どこか見覚えのある場所だ。ジグムントは思った。そう、ここは聖ホリィの噴水広場だ。ガルディオス家の屋敷からすぐのそこは子供のころからの遊び場所だった。ヴェルフェディリオも、アクゼルストも、レクエラートも、皆はじめはそこに集まってくる。それから昨日と同じ楽しい今日が始まるのだ。一番年上のアストラエアが中心になって、ホドを自由に駆けまわる。ホドのすべてが、子供たちの遊び場になる。そして、日暮れにはまたここに集まって、それぞれの家に帰っていくのだ。今日と同じ楽しい明日を迎えられるように、ぐっすりと眠るのだ。
夕暮れに染まる噴水広場で、どうして自分はここにいるのだろう、とジグムントは思った。こんなところで、一人きりで。そこには誰もいない。ジグムントだけがそこにいる。石畳の上でぽつんと立っている。ぶるっと震えて、ジグムントは辺りを見回した。まだ少年のころのジグムントが知らず潤んだ目を開いた先に、誰かがいた。ジグムントはその名を呼ぼうとした。声は音にならずにわずかに空気を震えさせた。
姉さん。
オレンジ色に染まった噴水広場の向こうに、姉たちが立っている。実姉ユリアナと、従姉マトリカリア。ジグムントとかけ離れた眩いばかりの金髪の少女らがそこに立っている。ジグムントは彼女らの元へ走った。わずかに見えたその距離はいくら走っても縮まらなかった。ジグムントが伸ばした手は彼女らに届かない。ジグムントが叫んだその声は彼女らに届かない。むしろ、ジグムントは彼女らからますます遠ざかっていくようだった。ジグムントは泣き叫ぶように姉らを呼んだ。ホドの夕日がぎらぎらと目が痛くなるくらいに照りつけた。血に染められたような赤が噴水広場に色をつけた。
ジグムントは一人だった。
たまらなく、一人であった。
…ムント…
声が聞こえる。誰の声だろう。ジグムントは心地よい闇に沈んだ意識で考える。誰かが自分を呼んでいることは分かるのだが、誰だか分からない。そもそもここはどこだろう。先程までとてもとても懐かしい場所にいたのだと思うのだけど。焼けつくような夕日の眩さはもうここにはあらず、ただまどろみがある。心地よいまどろみだ。
…ジグ…ジグムント…
ひょっとしたら、ユリアナ姉さんかマティ姉さんだろうか。いや、有り得ない、とジグムントは即座に否定する。姉さんたちは自分のことをジギィと呼ぶし、それに今の声のように耳触りにがなり立てたりはしない。それに…
「…ジグッ!いい加減起きろっつってんだ、この寝ぼすけ!」
弾かれたようにジグムントは顔を上げた。目の前には書類の山、山、山、それから、こちらを見下ろすヴェルフェディリオ。その表情はおよそ主君に向けられるはずの敬意だとか畏れだとかそういうものは伺えず、執務中に眠りこんだ幼馴染への呆ればかりが滲んでいた。腰に手を当てて仁王立つ彼は、はあ、とため息をついて今の今までジグムントが突っ伏していた執務机に置いてある一枚の書類を取り上げた。そのジグムントが頬を押し付けていたあたりには、くしゃりと皺が寄り、しかもよだれの染みがしっかりついている。
「あーあー、書類無駄にしちまって…って何だ、書き損じかよ。落書きまでしてるし。この絵チーグルか?耳が特徴的だから分かるけどさあ、お前ってほんと絵はダメな…」
「う、う、うるさい」
ヴェルフェディリオがぴらぴらと手で遊ばせる書類の端っこには、二匹のチーグルが描かれている。はじめに書いたとみられる一匹の方は左右の耳の大きさがまるで違う。それを省みたか、二匹目の方は均等なのだが、両目の白目の大きさが違いすぎて何とも言えない気持ち悪さがある。これじゃ眼鏡でもかけさせた方がマシだなあとヴェルフェディリオは思ったが、眼鏡をかけたチーグルなんていてたまるかと首を振った。それにしてもこの絵じゃうちの息子くらいの年の子供が描いたと言ってもおかしくない。いや、ヴァンデスデルカの方が上手いんじゃあないか、きっとそうだ、と、思考が明後日の方向へ、具体的に言うと愛する妻子のほうへ行ってしまいそうなのを、ヴェルフェディリオはすんでの所で踏み止まった。「ま、それよりもだ。本題はだな」と居住いを正してジグムントに向き直る。
「お前、少し疲れてるだろ」
ヴェルフェディリオの指摘したことに、ジグムントはふいと視線を逸らした。それが肯定であることは明らかだった。ジグムントは自他共に認めるサボリ魔だが、自身の力量はきちんと把握している。自分のできる容量を越える前に脱走するなり何なりして休憩くらいはできるのだ。「何でか言ってみろよ、ま、大方想像はつくけどな」と畳みかければ、ジグムントは口を開くしかなかった。
「…また、奥義会の連中に口煩く言われたよ。ガルディオス家の跡取りはまだか、と」
そう。近頃ジグムントを悩ませるのは、ガルディオス家を継ぐ男児の不在であった。
ここマルクト帝国では、貴族の女子が爵位を継ぐことは認められない。ジグムントとその妻ユージェニーにはマリィベルという今年で10歳になる子供がいるが、彼女は女児なのである。ユージェニーがキムラスカから嫁いできて10年余り。そろそろ…という声が起こるのも、言ってみれば無理もないことである。ガルディオス家を盟主とし、代々アルバート流シグムント派剣術を口伝してきた奥義会の面々はもちろん、ホドの島民たちもガルディオス家の跡取りの誕生を期待していることは明らかだ。近年になって、その物言わぬ期待感は実しやかに語られるようになった。ホドを目の敵にする本土の貴族たちも、そのことに関して遠回しに触れたりもするし、ひどいものでは人前でねちねちとあげつらう連中もいる。ジグムントやユージェニー自身がどう思っていようと、四方八方からそんな声が上がれば気も滅入るというものだ。
ジグムントが無意識にはぁ、と深くついたため息に、ヴェルフェディリオはこつんと人差し指でジグムントの額を小突いた。僅かにジグムントの頭が前後に揺らぎ、目を丸くした彼に、ずずんとヴェルフェディリオは顔を寄せる。反射的に額を押さえたジグムントと、呆れ顔のヴェルフェディリオの顔が、数センチスまで近付いていた。
「…あのなあジグムント、お前がそんな顔しててどうする?今のお前、ひっどい顔だぞ」
「そんなにひどいか?」
「自覚ナシ、か。いいかジグ、お前はもっと幸せそうな顔してなきゃダメなんだよ。ほら、マトリカリアだって言ってたろ。自分を幸せに出来ない奴が、ホドの皆を幸せに出来ると思うか?そんなんじゃ…」
ぴくり、とジグムントの表情が震えた。それは震えた形のまま固まって不自然な表情を形作った。無理に笑おうとしているのに笑えない、そんな顔だった。その顔は、ジグムントにはおよそ似合わないように、皮肉げに口元を歪める。そこから漏れ出る音は想像よりずっとアイロニックに響いた。
「『そんなんじゃ、ホドの皆を幸せにできない?』」
ジグムントの表情を切り替えたスイッチをヴェルフェディリオは漸う理解する。
『マトリカリア』。
その、たった6音節が、前までのジグムントならば絶対にしなかったような笑い方をさせるようにした。
「ヴェルフェディリオ、『皆』とは誰だ」
「ジグ…?」
「ホドに住まうすべての民、それが『皆』。それに嘘偽りはない。だが、ほんとうは『皆』というのは、ここホドの恵みを受けたすべての人々ではないのか?私はユリアナを、マトリカリアをここに留まらせられなかった。彼女らもまた、ホドの人間ではないのか?彼女らを幸せにできなかった私は、ホド領主に足る存在ではないのではないか?」
ジグムントは、いや、と首を横に振った。
「『ホドの皆で幸せになる』ことなんて、」
できないのではないか、と、そう続けようとしたジグムントを制したのは、ヴェルフェディリオが執務机に右手をつくどん、という大きな音だった。
「その辺にしとけ、ジグ」
「………」
「今のお前の言葉じゃ、『実際に今ホドに住まう人間』を幸せにすることさえ諦めようとしてるようにしか聞こえないぜ」
ジグムントとヴェルフェディリオの間に沈黙が落ちる。ジグムントの瞳の奥を見抜こうとする厳しいヴェルフェディリオの目、暗く淀んだジグムントの目。ヴェルフェディリオの視線を逃れるように、ジグムントは俯く。迷子になった子供のように、成す術なくそうする幼馴染を見下ろすヴェルフェディリオは悟るのである。
マトリカリアの喪失は、この5年間でますますジグムントを損なっているということを。
その時、がちゃりと執務室のドアが開いた。と同時に、「へひゃあっ!?」と何とも気の抜けた悲鳴が上がって、間もなくどたんっと床に倒れ込む音。ジグムントが、ヴェルフェディリオが、双方件の闖入者に視線を向けて、へなへなと脱力する。いてて、と強かに打ちつけた鼻を擦りながら、床に尻をついたアクゼルストがへんにゃりと柔らかく笑顔を浮かべた。
「あはは、転んじゃった〜。ジグにベル、一体何の話してたの?」
「…や。何でもない。主にお前のおかげで、何でもない」
「ベルったら可笑しいな。僕のせいで、でしょう?」
分かってんのかよ。ヴェルフェディリオはげっそりしてため息をついた。ジグムントとは言うと、いつもの調子のアクゼルストに流されて調子が戻ったのか、ホド領主らしく何かあったのか、とアクゼルストの来室の理由を問いただした。途端、アクゼルストの顔から間抜けさが消えて、真綿のように柔らかな食えない笑みだけが残った。
「事件だよ」
事件?
ジグムントとヴェルフェディリオは、顔を見合わせる。アクゼルストの笑みが、それがただごとではないことを告げていた。
ホドに再び嵐が迫っていた。
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