を拭ってやることはできないのだから。
「ジグムント。私とユリアナの、かわいい弟」
マトリカリアは振り返る。
「貴方は、ホドで生きなさい。ホドで生き、貴方が受け止められる分だけの人を、幸せにしておあげなさい」
アストラが、そう望んだように。
マトリカリアはジグムントに、弟に背を向けた。月夜の下でダンスするようにユリア大通りを駆けていく。
「さあ、涙を拭いて!」
マトリカリアがダンスのステップをやめたのは、ユリア大通りから一本脇道にそれたミケーネ通りにあるトラディス個人病院である。彼女は迷いなく病院へ入り込み、足音を立てずに歩いた。診療室を抜け、譜業灯のない薄暗い廊下を抜け、やってきたのは病室のうちのひとつだ。そこにはふたつのベッドが置かれている。一つには、昨晩ホド一番の大仕事を終えたセクエンツィア。それに、彼女の手を取って椅子に腰かけたまま眠りこんだヴェルフェディリオ。どちらも緊張の糸がぷっつり切れてしまったのか、深い眠りに落ちている。ふたり揃って、幸せそうな寝顔して。マトリカリアはクスッと笑った。しっかりと握られた手が、これからも離されないようにと願った。
もう一つのベッドに、マトリカリアは歩み寄る。
セクエンツィアの横たわるベッドよりずっと小さなそれ。そこに横たえられているのは、昨晩生まれたばかりの赤ん坊である。純白の布に包まれて眠るその子は、どこか神聖だった。ヴェルフェディリオとセクエンツィアの息子。『栄光を掴む者』、そう名づけられた子供。
「…『栄光を掴む者』、」
マトリカリアは赤ん坊の名前を呼んで、いとおしげに触れるだけの撫ぜ方をした。赤ん坊の眠りを解き放たぬよう、ただ安らかに眠り続けていられるよう。
「あなたの上に、どんな預言が詠まれているとしても」
月がきれいな夜だった。病室の窓から入り込む月の光が、眠るヴァンデスデルカを明るく照らしていた。まるで祝福のようだと思った。このように、ホドに生きる者たちは皆、ホドに祝福されているのだ。皆が。例外なく。例えホドを知らなくとも。ホドが跡片もなく消えたとしても。
この祝福は、消えない。
「私は、あなたの誕生を祝福する」
お誕生日、おめでとう。
マトリカリアはヴァンデスデルカの頬に唇を落とした。唇が離れていくと、マトリカリアは病室をひらりと立ち去った。彼女の音のない足音が去ったあと、ただ病室にはフェンデ夫妻と、ホドの五月の女王の祝福を受けた子どもだけが残された。
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